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奇跡はここに、悪役令嬢 ~カトレアは一途に光を見つめる

作者: 日野

        1


 これから列車に乗ろうという義母に追いついたとき、カトレアは快哉を叫びたくてしかたなかった。


「カトレアさん!?」


 驚きを隠さない義母――リシューを抱きしめたくなる。


「間に合ったようですわね!」


 かかとの低い靴も、急いで走ることにも不慣れだ。それでもリシューに追いつきたくて走った。彼女が汽車に乗ってどこかに行ってしまう前に、どうあっても追いつかねばならなかった。


「あなた……どうして」


 リシューの声に被さって、出発を告げる鐘が響き渡った。


「定刻です! 汽車が出ます! お客さま、ご乗車ください!」


 駅員の声に警笛が重なる。

 大きなカバンを持った義母を汽車に押し込んだ。おなじく大きなカバンを持ったカトレアも、汽車に乗り込んでいく。

 手にした切符に書かれた文字と、車内に掲示された案内を照らし合わせる。リシューもカトレアも個室を取っていたが、おたがいの部屋は離れていた。


「お部屋、ご一緒しても?」

「え、ええ……かまわないけど、カトレアさん、どうしてここに?」

「もちろんお話ししますわ!」


 汽車の旅をゆったり楽しむには個室、と新聞の広告記事で見ていた。それ以上の知識はなかったが、到着した部屋にはソファもベッドもあり、小振りなホテルの一室のようだった。

 動き出した汽車はそれなりの騒音と揺れがあった。すぐに慣れるていどのものだが、ひとによっては汽車酔いを起こすそうだ――それも新聞での知識だ。


 目で追い続けられないほどのはやさで、窓の外を景色が流れ去っていく。

 蒸気動力で動く鉄道列車――長距離移動の速度と利便性を一気に向上させた、技術の粋を集めたものだ。

 完成し運用開始となったのが一年前、カトレアが結婚したころである。


「いつか乗ることもあると思ってましたけど、こんなにはやく進むんですね」

「ぼんやりおもてを見ていたら、あっという間に知らない土地に着いてしまいそうだわ……それでカトレアさん、今日はどうして」


 こたえようとしたとき、車室のドアがノックされた。

 スライドドアが開き、制服に身を包んだ車掌が入ってくる。


「切符の確認に参りました」


 リシューがまず切符を差し出し、続いてカトレアもおなじく車掌に提示する。


「別室なのですが、ホームで偶然乗り合わせるのに気がついて……恩師なんです」


 驚いたのか、リシューがわずかに目を見開いた。


「ああ、そうなのですね。習い事の先生かなにかで?」

「マナーを教わったんです」

「なるほど。終着駅までご一緒なさっても構いませんよ。追加の簡易ベッドもあるのですが……寝心地がお勧めできないので、お休みになるときはご自分の部屋でお休みください」

「ありがとうございます」


 去っていく車掌を、カトレアは微笑んで見送った。

 切符をポシェットにしまいこむ。慌てて買ったときにしわくちゃにしてしまったが、カトレアが婚家を出た記念そのものだった。


        ●


 カトレアもリシューも、汽車の旅を満喫した。

 二泊三日のなか、カトレアは婚家に戻らない決意を強固にしていた。

 ――義両親が離婚する。

 それを聞かされたのは、すでに荷物をまとめたリシューが婚家――ディオラ伯爵家を後にしてからだった。


 朝食の席に義母の料理は用意されず、発ったという事実だけを知らされた。

 ほとんど愛人宅から戻らない義父が着席していたのは、家長としてリシューが過去の人間になると告げるためだった。

 カトレアの夫であるマークスは平然としていた。すでに知っていたのだろう。


 義母がいなくなる。

 カトレアにとってそれだけで十分だ――ディオラ伯爵家にいる理由がなくなった。

 手をつけていない朝食を前に、カトレアはなにか叫ぼうか迷った。

 叫ぶか、なにかをめちゃくちゃに壊すか。

 殴るなら、相手は義父アルバンでもマークスでもいい。


 だがすぐにその考えは撤回した。

 ふたりとも叩く価値はない。

 無言で席を立ち、自室で荷造りをはじめた。おもに金目の物を選び、ついでにあれこれを詰め込み、家令などに行き先を告げずに屋敷を出ていた。


「やっぱり殴ればよかった」


 馬車に乗ってから、そんな愚痴がこぼれた。

 御者から義母が馬車に乗る際に駅を指定していた、と聞き出していた。屋敷には複数の馬車と御者がおり、そちらの御者はまだ戻っていないはずだ。使用人たちは慈悲深かった義母を案じ、カトレアにはそれが痛いほどわかった。


 行き先が御者から漏れるのが癪で、町中で乗り合い馬車に乗り換えた。

 便利なことに、到着した駅では今後の列車の行き先が大きく掲示されていた。ひとつの地名に目が吸い寄せられ、カトレアはその切符を買い――まさしくその列車に乗り込もうという義母を見つけていた。


 列車の行き先はオベリア。

 ディオラ伯爵家の次男ローエンが暮らしている土地だ。

 カトレアが迷わず切符を買った理由だった。


「線路がもっと先まで敷かれたら、どこにでも行けそうね」

「リシューさま、汽車じゃなくてもどこにでも行けますわ。今度は船に乗ってみます?」

「楽しそう。でも私、泳げないの」


 沈没することを心配しているのか、リシューは残念そうにする。


「じゃあ、船に乗る前に泳いでみましょうよ。女性向けのビーチがあるそうですから」


 リシューが嬉しそうに笑った。

 汽車が運営を開始し、若い恋人や夫婦たちの間で旅行が気軽なものに変わっているらしい。これまで馬車で延々揺られた時間が、半分以下で目的地に到達できる。運賃は張るものの、余暇の楽しみ方だけでなく事業の推進も桁違いになるだろう。


「失礼します」


 入室してきた給仕の女性が、折りたたんだ便箋を差し出してきた。

 開いてみると、店名と料理名などがびっしりと、複数の筆跡で綴られている。


「奥さまたちとお話しさせていただいて、わたくしどももとても素敵な時間を過ごさせていただきました。お話しの最中に出た店など、みんなで書いたものです。よろしければ……」

「まあ、楽しみだわ、こんなにたくさん」

「お仕事もあるのに、わざわざありがとう」


 女性は微笑み、礼をして車室を出ていった。

 列車で働くものたちは、みな国内外を勤務中に往復している。各地の観光名所や美食にくわしかった。

 オベリア周辺は果樹園が多く、王室が所有する狩り場もある。肉に果実のソースを合わせたものが人気らしく、便箋には追伸として「どのお店もソースが格別!」と書いてあった。


「親切な方に出会えると、思い切って汽車に乗ってよかった、って思うわね」


 汽車がオベリアに到着し、リシューが荷物を手にした。


「これからも幸運続きですわ、きっと」


 手早く一筆箋にお礼の一言を書き、テーブルに置くとリシューの背に続く。

 一筆箋に親切の特効薬である多めのチップも添える――快適な旅をありがとう。


        2


 事前に手配済みのリシューと違い、カトレアは押しかけてきた体だった。

 しかし嫌な顔ひとつせず、主であるローエンの義姉に当たるカトレアはもてなされた。


 オベリアはいいところだった。

 なにもないのだ。

 果樹園と酪農家の牧場以外、なにもない。

 道は延々と続き、ひたすら歩く以外することがなかった。歩くためにカトレアは乗馬服をあつらえ、わざわざ着替えて散歩に出ている。


 毎日通り過ぎるカトレアの顔を覚えた飼育されている山羊たちが、柵越しに鳴きながらとなりを歩く。

 よくしゃべる山羊たちがなにを言っているのかまったくわからないが、時々笑いが止まらなくなるほど楽しくなった。

 婚家にいたときに、こんな気持ちになったことはない。


 オベリアでの滞在がひと月になったころ、散歩する道の向こうから馬車がやってきた。

 ディオラ伯爵家の紋を掲げた馬車は通り過ぎ、それから止まった。

 行き過ぎるとき、車窓をのぞく男性と目が合っている。

 次男のローエンだ、結婚式で一度顔を合わせている。


「失礼、カトレアさんですか」


 リシューに似た、柔和そうな顔だ。兄のマークスと似ていない。これまでの経緯があるためか、思い浮かべた夫の顔は狡猾そうなものに変じている。


「お久しぶりです、ローエンさま。お戻りですか? お会いできて嬉しいわ」

「ええ、お久しぶりです。お元気そうでよかった。家令から母とカトレアさんがいらしていると手紙がきたので」


 邸宅にいたのは、まだ若いが仕事のできそうな家令だった。

 そこで散歩は終了にした。


 馬車に乗り、山羊の声を名残惜しく思いながら屋敷に戻る。

 延々頭をからっぽにして歩いた道も、馬車だとあっという間に通り過ぎた。

 到着してみると、屋敷の玄関前にリシューや使用人が出迎えに居並んでいる。道をやってくる馬車はよく目立つ――おそらく、ひとり散歩するカトレアの姿も。


「ローエン、元気にしてた?」

「母さんこそ――離婚だなんて、よく思い切ったね」


 彼の口ぶりに、カトレアは耳を大きくする。反対していないどころか、母の離婚を心待ちにしていたかのようだ。

 ふたりが向き合うと、とてもよく似ている。色味の薄い金の髪も、落ち着いた鳶色の瞳もそっくりだ。どちらかというと冷徹そうな顔立ちなのに、話すととても柔和な印象に変わる。

 首都で暮らしているはずの、義父と夫の髪も瞳も黒いふたりとは違う。


 色味でさえ二分されていたあの家で、リシューだけがカトレアにとって明るい要素だった。カトレアはどちらにも属さず、栗色の髪と青い瞳を持っていた。


「俺の成人なんて、待たなくてよかったのに」

「なにをいってるの。私のことより、あなたはどうなの? 仕事仕事で、睡眠不足になっていない?」


 抱擁し合った母子の目がカトレアに向けられる。


「カトレアさん、一緒にここまで来てくれて」


 その理由は汽車でリシューにざっと話してある。

 べつに隠す気はないのだ。


「私、マークスさんと離婚するので、リシューさまについてきたんです」


 リシューとカトレア以外のその場の顔が、みな驚きに塗り替えられていく。


「あとでローエンさまの事業のお話を聞かせてくださる?」

「え、ええ、それは構いませんが」

「楽しみですわ――馬車に乗せてくださってありがとう」


 使っている客間に向かうべく背を向けると、家令の短い号令で使用人たちが動き出すのがわかった。

 夕食はいつもより豪勢なものになるかもしれない。

 オベリアの料理は口に合った。まだ汽車で手に入れた名店リストを巡っていないが、出かけてみないかリシューにかけ合ってみよう。




 料理はすばらしく、メニューの説明に出てきた料理長は嬉しそうだった。

 主であるローエンに拾われた、と耳にしている。務めていたレストランが廃業になり、路頭に迷いかけたところにローエンが声をかけた。妻子ごと邸宅に住み込みで働き、料理長同様の境遇のものが何人かいる。


 鉄道事業のあおりだ。

 線路に沿った町――とくに駅のつくられた一帯では、労働環境がそれこそ天地がひっくり返ったように変わっていた。

 それまで堅実に働いてものたちが職を失い、土地を立ち退くことになるのは珍しくなかった。

 資産に乏しい平民は、環境の変化で窮地に追いやられがちだ。


 食後に遊戯室に集まり、母子の歓談に同伴させてもらった。

 リシューもローエンも健康報告からはじまり、いい話だけをおたがい報告し合っている。


 使用人は退出させ、カトレアはかたわらで飲みものをつくることにした。

 ローエンはともかく、リシューは酒をたしなまない。なので彼女の飲む果実水やお茶にすこしずつ酒を混ぜていった。

 酒は舌の動きを滑らかにする。


 ちょっと肩の力を抜いてほしかった――のだが、矛先がカトレアに向いてしまった。


「離婚するってどうして事前に相談してくれなかったの?」

「私はいいですから、リシューさま、ローエンさんとお話して……」

「まさか私のせい? 私が離婚したがってるの伝わってたの?」


 なんだかリシューが泣き出しそうに見えて、胸が苦しくなる。


「そんなことはないです、リシューさまがあちらを発たれて、心から驚いたんですから」

「そ、相談だって……」


 相談は絶対にしなかっただろう、カトレアは離婚するかどうか悩んでいないのだ。

 結婚前から、早々に離婚するつもりでいた。


 乾燥させた小魚を炒ったものや、木の実、チーズが酒の肴として用意されている。ひとつずつリシューの前に出していく。ひとつずつリシューは口に運ぶ。その隙間にちょっとだけ濃く酒を垂らした果実水を渡すと、それもおとなしく口にする。


「それ、けっこう酒が……」

「ローエンさまも、おかわりしますか? 飲みもの、進んでらっしゃらないようですが」

「あまり強くないんです。母に似たので」

「マークスさんは伯爵さまに似たのですね。それにしても、マークスさんってどうしてあんなに伯爵に似てるんでしょう。もうちょっとローエンさんみたいに、リシューさまに似てたらよかったのに」


 そういわれてもリシューだって困るだろう。言ってしまってからそう思ったが、リシューは両手に木の実を持って笑い出した。


「そりゃあそうですよ、私の息子じゃないもの」


 円卓でそれぞれの顔が目に入るせいか、笑いながら木の実を囓るリシューと、様々な感情が表情に浮かんでは消えるローエン、母子ふたつのそれがいっぺんに把握できる。


「む、息子じゃないというと……?」


 好奇心に負けたカトレアが尋ねると、ローエンの顔に「知りたい」と「聞いてはいけない」のふたつの感情が交互に現れるのが見えた。


「売れっ子娼婦だったのよ、マークスのお母さまは。ディオラの血が流れているからかまわない、って。私の生家の……アンペールの血はべつにいらないそうよ」

「ど……どうして、受け入れたんですか……?」


 こぶしをきつくにぎったローエンは、厳しい顔つきになっている。

 ただの私生児ではないのだ――娼婦の子とリシューが断言した。


「あの子のお母さま、マークスを産んだら……あの子をいらないっていって出て行っちゃうんだもの。伯爵も伯爵で全然興味しめさなくて……」

「育児、なさったんですか?」


 貴族女性が子を育てるのは珍しい。


「マークスが三歳になるまで、ね。そのあとは、伯爵の縁故で環境のいいところに――伯爵と一緒に」


 三歳――マークスとローエンの年齢差がそれだ。


「もしかして、おなかに」

「ええ、ローエンがいたの。赤ん坊の泣く声はもういやだっていって……あんなにかわいい声なのにねぇ」


 空になったグラスを、リシューはぐい、と突き出してきた。

 それを受け取ろうとすると、横からローエンにグラスを奪われた。


「……飲ませすぎだ」


 グラスに水を注ぎ、ローエンはリシューの手に戻した。


「三歳だって泣きますよね」

「マークスを預けて、本人はどこかにいってたみたい」


 水を飲み干すリシューと、頭を抱えるローエン。

 そんなふたりを前に、カトレアは確かめたいことができていた。


「リシューさま……訊いておきたいことが」


 おそるおそる、リシューの顔をのぞきこむ。ローエンがやめろ、という目をしたが、引っ込め、という気持ちで微笑んだ。


「なぁに?」


 リシューがグラスを渡してくる。目元の赤いリシューに、果実水を注いで返した。


「売れっ子だったんですよね、マークスさんのお母さまは……お父さまって、確実に伯爵なんでしょうか」


 ローエンが顔をしかめている。そんな顔もするのか。


「えー?」


 リシューがやけに明るい笑い声を上げた。ぞっとするほど明るくて、無責任な声だ。


「違うわよ。そのころの一番客ってひとが、マークスそっくりな方なのよねぇ」


 ぐびぐびと果実水をのどに流し込み、リシューは肩で息をした。


「なんでかしら、伯爵、父親候補がいるって思わなかったみたいなのよね」

「どうして、いままで黙って」


 強張った声でつぶやいたローエンの手に酒瓶をにぎらせる。


「そのあたり、先に知りたかった気分ですわ、リシューさま」


 リシューが手を伸ばしてくるので、カトレアはにぎり返した。


「そうよね、ごめんなさいねカトレアさん……あなたはディオラに戻ったほうが」

「それはいやですし、あり得ないです」

「……まだまだ先があるでしょう? 後継者だって」


 孫、といわないあたり、酔いも手伝ってか本音が出ているのだろう。

 木の実を一粒口に入れ、カトレアは首を振る。


「マークスさんの子供はできないですよ。たぶん伯爵がうまくやったから、味をしめたんでしょうね」

「味?」

「ええ。愛人が孕んだら、私との子供だと届け出ると」


 母子が唖然とする。

 カトレアは笑わなかった――笑えない。

 結婚前にその条件を出され、唖然としたのだから。


「ま、待ってくれ……それはさすがに」

「ちなみに、最初からその条件です。リシューさまたち、ご存じなさそうだなー、とは思っていました」


 それでもカトレアが条件を呑んだのは、婚約が打診されたころから変わらない――家名を負っての結婚になると覚悟があったからだ。


「私も条件を出していますよ。夫婦の義務をおこなうのは、性病完治の医師の診断書があれば、と」


 リシューとローエンが揃って頭を抱える。よく似た悲壮な表情を浮かべたふたりに、なんだか申しわけなくなった。

 そんな顔をさせたいわけではなかったが、カトレアが取れる自衛手段はそれだけだったのだ。


「マークスさんは少なくともこの一年、ずっと性病に罹患したままです。それもしかたないですね、娼館通いを止められずにいますから」


 無言で酒をローエンが自分のグラスに注ぎはじめた。リシューが手元のグラスを息子に突き出すと、やや迷ってから彼は酒を注ぐ。

 黙って呑みはじめたふたりのためにカトレアはひとを呼び、追加で酒を持ってくるよう声をかけていた。


        3


 オベリアに到着してすこし経ってから、カトレアは夜な夜な手紙を開封し目を通していた。

 ディオラ伯爵家を発つときに持ち出したものだ。

 リシューがそうだったように、カトレアもまた、ディオラ伯爵家の事業や家内における対外的な処理をおこなっていた。

 補佐の領域を超えて働くものがいるから、当主父子は遊んでいられる。


 ごっそりとかき集められるだけかき集めて持ち出した手紙と書類は、リシューないしカトレアでなければ理解と把握に時間のかかるものばかりだ。

 カトレアの抜けた穴が障害となるには、まだ時間がかかる。だがそれで最初に損害を被るのは現場の人間だ。

 ディオラ伯爵家の事業は、領地で展開する牧畜業を元にしている。そちらに被害が及ぶことのないよう、カトレアは選り抜いた手紙の返事を書く。


 肌寒くなってきたころ、カトレアは散歩を見送るようになった。根を詰め過ぎないていどに中庭の席を占領し、ペンをにぎっていた。

 もし風が吹きはじめたら底で休憩を――そう思っていたのに、まったくの無風だった。


 便箋に向き合って二時間ほど経ったころ、足音が近づいてきた。

 顔を上げると、ローエンが微笑んで立っていた。


「冷たいお茶でもいかがです?」

「……いただきます」

「お忙しそうで、声をかけていいか迷っていたんです。けっこうな量ですね」


 積み重なった手紙の数は確かに多い。

 滞在している客――そんな立場で考えたとき、カトレアの前にあるのがおかしい分量が積み重なっていた。


「ディオラの事業のものです。最終決定以外は、ほとんどリシューさまと私が代行してましたから」

「休暇に手紙を持ってきたんですか」


 彼が手を振ると、使用人がワゴンを押してくる。お茶と焼き菓子が運ばれ、カトレアはインクの乾いた便箋を封筒にしまった。


「休暇じゃありませんよ。最終整理のようなものですし」

「……本気で兄と離婚を?」

「結婚したというより、奉公に出たような状況ですから」


 奉公人としては破格の状況だ。だからといって、この状況は笑っていられるものでも、いつまでもそうしていようと思えるものでもない。


 冷えているお茶は、注がれたグラスの表面にはやくも水滴を生じさせていた。

 使用人が下がっていき、カトレアは口をつける。

 爽やかな後味で、休憩に最適な味だ。もうちょっと経ったら、寒くて飲めなくなるだろう。


「カトレアさん、母についてきてくれたのは……どうしてなんでしょう」


 真っ先に本題らしきものを口にするローエンに、カトレアは笑ってしまった。


「リシューさまが大事だからですわ」

「……母は確かに面倒見がいいひとです。ですが」


 ふと夫を思い出した。

 彼と過ごした時間で、くつろいだ気分になったことはなかった。残念にさえ思えず、ため息ごとお茶を飲み干していく。


「家令から連絡があったとき、カトレアさんが遊興でいらしたのだと思っていました。母を支えてくれるとは……親しくなっているとは」

「噂もありますからね、仕方ないですよ」


 気まずそうにローエンが目を逸らした。

 貴族令嬢のうち、乱暴な気性を持っていると敬遠される名が複数あり、そこにカトレアも含まれている。


「荒唐無稽だと思いますが、カトレアさんと交流もなかったので……真偽を見定める機会もなくて」


 ローエンは公平な人物のようだ。だからカトレアは話を続ける気になった。


「夜会に出席すると、羽目を外す男性が多いんです。令嬢が取り囲まれる事態に、ローエンさまは直面したことはあります?」

「夜会は……挨拶ていどにしか」


 彼の表情はかたいものになっている。


「お酒で楽しくなってしまうのかしら。それだけならまだしも、調子に乗る男性を……ちょっとだけ、たしなめたことがあります」

「叩きのめした、という話を聞いたことが」

「私もです。どうやって? と現場を見たという方にお訊きしたいくらいです。騎士のように剣も持っていませんのに、どうやって」


 ローエンがあまりにしょんぼりした顔をするので、カトレアは笑ってしまった。

 ひどい噂が出回っているのだ。

 ひどい上に荒唐無稽で、だからこそ簡単に口にしやすかったのかもしれない。


 気に入らない相手を叩きのめす乱暴な人間、貴族の恥であり悪女の首長――カトレアとつき合いのあるほかの貴族令嬢も、みなおなじく粗暴だといわれていた。

 カトレアの耳にも入っている。そのうちあの悪女たちは、徒党を組んでなにかやらかすぞ、と。


「噂に振り回されて、お恥ずかしい限りです」

「いいんです。交流がなければ、ローエンさまのお耳に入るのは噂だけでしょうから」


 夜会で飾られていた花瓶や、そのあたりの椅子を使ったことがある。カトレアはその話はせず、一口お茶でくちびるを潤すとローエンに微笑んだ。


「リシューさま、いまもディオラ伯爵家に籍がありますよね?」

「いずれ、離婚できればいいのですが」

「離婚するのはおそらく難しいです。リシューさまとディオラ伯爵との結婚は、王家からの命令ですから

「……そう、なんですか?」


 家族の話題はかえって耳に入らないかもしれない。


「正確にはいまは隣国に嫁がれている、当時の王女殿下のご命令です。リシューさまは侍女をされていて」

「そ、そうなんですか?」


 心底驚いているようだ。

 侍女は侍女でも、それが護衛侍女だったといったら、もっと驚きそうだ。

 護衛侍女は身の回りの世話だけでなく、いざというときのために帯剣を許されている。それなり、どころの腕前では、任に就くことはできない。


「昔ですが……貴族の子女を集めたお茶会を、王女殿下が定期的に開催してくださってたんです」


 子女といっても、まだ礼儀作法も身に着けていない年齢の令嬢が集められていた。いずれ緊張しながら参加するかもしれないお茶会の前に、気楽にお菓子を食べる楽しい経験を、という趣旨のものだ。


「そのお茶会に、リシューさまも参加してらして」

「以前から母と知り合いだったんですか?」


 カトレアは曖昧に微笑む。

 ――最後に開催されたお茶会で、賊が侵入した。

 貴族の子女ばかりが集まっていた。

 狙い所としては申し分ない。

 だが城内は警護が厳重で、現に会場は警備の騎士も護衛侍女も控えていた。

 いちはやく賊に対処したリシューは負傷し、参加していた幼いカトレアたちは守られたのだった。


「……そこにいらしたリシューさま、素敵だったんです。私もその場にいたほかの子も、リシューさまみたいになりたいって、そう憧れるくらいに」


 それはカトレアだけの羨望ではなかった。

 お茶会でリシューに守られた少女の大半が、勇敢で優美な彼女に憧れた。

 真似て木剣を振り回すようになり、成長してからは影で鍛錬を続けた。参加した夜会で不埒を働こうとした貴族男性を撃退するようになっていき――いつの間にか暴力的な悪女たち、と噂されていたのだ。


「俺に手伝えることはありますか?」


 ローエンの目が積み重ねた手紙に注がれている。


「休暇で戻られたのでしょう? わざわざ働く必要なんて」

「これを片づけたら、兄と離婚するのですよね? 聞く限りでも……あまりに不遇すぎます」

「診断書を持ってきなさい、なんて要求しても、ほかの家では通りませんよ。まだ私は運がいいのでしょうね」


 世の夫たちは、マークスのような性病持ちばかりではないだろう。

 運がいいのか悪いのか、そこは判断が難しい。

 カトレアが乱暴者だという噂が広がっていなかったらどうだったろう。マークスはおとなしくカトレアの要求を飲まなかったかもしれない。


「母は……どうだろう」

「リシューさまですか?」

「運がいいのだろうか」


 ディオラ伯爵から受けた仕打ちを思うと、ローエンの表情がかたくなるのもうなずけた。


「リシューさまには、ローエンさまがいるじゃないですか」


 ローエンが首をかしげた。


「……ローエンさまがいらっしゃるのは、リシューさまの最大の幸運だと思いますよ」


        4


 毎日散歩をする。

 山羊に勝手に名前をつけるうちに、愛着が深まっていった。

 方々との手紙のやり取り、リシューとの時間、ローエンとの時間。

 いずれディオラ伯爵家から接触があるだろうと踏んでいたが、なかなかそれは起こらなかった。


 停滞した事業は金銭を生み出さなくなる。

 利益が生まれるはずが、経費ばかりが嵩むようになるのだ。

 出費の山と求めた対処が成されないことに、現場から連絡が入る――それをディオラ伯爵家は放置し続けているのだろう。カトレアは何事もなくオベリアで新年を迎えていた。


 年明けと同時に祝杯を、とローエンに誘われ、カトレアは気軽に彼の部屋に足を向けていた。

 年始に執り行われる祝賀会はすこし先の日取りになるが、屋敷の人間は全員参加と聞いている。カトレアも参加者リストに目を通し、購入リストの作成と手配を手伝っていた。


「お誘いありがとう」


 ローエンの部屋はカトレアの使う客間より数段広かった。彼の私物に溢れ、乱雑なのに規則性がある不思議な空間になっている。

 くつろいだ部屋着のローエンが、手ずから酒肴をととのえてくれている。細身に見えた彼は、薄い部屋着になると着痩せしていたのだとわかった。


「こちらこそ。お越し下さり光栄です」


 暖炉の前に腰を落ち着け、軽い口当たりのワインをかたむける。

 どちらからともなく口を開き、事業の話や汽車、景気の話題を転々とした。

 ディオラ伯爵家の事業のうち、カトレアが代行状態になっていたものはともかく、ローエンが手がけるものは好調だ。

 しかし彼はそれで安心せず、いずれ停滞すると静観していた。そのときにどう手を打つか、来るべき日に備えている。


 もうカトレアの目に、彼の顔立ちはリシューによく似たものとして映らなくなっていた。

 ローエンの顔は、ローエン自身のものだ。

 誰かを男性として意識する――それがこんなにもむずがゆく、胸が高鳴るものなのだと、カトレアははじめて体験していた。

 だからこそ、カトレアはその話題を口に出すことにした。


「こうやってご一緒するの、ローエンさまのいいひとに知られたら叱られませんか?」


 空になったカトレアのグラスに、ローエンがワインを注いでくれる。

 楽しそうに笑い、ローエンは口元を歪めた。


「そんなひとはいないよ」


 美しい顔立ちをし、教養も身分もある男が言うにしては、あまりに真実味がない。


「謙遜?」

「……つくらないようにしてたんだ。結婚するつもりもなくてね、もし俺に子供ができて……そう考えたときに、将来跡目争いが起きかねないから」

「そんなことを考えて暮らしてたんですか?」


 マークスは好き勝手に振る舞っているのに、とそれは呑み込んだ。


「まあね、でも内緒にしててくれる? 誰かに話したこと、ないんだ……だけど、それも考え直さないとね」


 ディオラ伯爵家の血をマークスが引いていないとなれば、彼は考えをあらためなければならなくなる。


「カトレアさん、きみは……今後どうするんだ?」

「そろそろ両親の顔も見たいわ」

「……帰るのか?」


 彼の声がさみしそうに聞こえ、それが嬉しい。カトレアが彼に会えなくなるのがさみしいように、彼にもそう感じてほしかった。


「マークスさんとの縁を切って、大腕を振って帰りたいところなんだけど……白い結婚を理由にするには、一年だとまだ弱いかもしれないんです」


 白い結婚は離婚理由となると聞いている。だが実例を耳にしたことがないのだ。

 マークスとの結婚式でさえ、カトレアは誓いのくちづけを交わしていない。

 鼻先が近づいてきて、カトレアはマークスの靴の爪先を踏んだ。そこで彼は止まり、すぐ離れた。

 あのときの怒りを隠さない獰猛な目つきは、どれだけ時間が経とうと鮮烈に思い起こされるものだった。


「娼館の証言を取ればべつかもしれないけど……そこまでするのも」


 カトレアとマークスは政略結婚だ。白い結婚の原因が夫側にあるという証拠を提出できれば、裁判での決定打になる。

 ただし決定打であるがために、ディオラ伯爵家に傷を残すことになるのだ――ローエンが残る家に、傷を残したくない。

 マークスがカトレアのグラスを取り、残っていたワインを飲み干した。


「おかわりする? それとも」

「……お暇するわ」


 時刻はかなり遅い。

 親しい同性の友人や、夫婦でもなければ歓談する時間ではなかった。


「部屋まで送ってもいいかな」

「ご心配ありがとう、でも迷子にならないと思うわ……おやすみなさい」


 酔い潰れるまでワインを飲み、彼の部屋で眠ってしまえたらよかった――そう思いながら、カトレアは席を立っていた。


        5


「まあ、カトレアさん、とてもきれいよ」


 祝賀会当日、カトレアは華美な装いは選ばなかった。

 使用人たちを慰撫する色の強い会だと聞いている。ディオラの本家ではおこなわなかったものであり、オベリアでローエンがはじめたものだった。


「リシューさまも……ご一緒できて嬉しいです」


 リシューが艶然と微笑む。

 カトレアの倍ほどの年齢の彼女は、そうと思わせないほど艶やかな肌と髪を持っている。

 快晴のため窓のほとんどが開かれ、風と一緒に屋外から笛の音が流れ込んできた。


「着いたのね」


 客人が到着したら演奏をする、それは参加者リストを見せられたときに聞いていた。

 ――アルバン・ディオラ伯爵と、マークス・ディオラだ。

 外部から訪れる参加者はそのふたりのみ。彼らがいてはせっかくの祝賀会が台無しになるのでは、そんな気分が拭えずにいる。


 玄関ホールに出迎えに立つ、ちょうどふたりが入ってくるところだった。

 正装に身を包んでいるものの、汽車の旅から直行してきたらしい。とくにアルバンは疲労の色が色濃かった。リシューと同世代のはずだが、彼のほうが老いが濃く浮き上がっている。


「こんなところまで呼びつけて……」

「こちらへどうぞ、荷物は客間に運んで……はじめるから、最終調整を」


 家令に声をかけ、リシューが先に立つ。カトレアはそれに続いた。背後にディオラ伯爵父子が舌打ちをしながら歩く音が聞こえる。

 大広間に足を踏み入れると、すでに使用人たちが集まっていた。銘々新年を祝う正装でおしゃれを楽しみ、引き出されたいくつもの長大なテーブルには溢れんばかりの料理と酒が用意されている。


「到着されたのですね。では諸君、グラスを!」


 横から現れたのはローエンだった。彼の一声でその場の人間にグラスが行き渡っていく。ディオラ伯爵父子の手にもワインの注がれたグラスがにぎられ、それを見届けるとローエンが微笑んだ。


「新年を諸君らと迎えた喜びを分かち合えたらと思う――乾杯!」


 簡潔な挨拶の後、全員がグラスに口をつけていく。


「こちらへどうぞ。私たちはテラスで話すから、なにかあったら」

「かしこまりました」


 いつの間にかそばに控えていた家令にリシューが命じ、ふたたび歩きはじめる。


「おい、どこに」

「離れていませんから、どうぞ」


 アルバンの苛立ちを、リシューは取り合っていなかった。

 そのテラスはカトレアがはじめて足を踏み入れた場所だった。


 風に乗って、どこからともなく山羊の声が聞こえる。慣れ親しんだその声に緊張がわずかに緩んだ――緊張していたのだと、気づくことができた。

 事前に用意された席は五つ、丸いテーブルには飲みものが用意されている。祝賀会の席と違い、こちらでは楽しい時間を過ごせそうにない。


「ここまで呼びつけて、なにを考えているんだ。カトレア、きみもどういうつもりだ、仕事を放り出して、ディオラに嫁いだ自覚が」

「離婚します」


 一言返したところ、ディオラ伯爵父子は揃って目を剥いた。


「ゆ、許さないぞそんなこと……!」


 歯を剥くマークスに赤いワインを浴びせてやりたくなった。


「黙りなさい。性病の治療もまともにできない相手に、私の時間をこれ以上潰されるのは我慢ならないわ」

「性病?」


 アルバンが息子に顔を向ける。


「マークスさまはこの一年ずっと性病を患っていらっしゃるので、私とは夫婦関係のない……白い結婚の状態です。これを理由に、私は離婚請求をおこないます」

「や……病は、夫婦で協力して治癒を……」


 マークスがわけのわからないことを口走る。やはりワインをかけてやるべきか迷い、カトレアは堪えることに成功した。


「夫婦になろうというなら、結婚の時点で私に出した要求は間違っているでしょう」


 ――愛人が孕んだら、夫婦の実子として届け出る。


「いまさらなにを……あの条件を呑んだんだ、きみは俺のことを好いて」

「は?」


 聞き逃せない、カトレアにとってはなによりもひどい暴言だった。


「誰が誰を? なんですって?」

「え……あの条件だぞ、俺がどうでもよかったら呑まないだろう」


 それほどひどい条件だと、マークスは理解していたのだ。


「政略結婚をなんだと思っているんです? 家名と血を残すことを……ああ、なんとも思わないから、あんな条件が出せるんでしたね」

「じゃ、じゃあどうして……」


 政略結婚だといっているでしょう――そう声を荒げそうになった。


「白い結婚は十分理由になるわ。提示していた理由を聞いたけど、ずいぶんと無茶ねぇ」

「リシュー、まさかこんな話をするために、俺たちを呼びつけたのか?」


 アルバンの低い恫喝めいた声に怖じ気づかず、リシューはテーブルに置かれていたベルを鳴らした。

 澄んだ音が広がっていく。

 ややあって足音が近づいてきた――ふたり分だ。


「会わせたいゲストがいるの」


 テラスに家令が現れ、その背にひとりの男を連れていた。

 リシュー以外の全員が、声にならない声を漏らしていた。


「エリクさんよ」


 彼は被っていた帽子を取るとぺこりと頭を下げた。

 年齢を重ねたマークスそのひとに見え、アルバンが目も当てられないほど動揺している。カトレアもローエンもそちらから目を逸らしていた。


 リシューがどうしたいのか、ずっとカトレアにはわからなかった。

 離婚のできない状況の彼女が、なにをしようというのか――やっとわかり、わかってしまった、といやな汗が出てきている。


「アルバンさま、あなたが寵愛したマークスのお母さま、ずっとエリクさんと親しくて」


 最後まで聞かず、アルバンが椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「ど……どういうことだ! マークスは……マークスは……」

「マークスのお母さま、ディオラを出てからエリクさんと暮らしてらっしゃったのよ。そうでしょう?」

「は、はい奥さま。ただ、ほかに男をつくって……有り金を根こそぎ持ってどこかに」


 カトレアは飲みものを口にした。のどがからからに渇いている。死人のような顔色になったマークスが、いまにも倒れてしまいそうに見えた。どこまで知らされているのか――ただならぬ事態だと、それくらいは理解しているだろう。


「働いていた農場が線路を引くのでなくなってしまって、そのとき路頭に迷いかけましたが、奥さまに助けていただきました」


 目元が赤く、視線をさまよわせた彼はリシューをまっすぐ見つめた。


「生き別れの息子に会わせていただけると……会えて、それだけで満足です。息子を無事に育て上げていただいて……なんてお礼をいったらいいのか」


 涙ぐんだエリクの肩を家令が慰めるように撫で、そちらにリシューが目配せをした。


「エリクさんに休んでいただいて、よければ祝賀会にも」

「かしこまりました」


 何度も礼をいうエリクの声が遠ざかる。

 声も足音も聞こえなくなったテラスでは、乱暴に椅子に腰を下ろしたアルバンが呻いていた。

 彼らに突きつけられたものは大きい。

 足下がすべて崩れ去るようなものだ――一片の同情もわかなかったが。


「どうして……あいつを、助けるような」


 アルバンの顔は真っ青になっている。


「マークスのお父さまですもの、路頭に迷ったら不憫です。そう思って仕事を紹介してきましたが、生き別れの息子がいると知って倹約に励んでいたんですよ、エリクさん。息子になにかできないか、って」


 ――リシューは待っていたのだ。

 空になったグラスを両手でにぎりカトレアが息をつくと、マークスが頭を抱えテーブルに突っ伏した。

 ――ローエンが成人し、基盤が整うのをリシューは待っていた。

 廃嫡や私生児騒ぎどころではない。妻の家系の血を軽んじただけでなく、自分の家系にまったく関係ないマークスを引き入れた。

 これがおもてに出るなら、アルバン・ディオラは後ろ指を指されるどころでは澄まされない。


 だが挽回はできる。

 ディオラ伯爵家とアンベール伯爵家、両家の血を引いたまっとうな青年がいるのだ。

 ここまでの状況なら、リシューの離婚は許されるだろう。今後どうするのか、すでに彼女なら決めていそうだ。


「カトレアさん、悪趣味なものに立ち会わせてごめんなさいね」

「……いいえ。私もマークスさんとの婚姻撤回のため、今後お話をうかがわせていただきたいです」


 マークスの肩が震えた。

 カトレアがすべきことは、離婚ではなく婚姻の撤回だろう。それはディオラ伯爵家の内々で済ませるものではなく、王家を巻き込んでの手続きになる。現王室は血筋を重んじる傾向が強い。近年乱発させている王命での結婚はそのためだ。


「わかったわ。せっかくの祝賀会ですもの、そちらでゆっくりして気持ちを落ち着かせて」


 アルバンが動いた。

 両拳でテーブルを殴り、驚いたマークスが飛び退いた。


「祝賀会だと? そんなもの、この状況でまだ続けるというのか!?」

「あなたをもてなすためのものではない!」


 一喝したのはローエンだった。

 立ち上がった彼の横顔はひどく強張っている。


「仕えているものたちの慰労の席だ、邪魔をしないでいただきたい」

「邪魔だと……誰に向かって口を」

「客間を用意してある。そちらで休んでいていただこう」


 否を許さないものがあった。

 きつくこぶしをにぎるローエンを、カトレアは慰めたいと強く思っていた。


        6


 夜になると、広間にそれぞれが楽器を持参して演奏をはじめ、好き勝手に歌いはじめていた。

 毎年新年の祝賀会で見られる光景だという。


「たまには息抜きが必要ですから」

「ローエンさまの息抜きはどうするんですか?」

「じつは森のなかに小屋を持ってるんです。そこでひとりで息抜きしてます」


 歌声に背を向けて歩くと、庭園の奥に向かうことになる。カトレアもローエンも、足取りは重かった。疲労感が重い。


「……驚きましたね」


 なにを、との説明はいらない。

 驚きの中心にいたアルバンとマークスは、見張りを立てた客間に留め置いている。

 今日の事態を見越して、リシューはすでに王城に書簡を送っていた。汽車のおかげで、やり取りも迅速そうだ。


「びっくりしすぎて、いますぐ寝込みたいくらいです」

「ディオラの不始末に巻き込んでしまって……」


 屋敷からの明かりが届かなくなったあたりで、どちらからともなく足を止めていた。

 不当な条件のついた結婚に諾々としたがってきた。

 王命による結婚だ、拒否はできない。


「カトレアさんにどうお詫びをしたらいいか」

「散歩をしていたおかげで、山羊と仲良くなれましたわ」


 オベリアでカトレアは日々散歩をしていた。手紙の処理もしていたが、到着してしばらくは散歩をするだけだった。

 アルバンとマークスでは、事業を停滞させるのはわかっていた。


 毎日毎日散歩する日々は、時間稼ぎだった。

 事業の最終決定には、ディオラ伯爵家の正式な印章が必要になる。

 印章はアルバンが管理しているが、使用するまでの実務に携わっていないのが実情だ。

 すでにカトレアは脱税の証拠をつかんでおり、監査が入る必要が生じるまでの時間を稼いでいた――ディオラ伯爵家の実務が滞り、そこに鉄道事業の影響を受けた取引先の悲鳴が重なるのを待っていた。


 あと一押しで監査が入り、大きな打撃を受ける。

 その状態をカトレアは日々維持していた。

 カトレアはディオラ伯爵家に損害をもたらし、アルバンを失脚させたかった。そうすればマークスが当主となる。マークスはアルバンに輪をかけて無能だ。さらなる損害を引き寄せるだろう。


 あと一歩だった。

 これまでずっと、カトレアはあと一歩を踏み出せなかった。

 過去にも何度か踏み切ることのできる機会はあった――だが実行しなかったのだ。


 ずっと迷っていた。

 カトレアを踏み留まらせていたのは、リシューの存在だ。

 彼女に損害を与えたくなかったが、揃って家を出たカトレアはもうそんな考えから解放されていた。

 リシューはディオラ伯爵家に大打撃を与え、現状を塗り替える。


「みんな楽しそう」

「……来年もきっと、楽しい祝賀会になりますよ」


 いまならまだ間に合う。

 ローエンとリシューに帳簿の件を打ち明ければ、監査が入る前に食い止められる。

 脱税の証拠によって、アルバン・ディオラの処遇を劣悪にする一助にすればいい。

 次期当主となるのは、目の前にいるローエンだ。


「カトレアさん、ひとつ提案が」

「なんでしょう」


 彼の顔が近づいてきていた。視線が揺れている。彼がなにを求めているか、なんだかわかる気がした――カトレアもまた、求めている。


「政略結婚の相手を、俺に変えませんか?」


 カトレアはこたえる代わりに、彼のくちびるにみずからくちびるを重ねていった

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