古墳の池
あれは、三年ほど前の夏の夜のことだった。
子どものころは近所の連中と野球やサッカーに明け暮れていたが、大人になった今も、私は昆虫採集に夢中だった。毎年のように一人で山や森へ繰り出しては、虫を追いかけていた。
その日も晩酌をしていると、友人からメッセージが届いた。
「北関東エリアでヒラタクワガタをGET」
この辺りでヒラタクワガタとなると、なかなかのレアものだ。
「そろそろ行かないと、一次発生が終わっちまうな…」
そんなことを考えているうちに、私は急にいてもたってもいられなくなった。時刻は日付が変わる直前。だが、行くなら今しかないと思った。
ただ虫取りに行くだけではもったいない。私は計画を立てた。
一、お稲荷様にお参りをする。
二、森までランニングで向かう。
三、昆虫採集をする。
四、またランニングで帰宅する。
我ながら効率の良いプランだと思い、軽装に着替えて懐中電灯とスマホを手に家を出た。
イヤホンからはお気に入りの曲。だが晩酌後ということもあり、体は重かった。胃のあたりがちゃぷちゃぷと鳴っているのがわかる。
「もう少し休んでからにすればよかったかな…」
そんなことをぼやきつつ、最初の目的地──お稲荷様へ到着した。
「夜にお参りしてはいけない」などという迷信もあるが、私はここ一年ほど、夜にしか参拝していない。
それでも事故にも怪我にも遭わず、むしろ運が良くなったような気すらしていた。
この日は、なぜか生卵を供えたくなったので、コンビニで買ったものを置き、静かに手を合わせる。
「よし」
そう呟いて、森へと走り出した。
夜の森は、昼とはまるで別物だ。昼間ならただの森の入口が、今は大きく口を開けてこちらを飲み込もうとしているように見えた。
私は音楽のボリュームを落とした。
夜の森で一番怖いのは、動物でも幽霊でもない──人間だ。
耳をふさいでいたら、気配にも気づけない。風に揺れる木々の音が聞こえる程度に、音楽を絞る。
獣道を使い、奥へ奥へと進んでいく。
虫の声、風の音、葉の擦れる音。
少しの恐怖と何が採れるか分からないドキドキとワクワクを味わう為に、
夜の森に私は来るのかもしれない。
目的のエリアへたどり着くと、カブトムシの羽音やマツムシの声が響いていた。
懐中電灯で照らした先に、立派なカブトムシがいた。
「ちょっとクワガタを採るには遅かったかー」
そう呟き、カメラを構える。
「ブーン。ブォン!」
案の定、カブトムシは光に反応してこちらに飛んできた。
「やめてくれよぉ……」
驚きつつも、なんとか写真を数枚収めた。だが、その後に見て回った木では、コクワガタくらいしか見つけられなかった。
──ヒラタクワガタ。
友人のメッセージが、頭をよぎる。
そういえば、森のさらに奥、古墳の周りに池があり、そのあたりの木は良さげだったことを思い出した。
普段は土日と祝日しか解放されていない場所だが、藪をかき分ければ行けないこともない。私は迷わず向かうことにした。
古墳の前を通り過ぎ、池へと向かう。
池のそばは妙な生臭さが漂っていた。夏場の池はそんなものだろう。
この池は一部では“怪魚がいる”と噂され、釣り人には有名な場所だった。私は釣りからは離れていたが、いつかその魚を見てみたいと思っていた。
池に差し掛かったとき──
「ジャボゥン」
と何かが池に入る音が聞こえた。
一瞬立ち止まって考える。
おそらく何者かが池に近づく自分の存在に気付いたのだろう。
ただ気になるのは、ウシガエルや鳥などとは違うナニカであることが入水音で分かる。
「まあ、生き物でもたまには入水に失敗するか。」
気を取り直して足を進めようとした時、
今まで感じたことの無い違和感を察知した。
”全く虫の声が聞こえない。”
さっきまであれだけ鳴いていたのに。
夜の池で、カエルの声がしないなど、あり得ない。
異様な空気に、背筋が冷たくなった。
「ダメだダメだ。」
恐怖に飲まれると一気に怖くなるので、虫取りに集中する。
まもなく、大きなクヌギの木を見つけた。
しかも、 ぱっと見ただけでわかる。
「こいつは期待できる木だ」
裏側はかなり、樹液が出ていそうだったので裏側に回ってみると
「うわっ!」
体がすっと冷えた。
巨大なトビズムカデと、毒々しい毛虫。
ゾワリと背筋を這う嫌悪感を振り払い、樹液に集まるクワガタたちに目を向ける。
──比較的珍しいスジクワガタもいた。
「ヒラタやオオクワは、いないか……」
ふと、視界の端で小さな光が灯った。
ぽうっと、弱々しい明かり。
「おっと」
やはり同業者が居たようだ。
「懐中電灯で照らすと、眩しくて迷惑だから向こうは照らさないようにしないと。」
しかし、おかしい。
さっきからずっと動かない。
よほど良い木があるのだろうか?
向こうは影になって見えにくい位置だったので回って覗き込むことにした。
「ブーン ブッブブン」
同業者の懐中電灯に向かってカブトムシが飛んでいるのだろう
「懐中電灯で照らしてるとカブトムシが飛んでくるよなぁ...。」
「バリッ バリバリッ」
「なんだこの音」
同業者の方から聞こえた気がした。
「まさかな。」
「ブーン」
「バリバリッ バリバリッ」
同業者の横まで、慎重に回り込み、
恐る恐る覗き込んでみたが、あまり明るい光ではなかったので良く見えなかった。
しかし、ソレはカブトムシを食べている様に見えた。
それに、匂いは順応するはずだが、明らかに生臭さが強くなっている。
暗闇のせいだろうが、なんだかヤバい気がする。
ゆっくり離れようとした時、
「パキンッ!」
うっかり枝を踏んでしまい、ヤツの懐中電灯がこちらを向いた。
青白く、弱い光がこちらを向いた。
暗闇に細かい牙と、表情のない大きな口元だけがぼんやりと浮かび上がった。
青白い光は口の中の発光器官が光っていたのだった。
「ヤっばい!」
人生で一番早い逃げ足で走り出す。
後ろから、ビチャビチャと湿った足音が迫る。
なんとか森を抜け、舗装された道まで出たが、奴はそれでも止まらなかった。
「け、警察にっ!」
必死に、お稲荷様の前を抜けて、交番へ駆けこもうとした。
そのときだった。
「ビュオッ!」
突風とともに、何かが横をすり抜けた。
闇に、巨大な黒い影が飛び込んでいく。
奴とぶつかり合い、揉み合う音。
「グゥ...グゥ……」
何かが低く、苦しげに鳴いた。
そして、静かになった。
助かった。直感でそう思った。
けっきょく交番に警察は居なかった上に、良く分からない物に助けられたらしい。
いや、あれは助けられた訳じゃない。
20年以上野山を駆け回った経験が告げている。
追いかけて来た化け物が自分を捕食しようとしたように、黒い影もあの化け物を捕食しようとしたのだろう。
以降、化け物の正体を考えるのはやめた。
以来、あの池には近づいていない。
けれど今も、釣り人は訪れているらしい。
あの池には──
怪魚がいる。
と。