18
「尊きお方よ。どうか、我らをお救いください」
そう言うと、雪兎は深く頭を下げた。
その仕草も美しく、さまになっているので朱鳥はまた、他人事のようにぼんやりと見惚れかけてしまう。…と言うよりも、他人事だと思いたかったのだろう。ただの現実逃避だった。
「…」
雪兎が言うには、朱鳥は贄ではないらしい。それどころか、ここのひとたちを救うために呼ばれたと。
あぁ、早く何か言わなくては。
雪兎はずっと跪いたまま動かない。深夜の冬の地面だ。砂で綺麗な着物が汚れるし、土は冷たい。何よりも、やはり自分にはそんな価値はないと朱鳥は思う。だから、早く立ち上がって欲しかった。
「わ、わたし…」
「えぇ。貴女が」
雪兎が顔を上げると、真剣な顔で答えた。その顔を見て、からかっているわけではないようだと実感する。
だから朱鳥も、真剣にこの三日間のことを思い出していた。
「…私は、皆様のような術は使えませんし、あんなに早く走れません。皆様に出来ないことが、私のような者に出来るとは…」
あんなにすごいことが出来る人たちが困ること。それを、ちっぽけな自分が解決出来るとは思えなかった。
朱鳥が言うと、雪兎はふっと笑った。
「…橋の向こうから来た者ならば、出来ますよ」
「おい」
不機嫌そうな声で言うのは、あの青年。
「もちろん、色々と条件はありますが。貴女にも、負荷はかかる」
「な、なんでしょう…」
やはりこれは贄と同じことでは。
朱鳥が緊張した面持ちで訊く。
「貴女が払う代償は、ただ一つ。帰り道を」
「帰り道…?」
「ここに生涯住んでもらいます」
「もっと詳しく話せ。一度こっちに馴染んだ体は、向こうに行かれなくなる」
青年が言う。
「戻りたくなっても、戻れなくなるんだ。だから、帰るなら今しかない。良く考えろ」
帰れなくなる。
朱鳥は言われた通り、考えた。
「…それは、問題ありません」
元々、一方通行だと思って来た道だ。
今さらそう言われても、特に何も思うことはない。
「…未練はないのか」
低い声で問われ、朱鳥は頷いた。
妹のことは気になるが、きちんとした人に任せてきた。むしろ、朱鳥はいない方がいい。
「…そうかよ」
なげやりな言葉に朱鳥は、どきりとした。
そうだ。
この方は、朱鳥が帰りたいのだと思って、連れ出してくれたのだ。
それをこんな風に返されては、いい気はしないだろう。
「あっ…」
「では、これで一旦話は終わりにしましょう。龍臣、お前は説明を」
気付くと、黒兎のお面を被った少女が立っていた。
龍臣と呼ばれた龍のお面の人は、舌打ちをすると、黒兎のお面の少女に連れられて行く。
その後ろ姿を見ていると、雪兎がやっと立ち上がってくれた。
「…貴女が失うのは、帰り道だけ。その他全ては、貴女の御心のままに」
そう言うと、雪兎は朱鳥に手を差し出した。
「必ず貴女を守ると誓いましょう。貴女が苦しむことも病めることもありません。…僕と一緒に来てくれますか?」
白くて美しい手だった。
ここは、きっと優しい世界ではない。宴会の時の放り投げられた子どもを思い出す。この人も、小さな子どもを荷物のように、持ち上げていたのだ。
それでも、朱鳥は雪兎の手に自分の手を重ねた。
水仕事で荒れた手は赤く、雪兎の滑らかな手と比べると悲しくなった。
「はい。…が、がんばります」
何をさせられるのかは、結局教えてもらえなかったが、朱鳥はそう答えた。
重ねた雪兎の手は、冷たかった。
雪兎は朱鳥の手を包むように握った。
「良かった。では、失礼」
ふわりと微笑み掛けると雪兎は、朱鳥を抱き上げた。
「!?」
「裸足でしょう? 足を傷つけてはいけませんからね」
肩に担ぐでも、背負うでもない…前抱きだった。
「流石、当主」
「分かっている」
「あの子どもに見せつけるがいい」
顔を上げると、三羽の鴉が見下ろしていた。




