如何にして 9
この国には従僕すべき神は居ないというのは酷く不安定な場所、集まりであるという認識をショートに与えた。
訓練の様子を遠くの方から眺めている間、だんだん目を覚まし熱を取り戻し始めた太陽の眼差し。季節の移ろいはじっくりと、人にそれとは気づかせぬようにゆっくりと。
しかし、やることなど身の内に残った疲れの相手と、どんな時でも関係なく考え込む脳内の処理、それ以外はカルアーの耳先を舐める事ぐらいしかやることの無いショートは一日、一日の中で感じる季節の移り変わりは、存外身近なものでそれはどんどんと遠ざかっていく時との距離だった。
未だに夜、寝床で目を閉じると瞼の裏の闇の中、ちかちか光る数多の星座、幾何学模様、赤や黄色、ピンク様々変化していく色と細い線の奥で、頭の無い死体が転がっている。そして、それを眺めているといつからか耳元でエースが囁くようになった。
殺すな、それが人だ。生きろ、と。
彼を忘れた事など無かった。おじちゃんたちを忘れた事は無かった。けれど、それが故にもう二度と会えぬのだろうと言うことを、しみじみ信じるようになった。
境界線のこちらと向こう側はショートがこうして何をするでもなく存在している間にも血を神に捧げ続けている。今、どれだけの血が神に捧げられたのか、誰が量を図っているのか、最近ショートは気になっていた。
細い幹の木下、葉の付きが悪いせいで太陽の眼差しの大部分に見られていると頭の天辺は熱い。相変わらずであるのは、カルアーの耳先の香ばしさとかけた精霊石だけ。
運動場に一塊になった兵士達が、訓練をしている様子は遠目から見ても大変真面目だった。だからこそ、ショートは考える。
「なんの為に?」
神の為ではなく、ならば、何のために訓練をしているのか。それも、真面目、な訓練を。首の後ろ埋め込まれた精霊石をなぞれば、指先の先端を押し込める穴がある。試しに人差し指と親指を弾いて見るが、首を傾げたカルアーの黒い耳の先が揺れただけで何も起きない。首の後ろはもう、熱もない。
これもまた、最近、どうにもならないのだと、受け入れ始めている。
「おぉ、ショートお前どうせ暇だろ。ちょっと付き合えよ」
私服らしいガーランドは、冬眠中の熊が欠伸交じりに起きる季節を間違えたように身体をのっしのっし揺すって、手に持ったビニール袋を煩く鳴らし木の足元に座るショートを手招く。訓練場を指さしショートは首を横に、頭の中で整理途中の考えが散らかってしまわぬよう慎重に首を横に振る。
「リーシャは、あっちでやってる」
太い足がショートの横に並ぶ。カルアーは、しなやかに背中を伸ばし、出来るだけガーランドから離れようとショートの肩にのっかった。
「大丈夫。アンリの許可がある。そんならあの女も煩くは言わんだろ」
それならばと、立ち上がると投げられたビニール袋。中を覗くと、他人の匂いの布地が詰まっていた。
「それに着替えとけ。アンリの私物だ、サイコーにダサいぞ」
一緒になって覗き込んでいたカルアーの生暖かな鼻息がこめかみに当たった。
赤いシャツの袖に白い猫のワンポイント。紺色の毛糸に花柄のカーディガン。冷たい光沢のズボンは裾が少し長かった。その上から倍は大きく見える蒼水色の羽毛の上着を着込み前を止めようとしたが、ジッパーもボタンもどこにも無い。どうしたって赤いシャツと花柄のカーディガンは見えてしまう。
「な、サイコーにダサいだろ」
「いや……」
服に好き嫌いや嗜好を見出す事など今まで一度たりともそんな事を考えて選んだ事などなかった。支給されたものを考えもせずに着る。それ故に、誰も彼も同じ服装をしていてし、段々と同じ顔つきになっていく。否、ショートの周りにいた男達は好き勝手に服装を乱し、酷ければ後ろ姿の服の裾のはみ出具合を見るだけで誰とわかる者もいた。エースは生真面目に着ていたが、確かにいつでも腕まくりをしていたし、上着は胸板が厚くて窮屈そうだった。
「色が多くて、チカチカする」
見下ろした服のなんと自由に色々な事か。それを今着ているのが自分自身であるとショートはどうにも受け入れ難いし口に出しはしないが、赤いシャツはどうにかしてほしい。
「あいつ、普通にこれ着てっから。赤いシャツは絶対に嫌だな俺」
真顔でそう言ったガーランドは、しっかりと体格にあったコートの前を閉めてショートの周りを一周と半分。
「よし、首は見えんな。誰が気にすることも無いだろうけど、視界を擦れば必ず止まるからお前らの首はさ」
羽毛で肉厚になった身体と手を必死に伸ばし触れた精霊石に開いた穴。そこに指先を入れようとして、カルアーが身を捩り込ませ仕方なく柔らかな毛と横腹を突いた。
「あんたらは、なんで無いのに精霊を行使する事が出来ている?」
歩き出したガーランドの後を追いかけ、全く重ならない歩幅を埋めるために早歩きに、少し戸惑いはす後ろに着いていく。見えたジーンズのズボン後ろポケットからは革製の財布が半分以上身を乗り出し今にも落ちてしまいそう。
「行使じゃないからだよ。俺たちは力を借りているだけ、お前らの様に無理やり取り込んで自分のものにするのは禁止されてる」
「なぜ?」
急に立ち止まった背中を回避し、隣に並んでしまった。それを待っていたように緩慢に曲がる太い首、そこからつなぎ目なく繋がった頭には軽蔑の目が二つ。
「なぜって、精霊の自由を奪うのはもはや殺すと同義だからだお前らのやり方はにでぇもんだよ」
まただ、と取れない疲れも相まってショートは些か倦んできてしまっている。無くならない嫌がらせの時も、リーシャの後について知らぬものとすれ違う時も、眠る時でさえも最近では夢の中で顔は見えないが首のある者たちに「殺した」と言われる。
「なぜ?」
「いや、なぜって……力を自分のものにするために精霊を殺すのは無いだろう」
「だから、なぜ?」
その度に「なぜ?」と問うも誰も納得ができる答えを返してはくれない。それどころか、「殺した」と言われる度に「なぜ?」の問いに力が入ってくる様に思う。
「だから、あぁもう、殺すのは良く無いんだよ」
「でも――、」
「でもも、なんもあるかよ! これだからヒニャはよぉ育ちが野蛮でやだねぇ」
全てを取り上げてしまわれ、ショートは続くはずだった言葉を飲み込む他ない。刺々しく、胃に溜まりいつまでもいつまでも消化できずに腹の中にあると疲れるもの、それは確実にショートの中に積もって、積もって、今にも口から勢いよく出てきてしまいそうだった。
のそのそと不機嫌な横顔の熊、ではなくガーランドと横並びに、時に数歩下がってやって来たのは、ショートの寝泊まりしている建物の区画から離れた街中。リーシャと一度だけ通り抜けた事のあるそこは、季節の移り変わりがあろうと、時が移ろおうと変わらない様相があった。
人の流れは途切れることなくどこかへ流れ続け、抑揚激しい音に耳を傾けてもそれは雑音以上にはならない。ショートのが寝泊りしている建物のある区画とはまるきり顔色も温度も違う。だが、暖かいとするにはどこかに影の暗がりがあった。
「こんなだったっけ?」
リーシャと通り過ぎた時の事を思い出すが、淡く不確かな記憶しかない。まさに起きたら大半は忘れる夢のようなものだ。その中をほじくり返しても出てくるものに、信憑性などまったく存在せず、かと言って初体験の興奮と期待は潰えてしまって勝手に距離の図り方を見失ったショートは、街中に身を置くとそわそわと視線の置き場もわからない。仕方なく宛があるのか歩幅を緩めることのない大きな背中についていった。
「いっつ来てもごみごみしてるよなぁ。常駐してっとこが、ほらあんな場所だろ。辛気臭いってか、誰もかれもきちっとしてるってか、なぁんかいつでもぷっつり切れてしまいますって雰囲気」
それはなんとなくわかるような気がした。リーシャや、体罰的なちょっかいをかけてくる者たち、素知らぬ顔をして素通りしていく者様々反応は違っていてもあの硬質な印象を持った建物群の中にいる誰もがガーランドの言うような雰囲気を少なからず纏っていたし、肌で受ける感触としてだけでならばショートにも覚えのある感覚だった。
「ま、仕方ないよな。明日前線に出ますって事もありうる場所だ」
「俺たちもそんな雰囲気でいたよ、毎日。でも、エース隊長の周りはこんなに張り詰めては無かった気がする」
「……ふぅん」
興味の無い相槌はショートの横を走る車に混ぜられ雑音の中に綺麗に消えていった。暫くは、ただ歩き続ける。甘い香りの店の前を通り、姦しい小鳥達よりももっと声高く笑うショートと同年代の数人の集まりと服が触れてしまいそうな距離ですれ違い、カルアーの欠伸を耳の中で受ける。辺りを忙しなく見渡しても、興味尽きる事のない見慣れない光景。歩行者の信号のルールは変わらずとも、ショートの知っている信号機よりもスリムだった。
惹きつけられて、無関心に弾かれて、けれどショートも受け入れがたい。街中で見つけたものはそういうものばかり。
「ひとまず俺さ、くそださのお前と歩くの結構きついから、なんか適当に揃えてくれや」
頭を忙しなく振り動かしていたショートの首を止め置くガーランドの提案は、一つの店舗を指先で刺す。
大きなコンクリート性の建物にでかでか取りつけられた看板に書かれた文字を読む前に進んでしまったガーランドを慌てて追い自動ドアの機械的な歓迎を受け入った店内は広いがごみごみ人がどこにでもいて落ち着かない。店内のおおよそを占める棚や台には人が群かりが玉になっていてショートは戸惑いを覚えた。。
「なんか、あれーー、死体に群がる鴉の群れみたいで凄いね」
「それ、褒めてんのかよ」
褒めているともけなしているともショートには無い。
「ただ見たままを言っただけ」
店内を言い表す為に思い浮かんだ光景がそれだったというだけ。入口で立ち止まっていたショートの背中を知らない人は無言で押して中に入っていく。自動ドアは、忙しなく呼吸を繰り返している癖に、押しやられて内側に入った店内は上着がいらない程に暖かかった。
あれがこうで、これがこうで。誰の独り言では無いが、もしガーランドの頭の中がスピーカーにつなげたのなら、それは出てくるだろう。服を揃えろと言われたショートは何がなんだかわからずに、店内の一番入口に近い壁際の棚から適当に掴みとった途端、ガーランドに無言で棚に戻されてしまった。理由はわからないが、選び取った結果がだめだったということはわかったから、隣に並んでいたものを手に取れば、やはり棚に戻される。
「お前さ、適当に揃えろとは言ったけど子供服は流石に着れないと思うぜ。そういう趣味は人目に見つからないか、同じ趣味のもんとやるんだな」
三度目、棚の服を手に取り目の前で広げると、目があった。服のど真ん中に目の大きな動物の頭部の愛想笑い。しばしの間、脳みそはむつかしい事を思い出すように動きだす。
「ああ、そうか。子供服ね」
「そうかって、普通わかるだろ」
「さぁ、服を買う事なんてまずないし。子供だってある物を着せられてるし、こんな小さいんじゃすぐに着れなくなるし、売れるのこんなもん」
それとなくたたみ直し小さな服を棚に戻し、ショートは後ろを振り返る。広い店内を見渡す。
「なんでもいい、今着てるのだって別に問題は無いし、これでいい」
もともと服を選ぶ気力を身の内から探すことも、無ければ生み出すことも億劫だった。何かをしようとするには、ずっと居座り続ける疲れを押しやらなくてはならないのだけれど、ショートにはそれが未だに出来ないでいる。空腹のせいで力が上手く身体を動かせない足軸の頼りなさと似ていた。
「いや、だから俺が嫌なんだって」
だが、ガーランドはそれを許してはくれない。ありったけの侮蔑を特に赤いシャツに向けた彼の顔と言ったら、生焼けのジャガイモを齧ったエースとそっくりの歪み方をしていて、ショートは懐かしさに眩しくなった目を細めた。
「おら、こい。選んでやるからさっさとその、サイコーにダサい服を脱げ!」
声量の調子っぱずれは酷く、広い店内を駆け巡った大きな音の意味は隅々までいきわたり、刹那店内から沈黙の視線は集まる。あちこちからコソコソと上がる先までとは違う雑音は生い茂る穀物類の葉擦れのようでざらざらと耳の奥にむず痒い音を絶え間なく立てつづけた。カルアーの嘲笑は頬に冷たい。