如何にして 8
月日の流れは早くて、人に無関心だ。人が何をしていても、待ってはくれない。置いていくのみで、迎えに来てくれる事もない。そして、置いて行かれたものは這ってでも追いつかなければ、月日の外で生きたまま朽ちていく。
ぼんやりと見上げているのは、何の木だろうか。ショートの寝起きする建物の裏に、その木製のベンチはあった。時間に弄ばれ砂と雨は固まっている。端の方は腐り時折、そこからキチキチと音がした。肩に乗ったカルアーが音を聞きつけ腐った箇所を爪でほじるが今のところ得るものはない。黒い耳の三角の天辺を食むのが癖になってしまったと気がついたのは最近の事だ。今回も何の成果もなく戻ってきたカルアーのやわこい毛を舐めていると背後から何かがショートの頭に当たった。
またか、とため息の代わりに黒い耳を吸う。強く吸いすぎてしまったらしい、耳が動いて逃げていってしまった。片方の耳先は湿って毛がぺったり濡れぼそり、黒味を増して乾いている毛とは違った白い艶に光っていて美しい。何度となくショートの後頭部や頸めがけてぶつかってくる物の感触を無視して白の艶の、カルアーが呼吸をするたびに騒めく命のような光景に魅入っていた。
だが、ついに頭の中で確かな衝撃の音が骨に響くとそうもしていられなくなった。痛みは鋭い尻尾を持って頭皮の薄いところにとぐろを巻き、中へ中へと潜っていこうとする。思わず後頭部に手を当て痛みの尻尾を掴もうとする手の甲に重たいものがぶつかった。薄い皮膚の中にある骨に当たった鈍い痛みに振り返った。
背後の建物の影の中にいながら隠れる気のない男は三人。浮かべた笑みはショートの大嫌いな獣そっくりだった。
「おやぁ、ヒニャが居る。だったら、血を流してもらわないと」
手のひらにちょうど収まる石を何度か見せつけるように持ち直し男は躊躇なく投げた。手首の軽々しいスナップからは考えられない速さに逃げられないと悟り、顔を伏せると米神に重みが食い込む。
「こんなちっぽけなガキじゃどんなに絞っても少ししか出てこないって」
「首を切って逆さに吊るしておけばいいさ」
声通りは良いと言うのに、なんて汚い鳴き声なのだろう。胸の中に抱き込んだカルアーの、美しい命のある両目を覗き込みショートは歯を食いしばる。米神から伝う痛痒は何かに似ていて、しかし思い出す前に赤い滴はガーランドのものと同じ着なれない軍服の袖に落ち黒く赤くの点を作る。
いくつも飛んでくる痛み。血を流しても、ショートはただその場でカルアーを抱きしめるだけ。怒ることも動くこともとても疲れてできそうにない。痛みは後に残るがエースやおじちゃんたちとのなんて事のない日々をぼんやり思い出していれば気にならない。死を願われ、生を否定され嗤われてもだ。ただ、一つ納得の出来ないことがあるとするならば、こうやってショートを傷付ける者たちが良く言う「人殺し」だった。
「お前らのせいで、俺の弟は死んだ」
そうか。と胸の内で相槌を打つ。目端に石が当たった。
「沢山の人が外側のお前らに殺された」
また、そうか。と、ショートは浅く短息する。
「お前らが死ねばいいのに」
神の望みであればそうするが、しかし望まれているのは血だ。
カルアーに石が当たらないように服の腹に押し込み、ショートは「何言ってんだろうこいつら」そんな事を口内で音にしないように呟く。それから疲労がどうしても癒えない身体から力を抜く。さらに石の重さはますが、そっちの方が楽だった。
ついには、不自然に尖った石が二の腕に刺さったけれどショートはただ「何言ってんだよ」とそればかりが頭の中をしめ、痛みなど薄っぺらものだ。
誰が死んだ、誰が殺した、誰に殺された。
神はそんな事は気にしない。
血だけを求めている。
それで良いじゃないか。だれしもそうしてるじゃないか。
そうだと言うのに。
「なぜ?」
男達は応えてくれない。それもそのはず、あまりにも小さく掠れた疑問など、ショートにどれだけ酷く石を当てられるかと言うことに熱中している彼らには届かないだろう。
痛みは確かにあった。血だって流れ出て、服を所々黒く赤く、そして濃く染めているし傷にならずとも尖った石が当たれば、身体に力を込めず何もしない肌には痛い。だが、そのせいか一つ一つの石には、何か男達の身のうちにあったものが込められている様な衝動性が痛みを通して伝わってきてはいたのだが疲れているショートには到底、受け取る余裕はない。
喚く声は、ある時を境に単なる大きな音でしかなくなり時に置いて行かれた身は、月日の外側から今、この時を他人の目を通して観察している。
「殺せば良いのに」
小さな石でちまちま傷を作るよりも、その方が断然血を流す事に関しては早いだろうに男達はそうとはしなかった。
「得意な癖に」
カルアーの居る腹を抱き抱え、ショートは大嫌いな獣の顔を思い浮かべ、そして自ら獣になり神の従僕となる事を選んだ幼い頃に胸に宿し続けたままの荒々しく燃え盛る、決して忘れることも潰えることも、そしてこれから先許すことも無いであろう炎が散らす火の粉を手のひらの中に掬おうとする。腹の辺りでカルアーの、ショートよりも高い熱が身震いする感覚。
「弱い物いじめって、弱い物の不満の現れじゃ無いの?」
突如降った光の鋭くも太い針は男達とショートの間を穿つ。光よりも先に投げ出された石が、針に当たると高熱に炙られた水が息絶えるように、微かな悲鳴をあげて塵にもならずに消えていった。
光の針との距離が近いショートの目は、強烈な白の光に恐れて瞼を下ろした。耳に意識は集中し、平坦な足音は偉そうに踵を鳴らし、だが躊躇の間をもって、しかし確かに反発する力を押し返し近づいてくる。言葉は問いかけであるのに、どうしてその抑揚は断定的であるのか。ショートの耳がとらえた声音は嘲笑の色はあっても、鮮烈さには程遠い。
瞼を通り越して、裏の闇すら暴く光の終わりを悟り目を開けると男たちの横に並んでいたのはリーシャだ。彼女が伏し目がちを無理やり上目に跳ね上げ、睨みつける相手は男たちではなかった。
「規律を乱す事はやめて。アンリの意向であの子を、保護、をしているの。なぜ、保護対象を傷つけるの? お前達は上の意思も汲み取れない馬鹿なの?」
そう言ったと思えば、舌打ち混じりの短息。
「上があれだもん、馬鹿よねぇ」
ようやく横目で縦も横も大きい男達を、猫の手がそうやって虫で遊ぶのと同じ勢いで男達を見回す。大きな身体は、それだけで突かれた小鼠のいたいけさを見せ物言いたげな口をもぞもぞさせるくせにはっきりとは開かずにぶすくれて下を向く。
その様子を、疲れたままやる気の出ないショートは頬を伝う血を拭いつつ見ていた。
「もうやめてよねこんな場所でさ、監督義務は私にあるんだから」
羽虫を嫌ってリーシャは手の甲を見せて振る。追い払われた虫はショートをひとにらみしてどこかへ飛んでいった。
「あんたもさ、やり返せとは言わないけど逃げるとかしてよ」
反発の力と争う足取りでベンチのそばにやってきたリーシャの無言の惑いを見せショートの隣に座ろうとするが、軍服の中から飛び出してきたカルアーに激しく唸られ仕方なくそばで立ち尽くす。
「疲れてるんだ」
本当に疲れ切ってしまっていて、何をするにも身体に力は入らないのだ。ショートはそう伝えたいのにうまく伝わらず、苛立ちを無理やり一呼吸に変えさせてしまう。
「何もしてないじゃ無いの、まぁ、大人しくしといてよ」
何もしていないと言われればそうではあるがショートは多分、彼自身の意識の有無に関係なくに考え込んでいるのだ。本人の及ばぬ想念、雑念、とりとめもなく瞼の裏に瞬時に景色を描き出す記憶。そういったものと対峙し対話をすることほど、疲れることは無い。
わかってもらいたい気持ちは手のひらの皺の深さ程度にはあった。あったけれど、嫌々であるのだと言外にいつでも告げるリーシャを前にするとどうしても疲れはててしまう。それは、先にも言った通り、様々意識の所在に関係なく考えこんでしまうことが原因ではあるのだが、その原因を作る根源的な出発点はリーシャという存在と彼女の態度だ。
「無茶苦茶だ」
「何がよ」
キチキチ音がなるベンチの端っこに存在そのものを溜息としてしまいそうなリーシャが腰かけると、音はやんだ。組んだ方の足首から先を揺らし、つっけんどんにしかし、野生動物が隙無く人間を観察するような注意深さでリーシャは気配でショートを見張る。
「あんたの態度がだよ。なんかいろいろ面倒だよな、あんたって」
足首の動きは止まらない。
「あんたのこと、嫌いよ」
「そう」
「でも、最低限面倒を見るの。アセリアが言うから。本当のところ、どうなってもいいって思ってる。もしもあんたがどうにかなったら、アセリアは私を恨むでしょう?」
「……さぁ、どうだろう。多分、隊長は許すと思うけど」
エースという男は、優しくは無いけれど、それでもきっと優しい人だ。矛盾しているようで、だがそういうほか無いというのがショートの中にある男の本質だ。
「もし、隊長の言葉を気にしてるなら別に忘れてもいいと思う。許さないって、ただの嘘だから」
重たい背筋と軽い肩。平坦に、ショートの状態に関係無くめぐり続ける頭はこの時ばかりは、活気が戻る。たとえ、から元気だったとしてもほっと窮屈だった気管に涼しい空気が入ってくれば少しは視線も上がる。
「ーー知ってるわよ。そんなこと、あんたに言われなくたって知ってる。だって、私達はね、生まれてから境界線に離されるまでずっと手をつないで過ごしてきたんだもの」
足元よりも沈んで居た顔が持ち上がれば、その分だけ隣に並んだリーシャの顔は伏せって正反対の動きを知らずにしていた。
「アセメリアは、私を責めたりも恨んだりもしていない。でも、恨むと言ったのはあんたを思ってのことでしょう。だから、あんたが嫌いなの私」
またキチキチなりだしたベンチの腐った木の中。鬱屈したものを溜息に、それでも吐き出し切れずに重たそうに前を向いてリーシャは大嫌いをショートに注いだ。
「殺されるにしても、人目の付かない所で規律を乱さずに死んで。そしたら、アセリアに伝えてね、リーシャは酷いやつだったから許さなくていい。恨んでって」
黒い尻尾に口の端を二度行き来する間に疲れたショートよ頭は、無理をすることなく答えを出す。
「だから、隊長は恨まないって」
リーシャを恨む代わりに、エースは自分自身を恨むだろう。わかりやすい想像は疲れ切ったショートの口の端を摘まんで少しだけ持ち上げた。
もともときつめの目じりはさらに吊り上がるリーシャはショートを置いて建物の表側へ去っていった。彼女のたてる足音は、何も踏んづけずに歩く見た目に反して荒々しく聞こえた。また、キチキチなるベンチの腐った木の隅にカルアーは飛んでいって爪先でほじくり始める。
傷口の熱を、建物の裏に吹いた風は硬質に冷ましていった。