如何にして 74
大きな口で重量に落ちる長い髪ごと女神が食らったのは、神の頸。
「やめて!」
途端上がった生命を守ろうとする本能の悲鳴すら、白い牙は噛んで飲み込む。
女神の口元から糸を引く透ける光は薄墨。その後を追いかけるほっそりとした赤は、光に追いつけずに滴となって堕ちていった。神は目一杯女神を突き飛ばすが、堕ちていったのは男とも女ともつかない神と呼ばれるものだけ。
石の床に重力に抗い四つん這いになり、散らばる髪は絹そっくりに艶の道を作った。
「あぁ、そうだ。そうでなくては」
絞り出したアンリの歓喜には水気が混じり、彼の仰ぐ空には口を拭い、頬に赤い汚れを広げる女神と呼ばれる悪魔が笑う。
氷の罅割れる音が、広間の中にこだまする。どこから聴こえてくる音なのか、探さずともショートにも、そして恍惚と高くを見上げるアンリにもわかっただろう。
三対あるうち、カルアーに噛み砕かれ、半ばから折れた女神の羽が伸びている音だ。水にゆっくりと終わりない恐怖を与える氷の成長が、女神の広げた羽で起きている。神の悲鳴を凍らせてできているのだ。ゆっくりと、しかし目には早く。ショートの感覚は、失った形を取り戻す羽の、完全な形が出来上がってしまう事に追いつけない。
そうして、女神の頸から生えた羽が一対蘇った。
薄いガラス細工の中に描かれた精緻な意匠は、見るものに得体の知れない概念を教え、考え込ませる。向こう側を透かす桃色の羽をいつまでも仔細眺めてしまう事に疑問は抱けない。ただ、一点。
「不完全……」
ただの一点だけ、羽を見つめる熱とは違う、ショートを冷めた現実に戻す小さな穴。その穴だけが、彼に飽きと言う当たり前を思い出させる。
キシキシ、聞いたことのない女神の鳴く声。持ち上げた利き手の包帯に口付ける盲目さだけが変わらない。
「なんで、なんてことを! いっしょ、獣め!」
左右の吐き出す思慮のないであろう矢継ぎの声にはそれぞれ色は似ていても混ざりあうには攪拌の足りない、個が強く存在していた。二人だと認識する耳、一人だと認識する視界は、立っているショートを酔わそうとする。
喉の奥に飴玉サイズの吐き気があった。
口の周りを、毒々しく真っ赤な舌で一舐めする様は、女神なんてものではない。弱った獲物へ最後のひと噛みを与えようと地上へ下りていく。
頬を涙でべとべとに汚す右の顔は、まごうことなき不完全なもの以外の何物でも無かった。左の顔に浮かんだ憎悪はまさしく人のそれでしかない。
裸足のつま先が、もはや神とは言えぬ不完全なものの前に降り立つ。
「やだ、ころしてやる。やだ、ゆるしてやらない」
子供のような駄々と憤怒を吐瀉し、不完全なものが叫ぶ。両手で耳を抑えなければショートの耳は聾して終いそうだった。すぐそばで聞いてしまった女神の肩が後ろへ傾ぐと、這いつくばっていた手をばねにして不完全が飛び掛かる。両手を伸ばし女神の肩を掴んだ不完全なものが獣のように涎をたらし荒々しく噛みついたのは光。
光の正体は、どうやらアンリの剣らしかった。
「くそ」
女神の肩に食い込む指先の力強く不穏な音が視界の中で音になる。アンリの広げた手のひらから生まれた黄金をうっすらと混ぜ込んだ光は、拒絶と排他の青い影をもった光と真っ向からぶつかりかき消された。人の身勝手な業で血走った左目が大きく見開き、瞳孔が蠢く。アンリを捕らえ、光の刀身を噛んだ口端は持ち上がった。青い影の冷たい風が吹き荒れ、ショートは痛いほどの寒さに寸の間、呼吸を止めた。
ギイギイと、聞きなれた不機嫌な鳴き声も凍ってしまいそうだ。アンリの気配もわからない、寒さに驚いた目は閉じてそのままショートを永久の眠りに誘ってしまいそうだ。そこには、先行きの無い暗い行き止まりだけしかない。蹲りすべてを投げ出したくなった時、頬に擦りつけられた暖かな毛の感触に、ふっと肩からすべての荷が下りた。
耳の中を擽る暖かな風。横を見ると、三つ目は柔らかな弧を描きそれだけで安心感を覚える。
「離れろ!」
再びアンリの生み出した光は、しかしやはり不完全な青の陰に簡単に呑まれてしまった。
カルアーを腕の中に抱え、ショートが見たのは女神の二の腕に噛みついている獣の頭だ。地の底を蔓延る地鳴りよよく似た不気味な笑い声が、細い腕から流れる血に混じる。
「おとーさん!」
何ができるか、そんなこと考えもせずにショートはただ、目の前の光景が嫌で恐ろしくて、消してしまいたくて走った。
不完全な神だとか、女神だとか、そういうものはすべてショートの子供心には存在しない。ただ、「お父さん」という心を痺れさせる悲鳴だけ。「やめて」と、願う子供心の悲鳴だけが、ショートを動かした。
ふん、とカルアーの鼻がなり黒い尻尾はしなる。
底を打つ内側に響いた衝撃が一度。駆け寄ったショートの支えた細い体は、嘘が詰まっているように軽かった。
「おとーさん、ねぇ、おとーさん!」
黄金の混じった半透明の薄い光が折り重なった壁の向こうで、獣が吠える。アンリが、放った銃弾を左手で弾き跳躍した不完全なものは四つん這いに宙を駆けアンリの額に飛び掛かった。
「おもてぇ!」
背中から後頭部を一度、石畳の上で跳ね上げアンリは両手で黄金の剣を横に構え迫りくる獣の口を塞ぐも、あっさりと力負けしそうになった瞬間、それを見たショートの首の裏、死んだ精霊が残した石が熱をもつ。
三つ目はしたり顔で、牙を見せた。
アンリにのしかかっていた不完全な獣が何かに付き飛ばされ、横に吹き飛べばショートの心臓からは汗が滲んだ。
ぢぃぢぃ床に這いつくばる獣が吠える。顔に浮かんだ怒りの深い皺。長身の身体を覆う筋肉が膨れる。見開いた右目の中で、縦に割れた瞳孔が二つ飛び出しそうなほど蠢き、ショートを捉える。
「かみさまのいうことは、きかなくちゃいけない。ぜったいなのに!」
転がりそうになりながら起き上がってすぐに走り出したアンリは、手に光を握り嘲笑う。
「俺の神は、お前じゃない!」
神の額を狙って振り下ろした光は、青い影に砕かれた。
二本の動向を空に、神は黒の透ける羽を広げる。飛びはしなかった。それに合わせ、空に刻まれた光の境界線。それは、神とアンリとの間に新たな線を刻む。
「アンリ!」
止まらないアンリの足が、新たな境界線を踏んだ。途端、消えた。瞠目に広がる空の青、不可解に半開きの口の形は幼い。ショートも何が起きたのか分からなかった。突然、空に現れた境界線が大地を分け、たまたまそれを踏んだアンリの片足と振り翳していた両手が身体と全く別の方向へと飛んでいく。




