如何にして 73
そこは、広く丸い空間。石壁とステンドガラスの天井は中央に大きくあいた吹き抜けから空がのぞく。空気の匂いは、清清甘かった。広がっていく体の感覚、今まで暗闇の中にいた足が戸惑い膝の皿が笑いそうで、おぼつかない。軸を探して、必死に立ったショートは、広い空間のどこを見るよりも空を仰いだ。空の色は見えるのに底などない。手は届かないのに、そばにある。
空が目から注がれ頭蓋骨の内側を満たし、脳みその色が変わってしまいそうだ。
ギイギイ不機嫌な鳴き声が、染まりかけの脳に届いた。飛び込んだまあるい扉の真正面の壁際で宙に浮いた素足の裏。手を伸ばした先に、壁に埋められるようにして作られた祭壇のような場所に日差しを弾く塊があった。
近づいてみるとそれは、赤色をした楕円を半分に切り取り中をくり抜いた形をしていた。綺麗という概念と感覚を込めて作られた置物だというこにショートは気がつくと、同時に背骨に沿って肌が泡立ち急いで首の後ろを手のひらで隠す。指先に触れた柔らかく温かいものが、ショートの耳元で鼻を鳴らすせいでくすぐったい。
「カルアー、やめて」
耳の中を通っていた鼻息に、全身の皮膚が縮こまった。
「何だこれは」
手を伸ばしたアンリは、けれど触れる事なく手を下ろす。その代わりに伸ばされた女神の指先は、楕円の置物の表面に触れ、すぐにヒステリックに叩き落とした。
空に吸い込まれる澄んだ音。石の床に転がってなお、美しいという存在感を失わぬ赤をさらに踏みしだく素足。ギイギイ不機嫌の声も、空は吸い込んでいく。
「何かの入れ物、か?」
足蹴にされる置物を拾ったアンリはひっくり返し中を覗き込み、無遠慮にさまざまな角度で好き勝手に見まわす。それでも変わらない赤の存在感にショートは、目を逸らす。見ていたら、赤い色が奥の方に染みとなって残ってしまいそうだったのだ。
機嫌悪い女神は、吹き抜けになっている天井を見上げ、浮き上がる。石床と天井との境がそこにあるとでもいうのか、ピッタリ真ん中の高さで停滞し一対の壊れた羽を広げる。そして、叫んだ。
喉を際限なく震わせるギリギリとしっかり肉感のある声は、自ら空に突き進んでいく。耳を澄ますと、遠くまで走る残響を見つけられそうだった。白いローブの中で、薄い真っ平らな胸が足りない酸素を吸い込み膨らむと、再びギリギリと遠くを望む声は吹き抜けから飛び出していった。
二回叫んだ女神は、宙に止まったまま眩しい空を睨みる。
しばらくして耳の中に残った叫びの幻聴に、現実の声が遠くから聞こえてくるのがわかった。アンリにも聞こえたのだろう。彼は、女神の見つめる空を見上げ、眩しそうに目を細めた。ショートも、手でひさしを作り、空色に目を細める。だが、染み埃一つない空は目の錯覚かうねうねと蠢いてるだけ。
「なんだ?」
すぐに、変化のない空に飽きてアンリもショートも女神に目を戻した。
だが、目に映すことは叶わなかった。
白い光には、温かみはない。
突然、目の前が弾けた。だが痛みは身体のどこにもなく両足は同じ場所に立っている。弾けたのは光だとたどり着くまでに、ショートは混乱に眩暈がした。
「きた、きたの? あいにきたの? なんできたの?」
吹き抜けの天井に、神がいた。透ける黒の羽には、細かな意匠。美しい紋様の刻まれた羽は、ゆったり勿体ぶって羽ばたく。眼下の女神に微笑む右顔と睨む左顔は、一つの口、一つの声で女神に語りかけた。
「待ってた。待ってない。嬉しい、来ないで」
背中合わせに離れゆく問いかけ。だが、右顔には左顔の声など聞こえていないのだろう。嫌がる左半身が半身になっても右手は女神を求める。
終わりのない空への眼差しで、噛み合わない神を女神は見上げる。
「いっしょ。やだ。いっしょ!」
とうとう強く求める右半身に、左半身は肩をすくめて引っ張られていく。
「なんだあれ」
つまらなさそうに顎を三本指で掻くアンリはあからさまに空に浮かぶ神を馬鹿にしていた。
耳元で呆れた吐息。
「カルアー?」
つん、と鼻先をショートの髪の中に埋める。
「一緒でしょ、ずっと」
右半身だけが喋った。羽はただ空を透かすだけで動かず、ゆっくりと神は降りてくる。女神の目の前で、左顔が声を殺して泣き出しても右顔は一人だけを見つめている。
「なんか、可哀想」
ぽつりと溢れたショートの憐れみは、神にも女神にも届かなかった。
伸びた右腕は、細い肩に回される。アンリの手は、腰に刺した剣を握る。
左右、全く別の人格宿した顔が、無邪気な笑みを浮かべた右頬が女神に甘え擦り寄る、と応えた白い肌。
しな垂れかかるたくましい身体と長い髪の下から見え隠れした女神の細い両腕。
「アンリ、このままでいいの?」
「良いはずあるか!」
だが、喜びを隠せぬ女神を無視することもできない。
母親を奪われた子供が、ありったけの敵意と憎しみで引き抜いた剣。
馬鹿馬鹿しいと鼻を鳴らす黒い毛玉の態度が、ショートをどう反応して良いのか分からなくさせる。
「おとーさん」
空の中で、神を抱きしめる女神。理由の追いつかぬ滲む涙を拭う事もできずに、ショートは頭上の光景を見ていた。
本能に受けた美しいと言う衝撃。たとえ、神が左右チグハグの汚らしい人間臭さがあっても、神と言う子供を抱く女神は美しい。
目を細め作られた微笑みから覗く、上下四本づつの白い牙。感嘆の吐息を漏らしたのは、誰か。
ーー刹那、女神は悪魔に堕ちた。




