如何にして 64
血生臭さとは、取れないものだ。もしかしたら、血生臭さなどとうになく、ただ残像の赤が臭っているだけなのかもしれない。ショートは、ベッドの中で寝返りを打つ。床の一角は、夜の中でさらに黒いシミがあるように見える。だが、不思議とガーランドの胸から溢れた血は水とモップで簡単に拭いとることができた。だから、シミ一つ残ってなどいないのだ。
酸化し錆色に変色した血の跡などどこにも無いのだとわかっているのに。横向きの身体を仰向けに、天井を見上げると黒い影が覗き込んでくる。光を欲しがる三つ目は、細まり心配に垂れていた。
「大丈夫」
胸元にちんまりと丸まった体温を両手で抱きしめ目を閉じると、瞼の中には死体となったガーランドの姿が、皮肉にも生々しく残り、血の香りに胃が震える。幸い、喉元の奥で追い返すことはできたが、何度も競り上がって来ればいつかは負けてしまいそうだった。
死など、当たり前の環境にいたではないか。そう思うのに、ショートは昔々居なくなった部隊のおじちゃん達の血生臭い死体を見たことなど無い。あるのは、エースに置いて行かれた日に首を燃やされた者だけ。
カルアーの頭に鼻を押し付け、吸い込む。
全く当てにされてなど居なかった。そんな事はわかっている、はずなのに今更になって期待をされていなかった事実はショートの幼心を引っ掻く。
「隊長の馬鹿野郎」
肩を並べて立てるなどとそんな無謀を妄想するのでは無い。
ただ同じ場所に居るのだと、思い込んでいたのに。
今更だ。今更、全く別の場所に居た事実に気がついた。
ベッドの横には、女神様は居ない。寝る間際に、ユスティの背中に跨ってどこかへ出かけてしまってから帰ってこない。少し寂しかったし、居ないことに安心した。
目を閉じて、死体になったガーランドを見つめるこれからの夜は長そうだった。
目を覚ましたガーランドを覗き込むユスティの濡れた鼻。重たい身体を起こしながら、鼻筋を撫でてやると気持ちよさそうに目が細まった。
本来、牢の中に篭っていなくてはならないはずの身柄は、しかしいつも通りに自室で寝起きしても誰も咎める者はいなかった。咎める暇すら無いのだ。
連日、神が、獣が人を殺す。全く無関係の土地や国だったら、ガーランドは使い慣れたベッドの上には居なかっただろう。
「しつこいよなぁ」
神は、ガーランドの国の周りをジリジリと責め、だんだんと彼の住まう国に近づいてきた。母と連絡が取れなくなってもう随分と経つ。強い人だから、境界線の外に放り出されても上手くやっていたようだが、神とその下僕の獣が荒らし回れば、どうなったのか。
精神を窶して母親の生存を探し求めてもほぼ情報は入ってこない。なにせ、街は赤い水溜まりに濡れたのだというではないか。生きているものを探すのは、やっとの事だ。
「母さん……」
落ち着いた目をしたユスティの太い首を叩いてやる。そのついでにずっしりとした身体を立たせ、一日を始めるため息をついた。
部屋を出ると、気配はそこかしこでそわそわ動き回っている事が肌でよくわかった。それと同時に、人があからさまに減った事もそうだ。神は気まぐれに降り立つものだから、意図せぬ接触に人は死んでいく。
それだけではない。
神に膝を折ったものだって少なくは無い。
酸素の奪い合いは楽に勝者なりえたとしても、いつこの場所だって神が降り立つかわからなければ、人は酸素なしでは生きてはいけないが、酸素だけでは生きていけない不自由さに気が付いてしまった。
「アンリ」
いつもの部屋には、すでにアンリの姿があった。
「ああ、ガーランド。今朝も良い目覚めだろうか」
「んなはずあるか。母さんの居場所だってまだわかっていないんだぞ」
「そうだな。それでなんだが、明日の予定だがわかっているな」
手を上げて、理解を示した。
アンリの口八丁手八丁とあるかどうかもわからない女神の威光は、残った兵士達を一握りだけ動かす力になったようだ。
「でも、あの神さまってやつは本当に塔に居るの?」
ショートの疑問は、そのままガーランドの疑問だ。アンリは、含みある笑みを浮かべるだけで、言葉にして疑問に応えることなくカルアーの尻尾を引っ張って遊ぶ女神を手招くも、宙を一度蹴って飛んできたのはガーランドの肩の上だ。重みの無い身体が、無造作にガーランドの肩を椅子にする。暇をリズムに、白い足はフラフラ、踵でガーランドの身体を蹴ったけれど、気が付かないふりをした。
「まぁ、いいさ。それで明日だが、太陽が登る前にぞろぞろ塔へ出発だ。隠れていく必要は無い。どうせなら、神にわかりやすく教えてやればいいのさ、お前の顔に手を合わせにいくとな。用があれば向こうの方から降ってくるさ」
不安を知らないアンリは、どのような未来像を見ているのだろう。わかる事は一つ、ガーランドには決して想像も、見ることも叶わない素晴らしい未来だけが見えているということだけ。
「お前が考えた通りに、そう上手くいくものか」
「上手くいかなきゃ、そこで死んで終わりだ。そのあとの事など、考える必要はない」
「頼むから、他人を巻き込んで自棄を起こさないでくれよ。お前に巻き込まれるために、やつらは志願したんじゃ無いんだ」
薄ら笑みの告げる軽薄な「わかっているさ」という音には、不信感しか無い。だが、今更ガーランドが止められるわけもないし、止めるわけにもいかない。
身体を打つ女神様の細い足の先には、綺麗にそろった爪。切りそろえたのは、リーシャだろう。ショートに切らせたら、もっとガタガタで不揃いになるに決まっているのだと決めつけるガーランドの勝手な先入観。
そんな目で見られている事も知らずに、ショートは不機嫌そうに尻尾の毛づくろいをする三つ目を柔らかくしようと、耳の付け根を指先で引っ掻いていた。
「それで、今日は何をすればいいんだ」
「特に何も。しいて言えば、明日のために心構えをしておいてくれ」
心構えなど、今更ガーランドに必要は無い。
「そうか、なら部屋で休んでいるさ」
考える必要など無いのだ、ガーランドには。立ち上がったガーランドから下りた踵は、彼の傍で大人しくしていたユスティの背中にまたがって、両耳をハンドルに見立てて握りしめる。
「そういやリーシャは?」
「志願したものをまとめて、最低限の用意をしている。やれと命じたわけじゃ無いぞ」
ベッドに向かえと、握った耳を引っ張りキイキイ鳴く女神に抗わず、ユスティは頭を低く太い前足で歩き出す。
「何かしていないと、落ち着かないんだろう。おい、あんまり虐めてやらんでくれよ」
振り返った美しい顔は、無邪気に悪辣。ガーランドは、何も考えることなくユスティを置いて部屋を出る。
そうして一日、太陽が沈み寝入るその時まで、ガーランドは何も考えずにただひたすら、自室のベッドの上で明日が来るのを待ち続けた。




