如何にして 6
静けさに横目で見られながら進み続け一棟の建物に連れてこられた。静けさやこの場の硬い空気に晒されて、薄汚れ壁のところどころにヒビの跡が走り、なぜか建物足元にはコの字に組まれたコンクリートブロック、その真ん中には燃えた薪の痕があった。扉の建て付けは悪いのか、リーシャが押しても引いても汚い悲鳴をあげるだけで半開きのまま開きも閉じもしない。
「直しておけって言ったのに!」
腹立たしい言葉を勢いにかえリーシャの足は扉の命を蹴り飛ばす。蝶番だったものを撒き散らし、木屑をこぼして建物の中ほどまで飛んだ扉だった過去を持つゴミのそばに目をまん丸にした体格よい背の高い男がゴミとリーシャとを何度か見比べ、何も言わないまま自らを落ち着けるように手にしていたパンをひと齧り。
今し方の出来事など気にせずに堂々と胸を張ってリーシャはショートを手招いた。もともと平坦な胸中に反抗心などほとんど無かったが、今し方の出来事を見てしまったショートに抗う気骨は決定的に生まれてくる理由を失い、おいでおいでの手招きに素直に近づく。
「こいつはガーランド。おっきくていかつくて、頭が固くていいとこなんて顔だけだけど面倒見はいいわ」
尖った顎はしっかりと上下に動き、口の中のものを咀嚼すると同時に剃り残した髭がちらちら光る。昔にエースが寝物語に紡いでくれたおとぎ話の中に出てくる王子さまを思い出す碧眼と金髪はどことなくアンリと似ていた。ただ、胸板厚く、肩も広く半袖から伸びた肘の骨は太い。筋肉の首の上に小さな形良い頭が乗っかっているせいで、視界の遠近感が馬鹿になってしまいそうだ。太い首に浮かぶ喉仏が上下に動き、口が開く。が、またパンを齧って倒れ伏した扉の角っこを身体に見合った大きさの足先で突く。
「あなた……そう言えば名前、聞いてなかった」
肩を小さくしてカルアーと頬を寄せ合って、ショートは早口に小さくつぶやく。
「ショート」
「ふぅん、それは兵隊になってもらった名前?」
そう、と言ったつもりだった。だが、喉は強張り動か無い。仕方なく首肯で応える。
「じゃあ、親にもらった名前は?」
頭の中に勝手に響く音。それは、気怠げでありながら平和の音。もう正しくそれを奏でる事は誰もできない、ショート自身も。口を開く事すらままならず、頭の中で呼ぶ声を必死に追いかけようとしてすぐに音を忘れてしまった。
「……ま、いいわ」
「おい、年増これどーすんの」
答えられないショートのあるかもしれない返答の意志を手で追い払ったリーシャは、呆然の呟きを聞くや次の瞬間には両目を吊り上げ、今し方の質問などすっかり横に蹴り飛ばしてしまう。
「どいつもこいつもババア、ババアうるっさいのよ!」
「やーい上から二番目、若作り」
全くもって馬鹿にする気もやる気もない罵声は、平手の中で潰され、喉を無理やり絞りだした甲高く歯切れの良い悲鳴に変わった。ビンタは強烈だった。腰の捻りも、勢いも音も何もかもがショートの肝を冷やす。叩かれてもいない頬が痛むようだ。怖がるショートに気がついたカルアーが頬を舐めて慰めてくれた。
「黙れガキが」
ふと、黒い毛に頬を擦り寄せながらショートは疑問に思った。リーシャの見た目は、二十代前半から半ばだ。同い年に見えるガーランドが言うような年増にはどうにも見えないし、若作りにしては肌の張りはいい。声も、使い込まれてはいてもしゃがれはなく、髪の毛だって艶に光っても白髪はない。
「おい青年、気をつけろ。こいつは歳を突っ込まれるとすぐに手も足もでる」
「あんたらが気にしすぎてるだけよ」
「四十手前が何言ってやがる」
「へ?」
理性に反してショートはしゃっくりそっくりに上擦った。
「なによ、まだ三十も半ばだっての! 精霊と元々親和性が高いのよ。アセリア……、エースだってそうでしょ? あいつ私より3つ年上だからね」
「は?」
思いがけない場所から知らされた事実に、心だけが飛び上がった。
壊れた扉は誰に埋葬される事なくその場に取り残されている。風通しの良くなった入り口から小さな羽虫が入ってきたのを黙認、ではなくショートの頭の中では別の事でいっぱいで虫の存在を見ていながら、居ないものと同じだった。食べかけのパンを片手に片頬を真っ赤に色づかせたガーランドは、飛び上がった心の衝撃から立ち直れないショートを憐れんだのか食堂に連れてきて、真っ赤な液体の入ったグラスを一つと同じ液体の入った平皿を出して進めてくれた。
「で、こいつなんなん」
ショートの対面、ガーランドの隣に座り同じ液体の入ったグラスをひとなめしたリーシャの言葉なく前置きをする猫目にガーランドの碧眼は非対称に細くなる。
恐る恐るグラスの中をのぞくショートの額に無遠慮に刺さった探りと観察の4対の目。だが、それらに無防備に晒されてもショートには恐ろしさも羞恥も、罪悪感も覚えない。ただ、これから目にする赤い液体は全て血に見えてしまうと考えただけ。口をつけようかつけまいか悩んでいるショートをわざわざ肩から身体を乗り出し覗き込んだカルアーは、こうするのだと教えるようにグラスの中に舌を浸し、舐める。なーん、と鳴く声は美味しい、そう言っているように聞こえる。
「向こうの子」
「はぁ? 向こうって」
「ヒニャ。事情があって保護した。アンリの許可も貰ってる」
真正面から降ってくる会話を聞き流し、グラスに口をつける。甘い渋い、酸っぱいでも甘い果汁だとはわかるがなんの果実かまではわからない。舌と上顎を何度も擦り、赤を飲み込む。カルアーの尻尾は飲み込んだショートを誉めるカルアーの尻尾は通り揺れるついでに皮膚をくすぐった。
「な、んでヒニャの子供がここにいるんだ」
「それは……、いろいろあるの。追い出そうとしちゃダメよ、アンリはねこの子を仲間にいれるつもりだから」
「仲間って、あれか境界殺しをまだ諦めてなかったんかあの馬鹿!」
馬鹿と同時に机を力任せに叩いた衝撃は、その場の雰囲気をも打ち鳴らし振動させ、広いが故に危うく引き締まった緊張感を不安なものとして辺りに伸びていきまばらに食事を取っていた人の肩を叩いて顔を上げさせた。訝しげな視線を一様に集める。興味の顔、指を突っ込みたがる顔をリーシャは猫目を向ける事で俯かせ、ガーランドの脇腹に手刀を鋭く刺す。
「声が大きい馬鹿」
「そりゃそうだ! 馬鹿の下には馬鹿しかつかねーよ。おいお前、知らん顔してんな」
ヒステリックな手のひらの暴挙に揺らされた平皿から溢れた赤い数滴をぼんやり見ていたショートは頭では呼ばれた事に気がついて居ながら、ぼぉっとしている思考の表面がだるく動かせずに、ちらちらピンクの舌を翻して果汁を飲んでいるカルアーの黒くて小さな頭を見ていた。気持ちの上では、「なにか?」と返事をしたつもりでもあったが、実際の所、ガーランドは無視されたとしか受け取ってはくるないだろう。そう言ったこともわかってはいたが、甘く渋い、酸っぱくてやはり甘い果汁の味が重たかった。
「おい、聞いてんのか」
聞いている。でも、疲れて平坦な頭も心も身体を動かすには至らない。そんなであっても、出てくる感想があった。
「こんなに味が濃い飲み物なんて、あるんだ」
それまでショートが口にしたことのある飲み物は油臭い水と琥珀色のいい匂いのするお酒だけだった。過去を見ているショートにリーシャはそぉっと聞いた。
「……向こうには無かったの?」
「ない、と思う」
「思うって、なんだよ」
ガーランドの問いに、それもそうだな、とショートは少し目線を上げた。
「最後の日は、お酒も食べ物も豪勢なものがでた。魚とか肉とか、味付けはほとんどなかっけど。でもいつもは無いんだ。神様への捧げ物はもう少し良いものを捧げてる、はず。きちんと見た事はない。いつも偉い人ってのがやってる、らしい」
本来、神に捧げなくてはならないものは血だ、境界線の内側にいる人間の血。だけれど、やはり何もかもが足りない、ナイナイ尽くしの集まりは大量に減っていく事はあれど大量に増える事はない。境界線の外側にある国の勝機はいったいなんであろうか。ショートに上に居るものが考えていることも神の考えていることも知るよしもない。ただ、血を流し神に認められれば無い無いの生活から解放されて、幸せになれる。そう言われ続けて来た。偉い人は、みんなそう言った。ショートにそうと教え込まなかったのはエースとおじちゃん達だけだったが、彼等は神の正体を教えてくれる事も無かった。
そんな国が、一年に数度足りない血の代わりに食べ物や人を国に住まう人に強請る。否、強請るは語弊だろう、そもそもなぜそのような日があるのかすらショートには理由もわからないのだから。ただ、神に足りない血の代わりを別のもので贖う日があって、偉い人はその式典だか祭典だか儀式なのかもわからない事を行なって、全てが終わったら、終わったらしいと耳に入ってくるだけ。
今回も、神はお許しになられたのだ。
頼りない風の便りを耳にすると、血の一滴も捧げることのできないショートは安心した。
「なんだそりゃ、お前それ騙されてるんじゃ無いのか?」
背中合わせの鏡は、ガーランドの表情に表れ、怒っているようにも困っているようにも、そして不思議なことではあるが、悲しんでいるようにも、そんな一つの名前を与えた所で到底説明のつかない雰囲気をショートに向けるが、すぐに同調を求めた視線を隣に向けた。求められたリーシャは、口の端からふっと何かを吐き出してから言う。
「神なんて居るわけないじゃない。もし、もしそんなのが居るんだとしたら、間違いなく悪よ」
軽蔑をショートに向けることしか気のはらしようが無いのリーシャは不完全燃焼の燠に赤い果汁を注ぎ、顔を青白く燃え上がらせる事は無かった。
「ガーランド、保護なのこれは。わかるでしょ?」
「でもさぁ、でも……」
赤い果汁の名残はショートの舌から口内を香りで塞ぐ。もうそれだけで胃の中はいっぱい。グラスに半分以上残ってしまったそれが勿体無いと平皿に舌を浸し果汁を舐めるカルアーの後頭部を見下ろした。徐に平皿の端っこからグラスを傾ける。ショートの液体の混ざったゲップは、音は無かったが舌の上に赤い果汁を戻して、隊の仲間たちを思い出した。顔を無くしてしまったおじちゃんの身体はどうなっただろう、ほかのおじちゃん達はどうなっただろう。エースは、塵のようなものにまかれてしまったがどこに消えたのだろう。
真剣に考えているつもりなのに、ショートの思考は彷徨い脳みその狭い範囲をぐるぐると回り歩いていたが、神様の姿はどこにも見当たらないくせに存在感だけははっきりとショートの頭の中に立っていた。
カルアーが満足げに顔を上げ、舌で口の周りを舐めついでに柔らかそうな手のひらを舐め顔を洗い、ショートの肩に帰ってくると当然のように両肩に柔軟性の高い身体を渡す。先ほどよりも、重たくなった気がした。
平皿に残ったカルアーの飲み残しの水面に、真顔のショートがうつる。
「これからこいつどうすんの」
グラスを手早く机の端に寄せてリーシャは立ち上がった。
「洗脳を解くの。アンリはその上で、考えてもらいたいってさ」
「洗脳って、まぁ似たようなもんか。でもどうやって」
目の前の話の内容は、ショートの頭の中に少しも染み込む事なく通り過ぎていく。ツルツルと滑り落ちていくものを引き止める考えもなくただ、ただ過ぎていく景色を外側からぼんやりと眺めていた。もっと、考える事ができたはずなのに、もっと痛みがあるはずなのに。エースや側からいなくなってしまったおじちゃん達の事を思ったり考えたりすると、胸の中で澱のようなものが蠢きそうになった。途端、氷のような膜がはって全てツルツル落ちていく。もう一度、平皿の中を覗き込むと、やはり真顔のショートが赤い水面にいて、他人に見返されている気分だった。
「……神を殺せばいいのよ。この子の神を」
ショートがここにいる事に乗り気でないことは、ガーランドのどこからも伝わって来た。それなのに彼は厚い胸板の前で腕をくみ、さらに胸を膨らませてため息を一つ、再び息を吸い込んで二つ。
「どうこうしたって、今のこいつに良心なんてもんはねぇかぁ」
座ったままのショートと机を挟んで立ったガーランドの距離は遠い。まるで境界線を引かれた世界の縮図だ。