如何にして 56
流すものも無くなった姫さまは、子供を戻すと、存外ぶっきらぼうにブルーシートをかけ直した。白いローブの、両腕で顔を拭き取り立ち上がる。口を尖らせ、俯き加減の表情は不貞腐れた子供の面影が重なる。
隣で男も、涙と鼻水を一緒くたに汚れた軍服で拭い顔を上げれば、どこか晴れ晴れとした赤い顔で笑っていた。
「ありがとうございます」
尖った口のまま、姫さまは男の事など気にかけずにショートの元に戻ってくる。男は、気にする事なく姫さまの後を一定の距離を開けてついてきた。
あたりから熱気そっくりに上がっていた涙も声も、そして体育館の中にあった息苦しさと今やどこか緩んでいる。
中身を入れ替えるように、深く息を吸い吐いたアンリは上手く笑えないのか、それともまだ何かが彼を取り巻いているのか下手くそに姫さまを迎えた。
「残念だった、な。いや、こんな言葉で片付けていい事ではないのは承知だ。だが、どう言ったらいいのか」
尖った口の両頬が膨れ、また新緑の双眸にたまる透明な滴。
「すまない、泣かせたいわけではないんだ」
ふくれっ面は、口をへの字に何かを堪え、また口を尖らせ利き手を胸に抱き込む。思いっきり鼻を啜ってギイと一鳴き。
「納得いかない顔だ。だが、こうやって俺たちは死んでいる。だから、お前、達に頼むんだ。境界線を神を殺す事に手を貸してくれ」
ギイ、と鳴いた。アンリの顔から強張りが僅かに溶けたけれど、ショートは悩んだ。
ギイ、とその声は、イエスかそれともノーか。
生ぬるい風の中で、ガーランドはあたりを見渡した。周りで、炊き出しの用意をしている部下が行ったり来たり、指示を出す声は大きく、返事だって大きい。周りには、今か今かと待ちきれない子供達が、しかし見慣れぬ軍服を着た大人達を警戒して遠目から目をまん丸に観察しているし、街の大人は静かにだが決して友好的とは言い難い視線で様子を伺っている。
釈然とはしないが、わからなくもない。だが意識の感触は許し難く、だと言うのに理性は頷くその光景にガーランドは腕を組んだまま、短息した。
境界線が縮まったと同時に、神が空から現れ人々を殺していった。その情報に、驚かなくなったのはそう昔のことではない。気がつけば、神が人を殺した、などと聞いても「またかよ、めんどくせぇな」と頭痛を手で抑えるだけ。
あっという間に境界線はガーランドの母の住まう地域をも外に弾き出したし、彼が懸念した母の身の回りは思ったよりも日常生活に馴染んでしまった。
民間人同士のいざこざは絶えない。死傷者の数は日々、積み重なっていく。だが、それと同じく、これが当たり前だと受け入れる人は瞬く間に増えていく。ガーランドの母もそうだ。もともと、弱い人ではなかったが、強い人でも無かったと彼の記憶には深く残っているのに。
「順応はえーんだよな」
ガーランドの方が、心情にも身体にも置いて行かれてしまった気分だ。贅沢の限りを尽くした生活はしていなかったが、世間一般で言えば満たされすぎた生活を送っていたろうに、血に落ちたとても母は何も変わらず、否、今や生きることを日々楽しんでいる気すらする。
胸を撫で下ろしたのは真実であるのに、ガーランドは撫で下ろしきれない部分がある事に気がついていた。
別に、境遇に嘆いてくれとは言わない。だが、それでも置いて行かれてしまった、捨てられてしまった、そうやって喉と鼻の間で声もなく呟き、違うとガーランドは鼻先を揺らす。
「もともと、だ」
元々なのだ。この答えが出てしまうのは今に始まった事ではなく、さらに満点に近い答え。わかっていたさと強がって浮いてもいない汗を、二の腕の袖で拭うフリをして、柔らかくなってしまいそうな目元を引き締めた。
大きな鍋から漂い出した汁物の香りに一番に食いついて近づいてきたのは子供達だ。警戒を捨て、わらわら鍋を囲む様にひしめき合う小さな背丈。鍋をかき回していた男の目元は緩み、何も言わずに使い捨てのカップにオレンジ色のスープを注ぐ。その間、まん丸な目玉の群れは一箇所に釘付けに、目から涎が垂れそうだ。
皮が厚い手が、カップを差し出した。すぐに大小差はあれどどれもかしこもガーランドの手のひらよりずっとずっと小さい。使い捨てのカップは大きいものではないのに、両手で必死に掴んでも指先はくっつかないそんな手のひらもあった。まだ空の上まで飛んでいってしまいそうな高い声音が風に吹かれる気ままな花弁の様に好きかしこに散って座り込む。
嬉しそうにスープを飲む子供は薄汚れてはいたが、ガーランドの目を細めさせた。
「子供って強かよねぇ」
重い足をようやく動かし出した大人が鍋の前に、誰に言われずに一列に並ぶ。スープの具材だろう、細切れになった野菜が山をなす大きな銀のボールを抱えたリーシャはガーランドの横に並び、抱えていたものを押し付ける。
「おい」
「まだまだ運ぶものはあるの。マザコンでもそれぐらい出来るでしょ?」
久方に聞いた悪口にどう怒った姿を表せばいいのかガーランドはわからない。曖昧な返事は手に持った銀のボールの縁に映り込んだ歪んだ金の色に溶けた。
「なによ、今更マザコンな自分に後悔でもしてるの」
後悔はない。ただ、今更と言われ何となしに振りかえると、「必死だった」とそれだけしかない。
「俺ってそんなにマザコンか?」
「あんたら兄弟、マザコンよ」
アンリがマザコンかと言えば、まぁまぁその毛はある。ずっとそばで弟の背中を見てきたのだ、わからないはずもない。
「でも、アンリは母さんに望まれてるのにな」
けれど、そばに居てもなぜ彼にその毛があるのかがはガーランドには解明できない謎だった。
母の期待は、全て余す事なくアンリのもの。叱られる事も褒められることも全て。母親としての手も目も全て、言葉も全て。ガーランドに与えられたものなど、その残りかすが関の山だろう。
「あなたとアンリ、母親に求めてるものが違うからじゃないの」
あれほど母から注がれていたのに、それ以上に何を望むと言うのか。
「馬鹿よねぇ、あんたって。わかってたけど」
「俺はバカだろうか」
「馬鹿ね」
躊躇のない言種がおかしくて、怒りもわかない。そうかと、リーシャの「馬鹿ね」を頭の中で繰り返す。
「馬鹿だったか、俺」
「知らなかった? ま、知ったからには賢くなってよね」
思いのほか柔らかい印象はお互い声音にあった。途切れた会話の継ぎ目をうまく繋げ、リーシャは人が群がる鍋を指差す。
「すぐに空っぽになるわ。それ、持っていって」
切り刻まれた野菜の中に混じったにんじんの青臭く甘い香りをいっぱいに吸い込んで、ガーランドは歩き出した。




