如何にして 55
もう、自動車の窓からの景色の川に興味も好奇心も枯れた。揺れに身体を合わせる事にも慣れ、車内の臭いに気を取られ酔う事もなくなった。
隣に座る姫さまも多分そうで、窓の方に顔を向けていても、心はそこにはない。包帯の巻かれたままの利き手を、反対の手が撫で続ける。かける言葉も、手も持ち合わせていないショートはカルアーの横頬の臭いを胸いっぱいに嗅いだ。ちょっと、雨の腐った臭いはくさい。
止まった自動車から降りた途端に見つけたバリケードがもたらした「あぁ、ここか」の独り言。掠れた記憶の景観と並べ見ても、面影はどこにあるのか。それを見つける事の方が大変で、ショートがこの、瓦礫の道、捲れたコンクリートの下の乾いた土、人がいた後に残った簡易的な食事のゴミ、どこにも見当たらなくなってしまった街の面影を探すのはとても苦労のいる作業で、すぐにやめた。
残ったバリケードは、壊れていたり、倒れていたりして線を引くには足りないが、それがあるからこそこの場所を決定づける。あの時、言い合いをしていた境界線の内と外の人はどこへ行ったのか、人影のない街だった場所をとても現実的ではない物差しを持った目で見渡す。アンリの眼差しは、どこかぼんやりとしていた。あの日、遺体を見回していた姫さまのようだ、そんな気がショートにはした。
「酷い有様だ」
アンリはその場から動かない。
「そうだね」
ショートは、数歩の距離の間を少しづつ移動し、小石になったコンクリートを足の裏で転がし、削れる音を立てる。
「――、何も、ないね」
人を探すのか、その問いかけをしそうになった直前に飲み込む。だってその質問は、自身が変わってしまった事を決定づける事だと間際、気がついてしまったからだ。人を探するという事は、彼らにとって人の形をしたものを探してひっくり返して首の後ろを確認すると言う事。その行為が何のためであるのか。その行為を、ショート自身どんなふうに見ていたのか。
街だった景色を眺める。
今はまだ、エースへの裏切りをしてしまったのだと、顔を上げられない重みを思い出せるのに、この先どんどんと思い出せなくなっていくだろう予感に恐ろしくなった。
「ここは、これからどうなるんだろうな」
反応を求めるアンリの声音に、ショートは頭の重みを振り払い再度、辺りを見渡し想像する。この街の未来の姿を。
「さぁ、また人が集まって街になるんじゃない?」
そうとは言いつつ、どうやって人が集まって、どのように街になっていくのか。ブールシートしかショートには思い出せない。立ち止まっていると、日差しが眩しい。土が剥き出しになった地面は熱せられ、粉塵と化した土が暑さに浮き上がっているのか、匂いがした。
「どうやって」
「さぁ?」
アンリにもわからない事がショートにわかるはずもない。一人で歩いて行ってしまう姫さまをしばし立ち止まり眺めていると、今まで気にも留めて居なかった精緻なガラス細工のような表面は光を厭わず、刺し貫かれても許し、だからだろうか。
「きれいだったんだ」
割れた羽も、力無く背中に沿って萎れた羽も、完全な姿で広々、空間を贅沢に意のままにして広がった様を見たくなった。
離れてしまった姫さまを追いかけアンリとショートは、歩き出した。
以前、遺体が並べられていた市民体育館を見つけ、外壁に空いた穴から中を見ると、今もブルーシートは並んでいた。整然とはかけ離れ、放り込まれたように折り重なるそれなりに厚い層は全て青い。その中に座り込んだ男が、覗き込んだショートに気が付き、落ち窪んだ目をきょとんと瞬かせる。
「あれ、どうも」
調子っぱずれに声をかけられ、困惑しながら同じように返す。
「あ、どうも」
バリケードを作っていた男だ。潰れてしまいそうなほど猫背に座り込んでいたのにわざわざ腰を浮かせてしまうから、ショートはその場で居心地悪く男が近寄ってくるのを見ていた。
「すごいでしょう」
ショートの前で、半身になって見せた中の様子。わざわざ強調されずとも同じブルーシートの層を見ていたのに、言われると意識に強い打撃が襲う。開かなくなった口と間を持て余す。壊れたガラス細工の羽はその隙に、体育館の中に吸い込まれていった。
「あ、足元に気をつけて。床が抜けてるとこもあれば、なんかいろいろ転がってるんで」
聞こえていないフリなのか、姫さまは反応せずにブルーシートの側を歩き始めた。
「何人、生き残りました」
その後に続いて、アンリも体育館と外との間に足を置く。中の様子、外の様子を見渡して無精髭と油、汚れを顔の上で混ぜ合わせる男は、一息ついて興味なさげに呟く。
「さぁ? ただ、ここにあるのはほんの一部です。まだ、回収できていないもの、別の場所に置いてあるものもあります。生きてるのは居ますよ。ここにも何人か、親しいものがこの中に居るそうです。僕の、同僚も混ざってるんです。そこまでの間柄では無かったんですけど、何とも離れ難くて」
「そうですか……」
「でも、この中のどこに同僚が居るのかはわからないんです。そのあたりで死んだらしいとは聞いたのでこの中には居るとは思うんですけどね」
苦笑する男に、追従して笑う事もできるわけもなくショートはブルーシートに埋め尽くされた体育館を、まるで絵空ごとの触る事のできない、歯痒いとはまた違うが違和感のある感覚としてしか受け取れない。
「どうしてでしょう、目の前にあって、悲しい苦しいとは感じているのに全然、まったく他人の事のようにしか思えないんです」
随分と疲れた一笑。さっきから男は笑ってばかりだ。
「不思議ですよね」
愉快とは程遠く、穏やかではあれど休まらない。男こそ絵空ごとに生きている住人のよう。
相槌すら不相応、足場のない空中を歩くようなものでショートもアンリも黙と返すしか能はない。その後に続く沈黙に首を絞められ殺されてしまいそうだった。ブルーシートの間を歩き回る姫さまだけが本物の形を持っていた。
ブルーシートの間を止まらずに歩いていた姫さまを黙って三人は見ていた。それぞれ、何を考えているのかはわからないし、ショート自身、今自分自身が何を考えているのか、はたまた何も考えていないのかすらはっきりとしない。脳の間に、半透明でそれなりの硬さのある板を差し込まれている。それを取り払うのは、足を止めた姫さまの背中にある、壊れた羽のゆったりとした動きだった。
理由もなく歩いていた足取りは止まり、しっかりとした意思を持って姫さまは足元のブルーシートを見下ろしていた。何をしているのか疑問はあったが、未だ半透明の板が邪魔をしてショートの中にうまく止まる事ができない。その半透明を透過して、ようやく届くに至ったのは小さく背中を丸めてその場に膝をついてブルーシートを剥ぎ取り始めたからだ。
何をしているのだろう。ショートがそう思った頃には、体育館の中に混じってしまいそうな存在の薄くなった男の背中が歩き出していた。
「どうしました」
ブルーシートの中に何があるのかは分かっても、誰が居るのかまでは見えてはこない。男の問いかけに応えずに姫さまは、両手で重たそうに寝ていたものをひきずりだし持ち上げた。そこで、ようやくショートにも寝ていたものの姿を知った。
子供だ。見た事がある、気がする子供。頭に残った頭髪はわずか、あとは溶けてなくなり皮膚が奇妙なコブとなって固まってしまっている。一目では、理解できず目を凝らして二度見をしなければよくわからない。
まあるい頬をした顔は半分以上黒い墨。腕は、あんなに短かっただろうか。足はあんなに赤かっただろうか。
どこから服でどこから皮膚なのか、混ざってわからない。吐き気を飲み込む、空気の細く勢いついた音がアンリから聞こえた。
ショートだって、得体の知れないものが喉にある。気持ち悪さに吐いてしまいそうな身体は、しかし上手く動かずにただ気持ち悪さだけがある。
男の話す声が、体育館に穏やかに伸びていく。
「あぁ、その子。女神さまとは顔見知りでしたね。境界線で両親が分けられてしまっていたけど、最後は三人一緒でしたよ。親子をここに運んだの、自分なんで」
掲げた子供を姫さまはじっと見ている。背中の羽が、先ほどよりも大きな動作で羽ばたいた。だが、すぐに羽は元気を無くし、子供も降ろされる。
それから、姫さまは泣き出した。大きな声で、子供を離さないとばかりに抱きしめて、嫌だ嫌だと首を横にふるごとに、癖っ毛の襟足は揺れる。
大きな声は、体育館の天井までわんわん反響した。
笑ってばかりいた男の背中に、力が入って強張る。大きな泣き声にかき消されない啜り泣く声。体育館の中に無数に転がるブルーシートに、窓や壊れた壁の間から光が差し込むと、汚れていても艶々光る。
ガラスに描かれた水彩画は、美しく隠れ潜んでいた人を呼び込んだ。一人、また一人と人が集まって泣き声の響く体育館を覗き込んで泣き出す。ショートの隣にも、薄汚れた老人がいつの間にかやってきて細く悲鳴になり損ねた声で泣いている。あちこちに、泣き声はあった。あちこちで、人は泣いていた。
「なぁ、死とは本来こうなんだよ。境界線だ神だ、そんなもののせいで人は一人で死ななくちゃならないのか? 孤独を強いる神も境界線もいらないだろ、なぁ」
アンリの言うことはわかる。でも、わかってしまったからショートは先を考えてしまう。
「無くなったあと、孤独じゃなくなるの?」
苦しそうに息を吸ったアンリの目元は赤い。
「無くなるさ。――そうしてやるさ!」
酷く、彼の言葉に驚いた。




