如何にして 5
そうだろうか、そうなのか。いいや、どうだろう。自問自答したショートはアンリの熱を内に秘めた氷の輝き。一本道のような真っすぐの眼光の奥にまばゆい奥行と背中、は幻だろうか。
目の中に残った残光を奥へ押し込んで、口から暗さを吐く。
「獣は、獣にしか殺せないのと同じで、ならあれは神様にしか殺せないじゃないか」
「……なんだそりゃ。お前の格言かなんかか? 馬鹿め、聞いて驚け神を殺すのは人だ」
なら、人は神に殺されるのか。アンリが出したぴったり脳みその中にはまるアンサー。ショートの目の中に再び、けれど先程とは違い薄暗い光が差し込んだ。
「神だろうとなんだろうと構わん。俺はな、ルールに縛られてるのはもう飽き飽きしてるんだ、お前の頭はあまり考える事に乗り気じゃなさそうだがな。俺はあれがいらない、だからそう、あのよくわからないけったいなもんをぶっ殺してやろうと思ってる」
カルアーを抱きしめながら、ショートは口を閉じ、湧いてきた憐れみのしつこい味を前歯の裏に擦り舌先からこそげ落とす。
この人は、神に殺されてしまうのだろう。
その事実になりそうな予感は、酷い味だった。
「なぁ、お前はつまり人を殺した事がないな」
三つ目で余す事なく、この場の生き物を観察していたカルアーを視線でさし、アンリは手を出す。
「カルアーが触らせるのは、綺麗なものだけ。こんな場所にいる奴らのかなで綺麗なものなんざ人を殺したことのないやつぐらいだろう。なぁ、さっき言ったろ神を殺すのは人だと。ーー神殺しをしないか、俺と」
神は、人を殺す。ショートもショートのいた国も神の定めたルールを全う出来ず、今がある。ルールなんてものがなければ、浮かんだものを首を横に振って散らす。
「わからない、だってあれは神様だから」
見た目に似合わず荒っぽく鼻を鳴らしアンリはショートに舌打ちを落とした。そのまま、背を向けてしまう。足音は嫌に大きく、不機嫌を隠そうとしない背中は扉を出る前に振り返ってショートを指差す。
「考えろ獣! この国とお前の国とを見比べて、神とやらがどんだけ不条理か気がついて腹を立てろ」
言われた途端ショートが考えたのは、ここで食べたスープと国で食べたスープの味の違いだった。
「あなたは捕虜として扱われる。けれど、私が側にいれば大体の事は自由にしてくれて構わない。揉め事や力を使うのはダメ」
アンリが出て行った途端、リーシャは深々疲労の濃いため息をついてカルアーを抱きしめるショートに立つよう促す。抗う理由も無く立ち上がると同時に、カルアーはしなやかに腹の肉を動かして肩に乗っかる。
「気に入られてるわね」
左耳にふすふすとくすぐったい音と鼻息。首に巻き付いた尻尾が、優しく首の後ろを覆ってくれた。
立ち上がったショートとリーシャの視線の高さはほとんど同じ。貫く視線の猫目は、星が一斉に目を閉じたように翳っていた。
「ねぇ、あなたはアセリア……アセメリアと仲がよかった?」
馴染みのない音に、自然眉間に皺が寄る。
「アセ、メリア?」
「私にあなたを押し付けた男よ。許さないから、あなたを生かしてって」
「エース隊長?」
リーシャもまた、ショートの音は馴染みが無いせいで顔色は曇った。
「俺たちは、名前を与えられるから兵士になれば」
「なにそれ。じゃあ……エースと貴方は仲がよかった?」
仲が良かったのかと問われるとショートは言葉がでてはこない。ただ、一つ事実としてあるのなら。
「俺は、エース隊長達に育ててもらった、から」
「親は」
「もうずっと前に盾になって殺された」
そう、と呟いたリーシャは、雨の中項垂れる蕾と似ていた。
リーシャの後に続き窓のない建物を出て、やはり窓のない廊下を真っ直ぐ進んだ。同じ景色が続くように、一定の間隔で同じ見た目の扉が並ぶ。時折、中からくぐもった人の声が聞こえてくることがあったがリーシャは聞こえていない背中で歩き続ける。照明の灯りは足りているのに、視界覆いかぶさる暗さ。長くいるとその暗さに神経が千切られてしまいそうだ。
長い階段を登り、通路よりは広いが、狭い空間の壁際に灰色の質素な机が一つ。その上に開かれたまま置かれていたノートのようなものにリーシャは手をかざす。
「あなたもやって」
言われるがままに手のひらをノートの上に手をかざすと、一瞬の痛痒に手の甲は跳ねる。慌てて手のひら同士を擦り、痛みの名残を探すが手のひらには傷一つない。
「大丈夫?」
曖昧に頷き、腹の辺りの服で手のひらを拭うと筋肉が僅かに痙攣していた。
「みんなはじめはそうなの」
素気ないと言えば素っ気なく、気負わなくていいと言えば気負わないリーシャの態度は今この時、心身共に彷徨っているショートにはありがたい。肩を小さくして外に出ると世界は眩い。
「え?」
建物から出てすぐに、空を仰ぐ。太陽の位置がはっきりと視認できる晴れ模様。高くを流れる雲の、なんで純真なことか。暖かい陽光に、肌の表面はようやく目を覚ます時を覚え、ぐんぐんと身体の中に熱が溜まっていく。
見る事のできない太陽は、しかし瞼の裏ですら存在を赤く光らせる。顎の輪郭をなぞる風の中に、青い草の匂いがあった。
「どうしたの?」
先を歩いていたリーシャは振り返り、ショートを真似て空を見るも、すぐに髪を揺らし顔を戻すと怪訝に眉根を寄せて、再び「どうしたの?」と問う。ショートには、彼女のなんとも思わぬ様相こそ信じられなかった。
「いつも、こんな天気なの」
肩に乗ったカルアーの黒い毛は、あっという間に太陽の眼差しを喰み温い塊になっていくのが空気の中を伝わる香ばしい匂いからわかる。
「いつもじゃないけど、かねがねお天気はいいわねこの辺は」
「青い空って、こんななんだ」
何を言っているのだと、リーシャの怪訝に顰められた目は言っていた。ショートも、どう伝えたらよいのか分からず、さらにこの空が日常の人の前で、当然の事に目を奪われてしまった自分自身が恥ずかしくなって俯く。綺麗に舗装されたレンガ調の道には、ゴミも、ヒビも、割れて穴の間箇所も無い。土道でない見慣れない道が怖くなった。
「ついてきて。カルアーその子のうなじ、隠してあげてね」
にゅーん、と喉を絞った細い返事と、靴の底がなる音に急かされて慌てて顔を上げてショートは恐ろしい道を小走りについて行った。
舗装された道が途切れ、無骨な黒灰色一色の道にの周りには建物はなく、代わりにまだらに草の生えた空き地が広がる。そこにも当然、陽光は降る。名も知らぬ雑草の緑は美しく花を咲かせようと生き生き両手を広げていた。ドブ臭さもゴミの臭いもしない。
何度も何度も、空を見上げていると空の彼方、遠くの所に黒い羽ばたき。下から見上げても鳥だと言うことしかわからなかったが、ショートの心にむずむずしたものが沸き踊る。
さらに、空き地の終わりは建物の背中と背中の間にある細い小道。潜りこむと嗅ぎ慣れぬ日陰の静けさの香り。それもすぐに、日差しの中へと身を躍らせるとそこはもう、ショートの知る国ではなかった。
大きな道に描かれた花の模様。人の往来は絶え間なく、向こう側すら満足に見せてはくれない。それでも間を縫って視線を割り込ませると色とりどりの波ではなく自動車が走っていた。
リーシャと同じ制服を着ている者、色鮮やかに着飾る者、手を繋いだ大人と子供。老人だって、しゃんと背を伸ばして一人で十分に歩いている。どこからか流れてくる音楽、どこからか香る美味しそうな匂い。どこでも人を受け入れる大きな建物。どこかしこにもある、余剰の不満や憂いのない傲慢な笑い顔。
その世界に突き飛ばされ、後退った踵をカルアーの尻尾が首を撫で慰めてくれたおかげて、浮いていってしまいそうな意識は頭の中に帰ってくることができた。
雑踏の手拍子しにあわせて鳴り止まぬ雑音は、ショートを責めるようで早足に振り返りもしないリーシャの後についていく。先まで辺りを見渡す事が楽しかったのに、どこに目を置いていいのかわからない物も人も溢れかえった場所は居心地が悪い。信号で立ち止まったリーシャを真似て止まったショートの隣に背後に、内側の国の人達がルールを守って立ち止まる。そのことが、とても納得し難い。
信号が変わり歩き出したリーシャを追って歩調を乱すことなく足を動かし、ようやく息ができた頃、周りを見渡すと人の姿は少ない。どことなく空気も硬いものに変わっている事に気がついた。先程までの道とは違い建物も誰彼構わず受け入れる事は無く、人を選んでいるよ。空と太陽だけは変わらず、そしてカルアーの泰然とした尻尾も変わらない。半ば、癖のように指を弾く、が、何も起きてはくれなかった。
足を止めたリーシャが腰を捻って振り返る。善悪を決める代弁者であると言わんばかりの鋭さに、ショートは肩を竦めた。
「わなるんだからね。何かしようとしても、ダメよ」
「できない」
言葉よりもわかりやすい眉間に寄った薄い影や、喋りはしないのに問いがちな口元。なによりも、責める猫目。その猫目は、よくよくエース達と暮らしていた狭く古い小屋にやってきては主にエースを延々と言葉で詰り続ける、誰とも知らないどこかの偉いらしい男の目を思い出させる。そして同時に、同じようなものがこの国にある事がうまく理解できなかった。
エースを詰る男は、いつだって不満を抱えていたからだ。
「できない?」
カルアーの尻尾を人差し指で下ろし、首を動かし頸を見せる。だが、リーシャの反応はいまいち鈍い。口には出さない「なぜ」の猫目は、圧も強く問うてきている。
「割れてるだろ、だから、何もできない」
「あなた達のところでは、それがあるから力が使えるんだっけ。少しでも壊れれば使えないなんて、不便ね」
「不便、とかじゃ無くて。これは、神へ従僕の証だから」
訳がわからない事が嫌なのではなく、神、と言う言葉が嫌なのだろう。それを聞いた途端、悪は全てショートの身の中にあると決めつけたようにリーシャは荒く短息した。
「神なんて、いるわけないでしょ」
吐き捨てられたものを、ショートは聞かない。
今のショートには、それしか頼るものが無いのだ。エースも隊の仲間も失い、精霊石も壊れ果てには境界線の内側に一人でいる。神を握りしめていなければまともでは居られない。
ショートは死に救いを見出してはならないのだ。
生きろよ。エースがそう言ったせいだ。
手を離したくせに、呪いだけを置いていった。