如何にして 45
鼻詰まりの音が聞こえた。座っていたベッドの足元から枕元を見ると、枕に押し付けられた顔が寝返りを打って横を向く。綺麗な顔であっても、散々泣けば愛嬌残った不細工になる真実に、リーシャは微笑ましさに頬を緩ませる。
「鼻の頭真っ赤だし鼻水垂れてるし、目はパンパン、声はガラガラ。ぶっさいくねぇ」
薄目を開けているのかもわからないほどに腫れたまふ瞼の肉が揺れる。
「起きた?」
声をかけると、返事のような鳴き声が帰ってきた。
「沢山寝たし、少しは落ち着いたかしらね」
ベッドに横になったまま、姫さまの腫れた目は指の足りなくなった利き手を眺め、それからゆっくりと口をつける。動物が仲間の傷口を舐めるように、ゆっくりと繊細に優しく。そのうちにまた、涙は溢れ鼻水も流れ始める。
「顔、拭きましょうかね。ティッシュ切らしてるから、ユスティの毛でいいかしら?」
姫さまの眉根が寄せられ、嫌だとはっきり揺れた首。
「そう、ならアンリのクソダサい私服ならいい?」
小さな頭が、今度は縦に。
「……なんか、意思疎通ができるって幸せな事って実感してる、私」
ショートにもエースにも大不評だったアンリの私服をズボンもワイシャツも一緒くたにまとめて大きな団子をこね上げ、不細工な顔をリーシャは拭ってやった。自分からも顔を押し付け執拗に顔を拭いた姫さまの鼻水が派手な花柄の上でテラテラ光り朝露のようにも見えなくは無いが、テキトーに内側に丸め込んでベッドの上に放って置く事に。
「お腹は空いてる? それとも、何か飲む?」
数の足りなくなった利き手に残った親指を、包帯の上からしゃぶって姫さまはリーシャのそばで通りの悪い鼻を鳴らしキーキー訴える。真剣に訴えを理解しようと見つめリーシャは立ち上がった。
「ボディーランゲージだけじゃダメね。何言ってんのかさっぱりよ。ま、なんか用意するからお待ちなさい」
寝癖のついた姫様の髪は頑固で、手櫛で溶かしたところで跳ねるだけ。ベッドから離れた位置で大人しく丸まっているユスティにお守りを頼んで、リーシャは部屋を出た。
簡単な食事と、たっぷりの水とをトレーいっぱいに乗せて部屋の前に立つと、ギーギー不機嫌な声が扉を突き抜け聞こえる。飽き飽きとているリーシャはため息吐き、それが逃げる前に吸い込み直し気持ちに硬い壁を纏うイメージで扉を開け中を詳しく見ずに入る。鮮明になったギーギーの鳴き声。無言でトレーを机の上に置いた時、床にふかふかの毛玉が散らばっているのを見つけたが、彼女はこれも見なかったことにした。
「怒るな! おまっ、わかった、わかったよ! 俺が悪かった、悪かったからユスティの毛をむしるな」
ベッドの下で置物と化して耐え忍ぶユスティの背中に堂々馬乗りになった怒りの形相。姫さまの無情な手は、いまいちぎこちないせいで残酷なほど荒っぽく赤い毛を引っこ抜いては捨て、引っこ抜いては捨てを繰り返し、後頭部残った毛の奥に助けるピンクの地肌。何をしているのか、ショートは捨てられた毛を拾い手のひらで柔らかく丸めその辺に転がしているし、カルアーは転がされた毛玉を小さな手で叩いて四方に飛ばす。
ベッドに足を組んだアンリのげんなりとした顔に、リーシャは共感を抱く。
「お腹空いてるでしょ、持ってきたから好きなだけ食べちゃいなさい。ショートとガーランドは散らかした毛玉を片付けて。ユスティは、どっかに隠れてなさい。そんな従順だとそのうちに丸ハゲにされちゃうからね」
いつまでも騒がれても精神的な疲れが溜まるだけで、リーシャは何も楽しくはない。姫さまを背後から持ち上げ、軽い身体をトレーの乗ったテーブルに座らせ硬く焼いたパンを手に持たせる。まだギーギー唸っているものの空腹には勝てずに大きな口で噛みついた。
「ユスティ、少し抗えって。可哀想に、ハゲ……いや、毛が薄く……いや」
言葉を選んでも選んでも、毛をむしられた後頭部の現状は変わらない。手で項垂れる獣の頭を撫でてやりながら薄くなった触り心地にガーランドは切なそうに口を閉じる。
なんとなくひと段落ついた中で、アンリは息を吹き返した。腕を組んだままもみあげ辺りを指でかきかき、足にまとわりつく毛玉を蹴飛ばし立ち上がり、パンを一生懸命にかじる姫さまの前に立った。カルアーは毛玉を拾い集めるショートのそばでまだ毛玉を飛ばして遊んでいる。
「エースはどうしている、話があるんだが」
パンで顔を半分隠したまま姫さまは首を横に振った。そしてまた、泣き出すが今度は泣き声のない静かな涙。
「……まだ、いるか?」
力無く、頷く。ショートの口が僅かに開いて、すぐに閉じ毛玉拾いを続ける。ユスティの上目は、恐々姫さまを見上げていた。
「じゃあ、今はでては来れない?」
パンが縦に揺れる。
「いつ出てこれる?」
今度はカスをこぼし横に揺れた。
「理由は……、いやいいか」
困ったもんだよ、そう呟いたアンリは皿の上から薄い肉を一枚つまむ。姫さまは怒らなかった。
「意思疎通が出来るだけましよね」
大きくて硬いものを無理やり飲み下したのか、苦痛を眉間にリーシャはどうにかして首を縦に振っている。ショートは、また口を開いて閉じた。
「なぁんか肩身狭いが、俺を生き返らせたのが原因だって言いたいなら、それは俺のせいじゃねーよ」
途端、姫さまがガーランドを鋭く睨む。怯まない男の代わりにユスティの頭が下がった。
「わかってる。お前が生きていて、いや、生き返って嬉しいさ、本心だ嘘ではない。エースには感謝しかないのも本当だ、ただなぁ」
疲れた顔を眼鏡の上から擦り、気がついて眼鏡を外しまた擦り直したアンリのなぜ立てているのかわからないほどに疲れた顔。
「ただ、おいなんなんだこのクソ見てぇな今はよ、何にも素直に喜べるかよ。あぁ? 毎日毎日、境界線が変わって、人が殺し合って、神様とやらが喜んでまた、人を殺して。うちの連中は、なんも考えねぇ奴らばっかで、なんも進まねぇ。人が流すのは血ばかりで泣く暇もねぇよ。んだよ、だからとっとと境界線なんざぶっ壊せばよかったんだよ。あーもー」
「じゃあ、神様を殺せばいいんだ」
毛玉をユスティのハゲた部分に押し付けて、ショートは立ち上がる。
「だってアンリ言っただろ。神は人にしか殺せないって。だったら、殺せばいい」
「簡単に言うなよ、殺すったってさぁ……殺すったって」
「あの神様は血が好きで、ほしがってるんでしょ? だったら流さなきゃいいじゃん」
カルアーを抱き上げ、後頭部の匂い嗅ぐと安心した。
「そんな簡単にいくかっての」
ユスティを慰めガーランドは言うし、リーシャも肩をすくめるだけ。アンリは、泣きながら一生懸命に硬いパンを齧る姫さまをぼぉっと疲れた顔で見つめている。
「エースが居りゃなぁ、神でもなんでもやらせたんだが」
「隊長は居ないけど、女神さまなら居るよ」
パン屑を散らかす姫さまは、垂れてきた鼻水を啜る。
「……随分、人間臭い神様なもんだな」
何とも言えないため息は途切れ、無理やりとわかる深呼吸。アンリは相変わらず疲れた顔をしていた。だが、不敵に口元をしならせる。
「でもま、何もやらんよりマシだよな。よぉーし、女神さまよ! え? ちょっと俺のお願いを聞いてはくれんか」
姫さまはそれどころではなさそうだった。パンと唾液が混ざって口の上に張り付いたらしい。だが、パンを握った手では上手く取れないせいで、背中の羽が苛立たしげに揺れている。
「おい、聞けって」
舌先を必死に捏ねているが、やはり取れないのかリーシャに助けを求める鳴き声。
「はい、お水飲んで。それでできたら、話を聞いてやって」
わかっているのかいないのか、水を飲んでようやく張り付いたものが取れた姫さまはまたパンを齧り始める。一応、聞く意思はあるのか視線はアンリに向いていた。
「聞いてる? 聞いてるな、よし。女神さまよ、ちょぉっと人を惑わして、希望なんてものを与えてやってはくれないか。いや、神を殺せるならそれはそれでなんだが、できないよな」
かけた利き手を見て、背中の割れた羽を見て姫さまは何度だって泣き出す。それでも、パンを食べることをやめなかった。




