如何にして 40
目が覚めた。せっかく、暖かな場所で男と黒い毛玉と一緒に眠っていたのに、姫さまは目が覚めてしまったことに腹が立った。
枕代わりのユスティの腹に顔を押し付け、キーキー苛立ちを声にしてぶつける。身じろぐ毛並みは、落ち着かない頭を扉と姫さまとを忙しなく行き交う。その哀れな様に鼻を鳴らし、姫さまは足音荒くベッドから降り立つ。
「起きたのか」
湯気立つカップを片手に、綺麗さっぱりのテーブルに堂々肘をついたアンリは、立ち上る半透明のそれを言葉でふきとばす。香ばしいが甘ったるい匂いが、刹那。だが、すぐに消えていく。テーブルを囲んで一体どんな談笑でもしていたのか不思議なほど、アンリは退屈そうだったしショートはぼんやりと膝の上のカルアーを眺めて、そんな二人を前にリーシャは両手で顔を支え目を閉じていた。
だが、姫さまはアンリと話をする気分ではなかった。ユスティの首の後ろを引っ張ると、抵抗なく足元に降りてくる。姫さまは、四つ足のお供を連れて、裸足で力強い足音を立てて部屋を出て行こうとした。
「どこいくの。いつもはそろそろアセメリアと変わる時間でしょ」
薄目を開け、夜の藍が覗く。リーシャは欠伸を小さく噛みながら両腕を伸ばした。骨の甲高い鳴き声は二つ。
カルアーを膝に抱いていたショートは迷った末に、物欲しそうに首を上げた。
眠れない、うるさいから眠れない。そう姫さまは、きーきー文句を口にするが、誰にも伝わらない。頬を膨らませ、騒がしい匂いと気配、うるさい気配を怪しく思う。知っている臭いと全く知らない臭いが混ざった悪臭は、気が立つ。それでも、知っている臭いなのだ、いつも通りにキーキー捲し立てて叩いてやらねば気はすまない。カルアーはわかっているだろうに、ショートの腕の中を独り占めにして気持ちよさそうにぷうぷう鼻を鳴らしている。その姿すら、姫さまは気に入らなかった。
気持ちの丈を込めてギーギー声を上げる。
「お、これは不機嫌な時のやつだ」
カップを置いたアンリの顔が晴れるが、すぐそばでリーシャの短息に吹かれる。
「様子を見ればすぐわかるでしょう? ほらもう寝なさい。明日もユスティとガーランドで遊ぶんでしょう」
重そうに腰を上げて近寄るリーシャにベッドに戻されそうになり、姫さまは首を横に振ってユスティの後ろに回った。
いつもは姫さまに遊ばれて哀れな上目遣いでほとほと困り果て固まり一回りは小さく見えしまうのに、落ち着かないユスティの足踏みは今にも風を纏って疾駆してしまいそうだ。真っ赤な炎を宿したユスティの焦りが毛先からゆらめく温度となって部屋を暖める。
「どうした」
目線を合わせしゃがみ込んだアンリに野太く鳴く。
「遊ばれすぎてストレス溜まってんのよ、きっと」
頭を撫でるリーシャに鼻先を扉に向けて訴える。姫さまもギーギー喚くが、誰にも伝わらない。とうとう面倒くさくなった姫さまの、半ばから折れた羽が広がった。
「なに、か、あったんだ。そうでしょ」
黒い毛玉の盾を胸に抱いたショートは、口元を息苦しそうに開いて閉じてを繰り返し、立ち上がる。
その時、月が落ちて窓の外を染め尽くした。真っ先にそんな馬鹿げた夢想を信じ込んでしまいそうな、金色であって透明な、冷え冷えとした視線そっくりの光が、世界を塗りつぶす。
誰も声を出せなかった。眩しさと冷たさに体をこわばらせる事に必死で、目を開けても開けたのか開けてないのかもすぐには理解できないぐらいにはショートは混乱していた。その中で一人だけ、姫さまだけが眉間を怒らせている。下顎に皺ができてしまうほど口をへの字に曲げて光が走り去った窓を睨みつけ、すぐに扉を開けようとした。
だが、ドアノブに触れる前にユスティの大きな身体に脛を押され、室内の中心に向かって押し戻される。のけぞりすぎて落ちてしまいそうな後頭部を大慌てでショートは羽ごと支えながら、またギーギー怒るのだろと未来予知をしたのに、当たらない。初めて触った羽から伝わる懐かしい匂いと温度。呆けて羽を見つめたままのショートを背中で押し、反動をつけて自らの足で立ち直った姫さまの新緑は、訝しげに扉を睨みつける。
「何だ今の」
眼鏡の奥で、アンリの青い空は忙しなく瞬きこの場所の色を染み込ませようと忙しない。リーシャは必死に目元を拭っているが、なかなかうまくいっていないようだった。
そんな中扉は、勝手に開いた。
姫さまではない、ユスティでもない。外から、誰かが扉を開ける。ドアノブに手をかけ立っていたのは、長身で逞しい体躯の男。と、ショートは頭のてっぺんから足先までを見やり、その上で、胸元を盛り上げる胸に、男か女か、と胸中で己に問う。
「神に祈れ。神に祈りなさい」
恐怖の入る隙間もない無邪気な少女の声音は、喉仏がしっかりと浮いた喉を動かし、薄い唇から出てくる。
脳が混乱している。何もかもがちぐはぐな、正体不明の人は裸足のまま室内に入ってきた。吠え立てるユスティに片眉を歪め、すぐにいらないものだと言わんばかりに目を逸らす。ぐうるり、あからさまな態度で室内を見渡しわかっていただろうに、目の前の姫さまを月そっくりの微笑で照らす。
「祈る? 祈るの? 幸せになるよ、幸せになれますよ」
繰り返すばかりの言葉は一人の声だと言うのに、どうしてだろうそこに二人居るように聞こえる。腕の中でカルアーの背骨に沿った毛が逆立っていた。
「喋れない? しゃべれないの?」
心配そうに姫さまに近づこうとした何者かの前、立ち塞がろうとしたユスティをそれは蹴飛ばす。罪悪の躊躇などつま先には無かった。悲鳴も上げられずにアンリの足元まで転がっていく四つん這いの獣。
「貴様はなんだ」
ユスティの喉の奥から空気の塊が、不揃いに吐き出される苦しいえづき。
すぐにそばに屈み蹴られた場所に手を当てるアンリの顔は血の気がない。
「神さま。神様よ」
美しさは何かの答えのために作られた。神だと言うちくはぐの者の微笑も、顔も身体もどこもかしこもそう言った醜さがある。
「神なんて、いない」
醜さから逃げ出したい。そばに寄りたくない、見られたくすらない、両腕で頭を隠してしまいたい欲求は幼く本能的であるが、気力と理性でショートは掠れずに告げる。とたん、美しさの仮面は壊れた。
「神さまなの!」
剥き出しの欲望は、鼻の上にギザギザと皺を刻み、大きく開かれた口の中には左右不揃いな牙。頬を歪めて、目を吊り上げて、美しさなどまやかしにすぎない。中にいたのはただの、醜い何か。
醜いものが前屈みに両腕で自らを抱き締める動作は、ガラスにも見える黒い羽を広げるための予備動作。ぎこちなく、今にも壊れそうな音を立てて広がり、羽ばたく、前に光の針は無慈悲にそれを砕いた。
醜い者だとしても、羽の壊れる音はガラス破片を踏み砕くそれと似て居て心地よい。
「痛い! 痛いよ!」
床の上でのたうち回るチグハグの何かに、リーシャは心に音のない無感動な真顔で針を落とし続ける。
「その子に近寄んないで」
「なんで、なんでよ」
「私の大切な人が居るから」
途端、清々しいまでに汚物を嫌悪し憎むことに全力なのだと、顔を侮蔑に描く。
どうしてか姫さまの下唇が尖って、頬は膨れた。
顔を涙や涎でベタベタに汚れたよくわからないものの中に、もはや蒼天とは言いがたい蒼はリーシャを敵視する。だが、彼女に指先を向けられると大きな身体を丸め、隆々とした背中を震わせはじめた。
「やだ、いやよ。こんなの、やだ」
思い通りにならない子供は、泣いて周りを動かそうと必死になった。鼻を啜り、しゃっくりを繰り返す。泣き声だけは少女のよう。うずくまる大きな身体が見えなければショートは泣く声に胸を痛めたかもしれない。
物事の終わりを見たのだろうアンリは、一区切りを表す溜息をつく。連れられてリーシャも指を下した。
カルアーだけがいつまでも、毛を逆立ている。そのせいでショートは落ち着かずに、踵を擦ってずり下がる。
右足をずり下げると同時に、すすり泣きが止まった。
左足をずり下げると同時に、醜悪な泣き顔が上がる。
蒼さは晴天を模しているのに、すがすがしさの欠片も無く、あるのは恨みだけ。目玉が飛び出してしまう速さでリーシャを捉え、両手足は虫のように床を這う。
「っ、リーシャ!」
身の毛のよだつ気味の悪さを素早く認識することが出来ずに、ショートは喉を詰まらせる。その頃にはすでに、怖気を一杯に詰め込まれ体を固くしたリーシャの足首に、神だというよくわからないものが大きく口を開いて噛みついていた。




