如何にして 4
人工照明に照らされたコンクリートの床は冷たい。埃の臭いが喉を刺激した。小窓、扉についた手のひら一つ分だけ。だが、ショートがこの場所に入れられてから一度も開いた事はない。
音を食べる静けさが上からの立ち位置を陣取りショートの声を使って、頭の中や胸の内で喋り続ける。
お前は捨てられたんだ。お前はすぐに殺されるのだ……、偉そうに決めつける言葉を否定したくても、もしかしたらそうかもしれない、と考えずには居られない。
精神を少しづつ、少しづつ抉っていく時間の流れは雄大で、一つの呼吸の間にいくつもの星が巡っていくような気さえした。
抱えた膝に額を押し付け、足と足の間を嗅ぐ。微かな燃えさしと血のにおい。ゆっくりと登ってくる吐き気を飲み込む。顔を上げれば、もう少しマシな空気を吸えるとわかっていても壁に囲まれている今を見たくは無かった。
浅い眠りをほとほとと繰り返し、空腹があるかもわからないせいで食事の事など気にならなずにただひたすらに待ち続ける。向けられた者に平和を植え付けるエースの笑った顔が扉を開けてくれるのではないのか、そんな淡い期待。
だが、現実に扉を開けてくれたのは、エースと対峙し、許さないと残された女だった。藍色の髪を緩く後ろでまとめた女は扉を開けて、照明の中にうずくまるショートを見たからか息をのんだ。今の彼には重量級に等しい食事の香り。その後を追いかけて、コンクリートの床を叩くかちゃかちゃと玩具のような音と、それに重なる柔らかそうな駆け足の早足。
「あ、待って!」
窮屈に身体を丸めていたショート二の腕に軽いものが乗せられ、すぐに耳元をくすぐるふすふすという生暖かさ。くすぐったさに膝の上に目だけを覗かせ見た二の腕には、小さく黒いもこもことしたものが二つ乗っかっていた。
「ね、こぉ?」
ふと、思い出したのはエースの部屋の扉だ。黒くて小さな二つは、エースの自室のドアの隙間から見たことがあった。多分、きっと猫の前足だ。猫自体あまり接したことはないが知らない生き物でない事に安堵して気安く視線を横に上にと持ち上げ、ショートは間抜けを口から吐き出す。
黒い毛と肉球を隠した前足。ガラスの奥に意志と生命の塊を閉じ込めた右に縦二つ、左に一つの三つ目は、ショートを見てバラバラに瞬く。頭から元気よく伸びた耳の根元に柔らかそうなやはり黒い細毛。
鳴き声は、「なー」と「みゃー」の間。その時に見えた口の中には、鋭い牙が上下四本ずつ並んで白く艶々に光っていた。髭はピンピン伸びて、全体のフォルムは猫らしさはあるものの、どこかが猫と違っていた。
不思議と目の裏と脳の間の狭い隙間に、人違いにも思える懐かしさがある。
後ろ足で背伸びをして、黒い鼻先をショートの鼻頭にちょんちょんと二回くっつけて離れていく。健康な色をした舌が黒い毛に覆われた口の周りをひと舐め。また、なーともみゃーともつかない鳴き声を上げ、遠慮なしにショートの抱えた膝と腹の間に頭をねじ込んで登ってきてしまった。
「あなた、こんなあんな場所にいたくせに綺麗なのね」
女のこぼした石の独り言。大股でショートの側に近づくけれど腕の長さ以上の距離で立ち止まりそっと手に持っていたお盆をその場に置く。見る気もなかったが見えてしまったお盆の上にはオレンジ色のスープとパン、小皿に乗った一口サイズの果物、銀色のコップが窮屈そうに乗っかっていた。
綺麗と言われても、どんな反応をしていいのかがわからずに腹の間にいる生き物を潰さないように膝を抱え直し、食事の匂いに空腹を思い出した胃の中で疑問を溶かす。
ショートの見た目は平凡な顔だ。一重が個性になるのであれば軽い一重しか個性はない。エースのように、平和を植え付ける笑みを浮かべられる事もない。癖っ毛ではないがストレートでもない不摂生に痛んだ髪は焼きすぎたパン色だが、ショートの周りには似たような髪色ばかりだった。
人が口にする綺麗が指し示すのは、見た目が主。だがしかし、いくら疑問をお腹の中で溶かし吸収しても目に止まる見た目を持たないと自負しているショートは理解ができずに気味の悪さの味を舌上で音なく味わう。
「食べて。あなたの身柄がどうなるかはまだわからないけれど……うん、殺しはしないわ。おいで、カルアー帰るよ」
足元に目線を伏せ硬い物をよく噛むように言った女は、すぐに猫目の縁に自信家の若々しさを作って顔を上げた。ショートの腹の間で、丸まる生き物を呼んだのだろう聞きなれない名前らしい響きを小声で繰り返す。三つ目全てがショートを見上げ、控えめに返された返事。しばらく見つめ合っていると、黒い猫に似た生き物はショートの腹の間で顔を隠して再び丸まってしまった。
「……あぁ、もう。アンリの機嫌が悪くなる。カルアー!」
再度のきつい呼びかけに、膝と腹の間から尻尾だけがショートの体の横から溢れて揺れる。
「……ま、カルアーの気まぐれだしいいか。後でまた迎えに来るから、その子見てて。悪い事はしないけど、ご飯早く食べなきゃ摘み食いされちゃうからね」
返事を待たずにさっさと出て行った女が閉めた扉の後に、施錠の音がよく響いた。
「お前、ここに残ってよかったの?」
膝を緩め隙間を広くしたショートの腹の上でカルアーは大きな欠伸を漏らし、三つ目をまばらに瞬かせる。小さな頭が持ち上がり、必然覗いた目の中。
「綺麗だね、お前の目」
ガラスの球体の中に閉じ込められた、人を感化する命の衝動。見ているだけで、ショートの心臓にエネルギーが送られ力強く脈打つようだ。忙しなく口元を舐めている小さな舌は花弁の愛らしさがあり、垣間見える牙は小さくも逞しい。しばらく見つめあい、ショートは小さな身体から大きな体温を分けてもらっていると、全身の強張りが解けていくのを刻々と実感する。
「隊長のとこ、帰ろう」
消えてしまったエースがどうなったのかはわからないが、死んでしまったとは思いたくはない。なぜこんな場所に置いていったのか、彼の口からしっかりとした説明をもらうまで後ろ向きの考えは出来るだけしたくはない。そこに至ってようやく、ショートの腹は鳴った。
床に置かれた盆に並べられた食事を一瞥し、腹の間をを覗き込む。黒い口元を尖らせ一声上げたカルアーはのたうつ芋虫のようにショートの体の間から降りると早足にお盆に近づきスープに小さな舌を浸す。美味しそうに喉を鳴らし、また舌を出し、その繰り返しを見ていると空腹感は膨れ上がり慌ててお盆に身を寄せ千切ったパンでスープをすくい食べる。
「うわ、濃い」
トマトの味も、調味料の味もしっかりとわかる濃さ。パンだって、スープに濡れていようと口の中で噛んでいると甘みが口内に広がる。
「はじめて」
こんなにしっかりと味のついた食事をしたのは、はじめての事だ。舌が困って甘みや塩気のどれを追いかけたらいいのかわからず戸惑う。酒を初めて飲んだ先日もいつもよりも随分と豪勢な食事が出たが、それよりももっと見た目も清潔で強い味がした。口の中に残る香りだけでお腹いっぱいになってしまいそうだと考えるのも束の間、正直な身体は必死に味のする食事をカルアーと分け合いながら残さず食べ切った。最後に飲んだ水が喉を滑り落ちて、ふと、泥臭くない事に気がつく。
羨ましいと、お腹の中から暖かくなった身体を抱えて丸めた。
「こんな美味しいのはじめて食べた。ずるいなぁ、内側ってこんな美味しいのずっと食べてただなんて、ずるい」
鼻を啜って、目を擦って、我慢が出来ずに壁際で身体を丸めて寝転がる。カルアーも一緒になってショートの顔のまんまえで丸くなって一人と一匹は目を閉じる。口の中に残った風味、けれど、ショートが思い出しているのはエース達部隊の仲間と文句を言いながら食べたほとんどお湯のスープだった。
目を覚ましたと気づいたのは、埃臭さと目を開けてから何度か呼吸を繰り返した後のこと。窓もないこの一室は時間の流れが見えないせいで、全てが窮屈に止まっていた。ただ、そんな中でショートに唯一時間を教えてくれようとしてくれるものがいる。
カルアーだ。
一緒に目を閉じた事までは覚えていたが先に目を覚ましたのか、眠っていなかったのか、ゆっくりちまちま毛繕いをしている黒い毛玉はショートが目を覚ました事に気がつくと、側に寄ってわざと顔の横を小さな手で踏みつけて、頸を舐めた。
「いって!」
肉をこそげ落とされたと勘違いしてしまうほどの痛みに、丸まって床に転がしていた身体を起こし舐められた辺りを利き手、手のひらで抑え込む。手のひらの腹全体で揉み、痛みを皮膚を伝わせて分散させようとしてもなかなかひかない。よもや血は出ていないか、恐る恐る離した手を広げ見るが赤い印を擦った後はなかった。
「え? さっきこんなに痛かったっけ」
背筋をかがめ、カルアーに問うも「にゅーん」と、理解できぬ返事とふすふす鳴る鼻面。ショートの様子を三つ目で確認した後にまた毛繕いに戻った。
床で寝たせいで身体の節々は痛み、ただ足を伸ばすだけでも軋む。痛みを黙認し、無理やり伸ばして曲げて、捻ってのストレッチを繰り返すとようやく肩周りや腰に血流が巡り出す。
「いま何時だろ」
寝て起きたばかりで、またすぐに眠る気にもなれずに壁に背中をあて足を投げ出して扉を注視して座った。心身共に窮屈なこの場所は、ショート自体も小さくしてしまう。この先どうなるかもわからない、わからないことばかりだ。考えることは苦痛で、しかしわからないままでこの場に「ある」ことも気が滅入る。
手慰みに足先に水の球を作って気を紛らわそうと人差し指と中指を伸ばすが、首の後ろにじんわりと鈍い速度で伝わる熱があるだけで何も起きない。
全身の音が飛んだのは一瞬、戻った時には冷や汗が肌を隙間なく包み込んでいた。己の存在意義を確かめたい一心で熱を持つ首の後ろに手を恐る恐る持っていく。触るか、触らないかの微妙な位置で指先を彷徨かせ、意を決して触れた。
下から上に撫で上げた時、指の腹に伝わる凹凸。皮膚があり、皮膚と精霊石の境目があり、つるりとしたショートの青緑の精霊石がある。エースの目の色と近い石を辿り、首と頭の付け根に行く前にぞっとする穴があった。
「なんで」
指の感覚だけで見えてしまった。
精霊石が割れている。
何度なぞっても、指先が穴にはまる歪な感触は無くならない。しつこく、これが夢であることを願って何度も何度も擦っても、精霊石の表面がつるりとしたものに戻る事はなかった。
手を離し指先を力無く弾く。
何も起こらない。
拳を握り、開く。
やはり、何も。現実は変わらない。
ただ、首の後ろに苦しげな呻きを熱に変えでもしたのか、遅い温度の伝わる変化だけがショートに起こせた事象である。
「なんで」
誰に問うか、己に問うか。カルアーは、投げ出したままほっとかれているショートの足の間にはまって、脛を枕に三つ目で何もできなくなった青年をまったりと仰ぎ見ていた。
怯えた心臓の叫びはうるさい。気持ちは固まらずに、何か一つを胸に留めておく事は難しく、海の表面に泡立つ波のように沢山の感情が浮いてはぶつかり混ぜられ消えて、消えては混ざってまた泡を浮かべてを繰り返す。息苦しい事だけは確かだった。
何も起こらない手のひらを握ったショートは、もう片手を首の後ろに手を置く。
「おとーさん、おじちゃん、たすけて」
幼くして部隊に放り込まれた無知の子供と目を合わせるためにしゃがみ込んだエースは、まいった、困った、そう言いつつ平和を笑みにして行く当てないショートに居場所を作ってくれた。
おとーさんと周りに唆されて呼べば、すごい顔をしてでも照れながら、「しょうがねぇなぁ」と抱き上げてくれた。成人まで面倒を見てくれたのは紛れもなくエース達部隊の武骨な男達。父親として守ってくれたのは紛れもなくエースだ。部隊作戦に比較的安全な後方に配置されるようになってから子供っぽさを拭いたくて言わなくなってしまった、おとーさんとおじちゃん。その名前を呼ぶと、ようやく目の中にたっぷり涙が湧いた。
そこに居た一塊は、等しく孤独だったから、見捨てることはしなかったのに、ショートは今、一人きりだ。
みゅーん、とカルアーは鳴き、わざわざ足の上を伝ってショートの目元に黒い頭を擦りつけ、口を寄せ流れるはずだったものを全てのみこんでしまう。暖かい身体だけではない、三つ目の眼差しは幼いショートが全身に浴びて育った周りの大人たちと同じ。すっぽり抱きしめられてしまう小さなカルアーの背中に顔を押し当てると、大きなものに抱きしめられているような安心感。細く息を吐き、毛の中に潜んだ太陽の匂いを深く吸い込む。
気がすむまで黒い毛の中で呼吸をしようと決めたショートの頭上で鍵の開く音が頭を上げろと声をかける。この閉じられた空間に窮屈に押し込められていた身体は意識とは無関係に縋る目を上げた。
食事を持ってきた女と、錦糸の頭に氷った水の色をした知らない男。
キリキリに締め付けられたネジを彷彿とさせる強張った女の表情はショートに黒毛の香りを飲み込ませた。
「本当にカルアーが触れることを許しているなんてな、お前本当にうちを強襲した兵士か?」
美丈夫であろうが、全体的にひ弱な印象を受ける太陽の申し子。それが、男を一目見たショートの皮肉と羨望が汚く混ざった印象だった。
ずけずけと大股の足取りには警戒は無い。薄ら笑みを浮かべた顔には自信しかない。男は、ショートの持っていないものをすべて手にしている事で一人の個人として存在しているのだ、とカルアーの穏やかな息遣いの中には現実味は無くとも信じるに値する感慨は育った。
黒い毛の中に逃げ込んでいたショートの傍にしゃがみこんだ男の行動を、女が口だけで諫めるも無遠慮にショートの前髪を持ち上げる柔らかそうな皮膚の、骨ばかりが目立つ手は止まらない。
「よぉ、初めまして。俺が誰だかわかるか?」
無言で視線を逸らすことが、返答。
「だよな、別に有名人じゃないし。あ、でもこれだけは知っておいてもらおう。俺はな、お前らが夜間強襲して殺したやつらの上司、アンリさんと呼びたまえ」
その言葉に、思わずひきつけられたショートの目は上下に走る。
「言いたいことはわかる、わかるぞ。ひ弱な見た目してんな、こいつまじで戦えんのかな、すぐに死んじまいそうだな、そう思っているだろう」
「ーーいや」
「言い淀んだなお前、まぁまぁ気にするな。俺自身そう思いながら、上で踏ん反りかえってるから」
「はぁ……」
繊細な細い輪郭を歪め、大口で男は笑った。
「アンリ! いい加減にしてちょうだい」
「あの女は、見た目詐欺のリーシャだ、口うるさいババアと覚えておけ」
「アンチ!」
「アンリだ!」
顔の傍でぶつかりあう繋がりがある者同士のやり取り。疎外感はあれど、それを埋めたいとは思わずに、他人顔のままカルアーの舌を頬で受け止めていたショートは、縋る思いで指先に力を込めた。首の後ろにある欠けた精霊石は鈍足な熱を生み出すことだけが、今のショートに出来る事。
「さて、くだらない時間の使い方はこの辺にしておいて。お前、自分が今後どうなるかわかっているか?」
氷から削り取られた二つの眼は、ショートの心臓を砕いてしまいたいのだと欲が見えた。首の熱だけが取り残されたショートの身体は、内臓から震えてしまいそうで奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
「お前等は、俺の大切な部下を、民を殺した」
「俺の大切な人たちも、ーー死んだ」
震える舌を必死に動かす。動かしてから、ショートはひとりぼっちを音にした後悔に口を閉じした。
「そりゃ、手を出したのはお前らだ。どうなったとしてもそれはお前らの責任だろう。無辜の民や怪我で前線を引いていた俺の部下達から見れば、お前らは極悪人だよ」
「なぜ?」
「なぜってお前そりゃ、」
問い返されるとは思っていなかったのか、アンリはわかりやすく困惑に肩を引く。
「神様はそう望んで、あんた達だってそれにしたがってる。いつもルールは一つ、今は相手の血を沢山流すこと、だろ」
時の詰まりは、僅かの事。すぐに、流れだしそれに合わせてアンリは大口を開けて、目を強張らせてつまらなさそうに腹から笑って見せた。
「そりゃそうだ人間性も、倫理もルールの前には無い。だがしかし、あれを神だと? 馬鹿を言うな」
「でも、あんた達だって従ってるだろ」
「腹立たしい事にな! 負ければどれだけの人生が狂うと思ってんだ。内側に残りたいさ。でもだからって、最低限の人間性まで手放すつもりはないんだよ。神に狂った獣め」
エースの獣の面を被った姿が目の中で残光のように浮き上がり、消えていく。その後を追いかけて瞬きをしても、ショートには追いつけない。
「そもそもあれがなんであるのかわからないというのに、俺たちが手のひらに乗せられて弄ばれている事自体おかしいだろ。あんなもん殺して然るべきだ。人には余計なもんでしか無い」