如何にして 35
まるで戦場の一区画を室内に持ち込んだような有様にも関わらず、エースは今しがた助けた精霊の大きな背中にのしかかりアンリに目で問う。
「お前……、やり過ぎじゃないのか」
眇められた新緑の傷一つない宝石は、左右同じ形、同じ色であるといういのにまるで違う表情を浮かべ、だが、どちらも予想外の結果に当惑しているアンリに興味を失ったとそらされる。
「気が向いたら怪我は直してやるよ、死人はいないだろう?」
細い指先は、のしかかっている精霊の毛を絡め、徒に引っこ抜いて指先で丸め毛玉にして、爪の先で遠くに飛ばす。
「ショートの所に戻る間なら、話を聞いてやるさ。おい、そこのでかいの、こいつはもってくぞ」
それだけいうと、精霊のたくましい首を白い手のひらが脈を確かめる手付きで叩いた。抗議の唸り声はなく、ただ厳しい見た目に反した哀れな、項垂れた目がガーランドを求めている。全身のいたる箇所をたれ下げて、とぼとぼというコミカルな足音の幻聴を聞かせ血なまぐさい室内から出ていこうとする。
「おい、ユスティをどこに――」
名前を呼ばれた途端、獅子と犬とを合わせた精霊、ユスティの尻尾は大きく振れ空気の焼ける匂いが香った。背中で怠惰を見せるエースの無防備な裸足の埃を尻尾が払う。
「布団にする。押し込められてる部屋にはベッドが一つしかなくて、ショートが床で寝てたんだよ可愛そうだろうが」
「布団にされるユスティだって可哀想だろうが!」
ユスティの尻尾をつかんだガーランドの手を、エースは足の裏で蹴った。それから、上目に周りを伺う、弱腰のユスティを覗き込んで、額のあたりを立てた指先で毛を集め摘んで、抜けた毛を口元に。息を吹きかけ、何もなくなった手で再度たくましい首筋を叩いた。後ろ髪をひかれつつも、進みだしたユスティにガーランドは地団駄を踏み出しそうな、悔しげな頬を引きつってついていった。
扉が閉まり、残されたアンリは室内の状況をただ眺める。
恐れを穿たれた人間の目は、エースを伺っていたユスティのそれとそっくりだ。
部屋の隅に縮こまった男たちに近づく。広い肩が罠に引っかかった子鹿が乗り移ったように震えていた。
「……あれが、女神だと?」
絞り出された問いは疑問ではない。崖底を覗き込む絶望のそれだ。そして、闇に隠された底へ突き落とされた者たちは、権力も膂力も関係なく等しく無抵抗すらも許されない弱き存在としてしか許されない。アンリは、もう一度、じっくりと室内に残った男どもを見渡した。
見渡して、背筋を砕かれそうな寒気を覚え、だが奥歯を噛み締めぎこちないとわかっていながらも不敵を全身に作り出す。本当は、何もかもを放り出したいけれど、もはやそれは許されない。
「ああ、間違いなく女神さ。ほうら、奇跡はそこに」
床で呆然と座り込む男を顎で指す。その男の顔には、涙の代わりに血の流れた跡があった。エースに俗物の下卑た欲を向けた男の目は、現実を受け止められないといったように己の両手を見下ろす。赤く弾けた視界は、指先一つで光を奪われ、そしてエースのさじ加減一つでまた、光を取り戻す。
「正しく、神じゃないか」
真似ろとは言ったが、ここまで本格的だなんて、アンリの想像予想に反している。
「ーー最高だろう? 俺の女神は」
納得できないことがあるはずなのだが、そんなことはどうでもいい問題だった。
神の一端に触れ、なんと矮小であるかを噛み締めている男たちを置き去りに、アンリも部屋を出る。廊下の小走りで駆けつけられる距離に、気乗りのしない鈍足で揺れる尻尾。その隣に、何かを喚いても相手にされないガーランドの後ろ姿。それから、ユスティの背中の上で、羽を揺らす女神が見えて、大股で追いかけた。




