如何にして 3
命を掴む感覚は、いつも無感触。握力を込めて、両手を握れば、遠く灯りを頭上に光らせ走る人の波は幾重の波紋を作る滴となる。腕、脚、身体、頭、人は幾つのパーツに分ける事ができるのか、エースはその瞬間を見ると時折考え数えたが、血に転がってどれが誰の体の一部なのなすぐにわからなくなるせいで、今でもはっきりとはしない。
どよめきは恐怖だろうかそれとも憎しみか。寸の間止まった足取りは、すぐに原動力を増して動き出す。
「ばぁか」
握った両手を開き下に押し込む。が、反発する力のせいで上手く押し込めない。ショートが素早く風と水の壁を張ってくれなければ、四方死角から降る光の太針に貫かれていただろう。仮面の中で、鋭く尖った犬歯を剥き出しに両手を力任せに押し込み切った。
ため息の間を要し、地面ともども潰れた数人は、みんな同じ軍服を身に纏い、皆同様にひしゃげ血を撒き散らす。
エースは敵兵の掲げる光の球に煌めく赤い飛沫を目に、ショートの襟首を掴んで飛び上がった。その刹那、エース達が立っていた場所をも巻き込み破裂する雷が蜘蛛の状に走り抜け、敵を内側から焼き切る。肉の焼ける香ばしい匂いにエースは唇を舐める。
「隊長」
「ハデだねぇ!」
背後にいつのまにか追いついた部下の一人が片手を肩の高さで開いた瞬間、辺りがぼっと音を立てて明るく灯る。火の元は、仮面を被った頭。頭が燃えてしまった。
「っえ、」
呆けたショートの夢を見た喉。落下していった部下の身体は地面に叩きつけられ頭のあった箇所から燃え盛っていた火を消す血の飛沫は勢いよく、すぐにできた大きな血溜まり。
「悲しいなぁ、ショート」
「は?」
「これが、神様のお遊びなんだよ」
宙を蹴る。エースの喉の裏の方から頭、目にかけてグラグラ、くるくる回る視界。どこが上か下かは関係無く、どこに行けば生き伸びられるのかということをショートをぶら下げた手の重さに考えさせられる。邪魔な障害物は殺し、地面に足をつけてすぐにショートを後ろに付き飛ばし、群がる者どもをバラ肉に変える。
遠く近く地も空も駆け回りエースの視界を彩る部下達の数はわかりやすく減っていた。
わかっていた事であったし、そうなるだろうと腹に決めたつもりでも、喪失感は耐えがたい。けれど、それに呑まれ浸り悲劇に嘲笑される自虐を胸の奥に止めエースはショートの前に立ち続けた。
「隊長!」
立ち続ける気概や気骨はあっても、現実は許してはくれない。気持ちだけで世界は成り立っていない。蟻だって大きな相手、強い相手には数で押し切ってしまえるのだ、人間だって出来ないはずもない。
「ああ、やだね」
蟻が大きな顎で獲物に食らいつき、動きを封じる様を人が演じる。獲物の役を与えられたエースは、だが、台本に抗い食われる未来を少しでも捻じ曲げようと何度となく炎と銃弾を防いでくれているショートを肩に担ぎ、傍の建物の屋根に飛ぶ。
「風で運べよ」
「どこに!?」
どこにも行く当てなど無い。街の中程の上空で渾身の輝きは爆発し二度と光る事はなくなった。辺りに散会した光も、あとどれぐらいですべてが消え去るだろう。さようなら、はどこからも聞こえてはこなかったし、エースが唱える暇も無い。
「どっかに!」
大粒の火の雨がエースたちの頭上へ落ちてくる。足元の建物が揺れたと認識するや否や崩れ去る。宙に投げ出された足は落下しながら共に落ちる破片を蹴った。その背中を押す強風に乗って、空へと飛ばされていく。高くまで持ち上げられたエースが見下ろした街は、様々な種類の灯りで照らし出され、凄惨な台地を描き出す。
よくやった方だ。エースは、風の中で呟く。
たったの十数人の犠牲はどれだけの血か。それに比べ、この街で流された血は洪水の如く、だ。眼窩に嵌った目玉は、惹かれるように白い建物へと吸いついていく。前線で傷ついた兵士達が詰まった病院は、それだけで血の香りがした。
「ショート、お前よくやったよ。もういい、離脱してどっかの隅っこで寿命を待てよ。そのうち来るからさ」
腕を開きショートを手放すと、風の中で僅かに距離が開く。しかし、そのあいた距離はすぐに人の発する温度に埋められ、風はエースを手放さない。
「だから、嫌だって言ってるじゃないですか!」
ふふん、とエースの喉は笑う。生きろの願いと背中合わせの悲しみは、胸に暖かかった。
「ま、これが最後だ。ほかはもう先に逝くだろうし、いっただろう。だから、最後に卑怯でも、人でなしでも何でもいいから、あの白い建物の傍に」
「……わかりました」
引っかかりを呑み込んだショートは、苦しそうに仮面の隙間から溜息のようなものを漏らし、風を操る。
騒然と人を吐き出し、飲み込みを繰り返す白い建物にかかる風の上でエースは、人の心を捨てて手を振り下ろした。雷鳴のように大きな音で軋む白い建物の中には、どれ程の人数、動けない兵士がエース達の物音で悪夢に飛び起きベッドの上で不安に苛まれているのだろう。
「かわいそうに」
残った人の残骸を人でないものが口にしたところで、皮肉か嫌味のような響きにしかならない。数秒の間を置いて軋んでいた建物の半分から上は、小さく圧縮され、血だけを辺りにまき散らす。グレープフルーツを絞ってもこんなに果汁は出ないだろうなと、エースは自らの所業に呆れ半分感心半分。
血を吸った地面は、雨後よりもねちっこく足の裏に絡みつく。下りてすぐにショートを背後に隠したエースは、大の大人が啜り泣き、神に祈り、命を無様に抱きしめ逃げ惑う様を鼻で笑い、他人を押し退けてまで生き残ろうとする命の群れに向かって手を伸ばした。今更、一つ二つと言わず、両手の数、それ以上に奪ったとしても変わることなど何もありはしない。
エース自身も、世界も。
ゆっくりと手のひらを握り、空っぽの感触を握る間際、突然世界は目を覚まし色を思い出した。刹那、明るすぎる光に戸惑った視界は何もかもを燻った白に塗られ、瞬きの後に地味な色で世界は描かれる。
残った白い建物の下部を汚す赤は雑食性の悪臭をもち、地面は黒い染みを通り越して使い古された油を塗りたくったように見た目もねちっこい。口の閉じ方も忘れ逃げ惑う胸板の厚い男、肩の筋肉逞しい女、その中で場違いな甘い香りがエースの目に入る。子供が検査着の腹の辺りを握りしめて天に向かって泣いていた。
「怪我人は後方へ退避! 戦える者は前に!」
「お?」
ごちゃごちゃになって人が人を蹴って進む無情な環境を串刺しにした憤怒。だが、抑揚のついた声音はしっかりとした理性の張りがあった。どんなにガタイが良かろうと、どんなに力があろうと、命を曝け出してしまえば子供と変わらぬ中、一人だけ勇ましくも血を踏みしだきエースの前に立ちはだかる女。
太陽を頂いた女はエースの肩の辺りに頭の天辺があった。黒よりも優しい、藍色の髪を高い位置で一纏めに、化粧っ気のない夜空を宿したつり目は猫のような愛嬌があって、飾らない方が美しいだろう造形をしていた。引き結ばれた口元、緊張に筋を浮かせた細い首筋、後ろに数人の男達を引き連れていても加護される対象ではない存在感にエースは、肩を揺らして笑う。
だって、そのまま過ぎたから。
「何か楽しいことでもありましたか?」
慇懃無礼の敵愾心は、今にもヒステリックに爆発してしまいそうな擦過傷の緊迫感をまとっていたが、年を重ねた今、爆発を堪える術を得たのか導火線は長く保っている様子を見る事ができた。
「あるねぇ」
贋物の白い太陽の下、生臭い臭いを食みながらエースは仮面の中、世界に線を引く神ではなく名も存在も見えない胸のうちに浮かんだ神に祈った。
「ショート」
手招きで呼び寄せた頼りない、大人に成りそこなった肩の出っ張りに手をかける。それと同時に手を伸ばし、女の後ろにいた男の一人を潰した。小さくなった塊から落ちた真っ黒い鉄の塊は、地面に当たると跳ねる事なく小さな爆発を起こす。
それが始まりの合図だった。
エースは躊躇なく、女の背後に居る男だけを殺していく。握って、押しつぶして、血を撒き散らす。男達も銃を乱射するが熱や雷、氷を纏った銃弾は全てショートのつくる風と水の壁に阻まれる。
女は、エース達と同じく手ぶらで腕を振るだけで光を高い位置に生み出す。鋭く尖った光が実直にエースに向かっていくもショートは力を込めた手で壁を作り弾く。が、どんなに体格が良かろうと、どんなに背が高かろうと、行使する精霊の力の強さとはなんら関係のない事。女は重たそうな人差し指を親指に引っ掛け弾いた。
途端ショートの作った光の針は壁に突き刺さりぐずぐずと溶け穴を開け、ゆっくり貫いて通り抜けていこうとする。
「クソっ」
歯を食いしばり、全身に力を込めてショートは弾き返したが一本の光の針はエースに届いてしまった。狼の仮面が足下の赤い血溜まりの中に落ちて浸かる。咄嗟に俯いたエースは、しかしすぐに無防備に顔を上げ、女と真正面から対峙した。平和な象徴を胸に抱かせる微笑みを浮かべて。
「やぁ」
親しげな呼びかけに毒気は無かった。傍に居たショートがあまりの馴れ馴れしさにギョッとして肩を強ばらせ動きを止めてしまうほどに安寧の中の優しさという温かみがあった。だのに、女はその優しさに刺されでもしたのかよろめき踵を地面に擦り付け後ろに下がっていく。まるで罪を暴かれてしまった後悔の罪人の顔をした女の強張った顔は青い色彩に薄らと染められた。
「アセメリア……?」
「……そう、あの日りーちゃんのせいでこんな悪魔みたいな人殺しになった男だよ」
「ひっ、」
女の猫目の中、決壊した後悔と罪は流れる事なく瞳孔の奥に渦を巻く。
「隊長?」
黒い鱗や鋭い上下に四本ずつの犬歯も見慣れているわけではないが、それよりも無理をして苦そうに口を持ち上げ笑う初めての横顔を覗き込んだショートは、掴まれた肩の手から荒々しい脈拍を感じとる。
「そっちは……いいね、何をしても人だ。弟は元気か知ってる?」
沼に嵌まりに行く足取りに引っ張られて、ショートは小股で肩を先にエースの後についていく。振り払うことは不可能ではない事は、肩に触れる指先の緩い力加減でわかってはいたのだが、そうすることを躊躇させ、この場におどろおどろしく集まろうとしている目には見えないものを霧散させてしまう可能性のある口をしっかりと閉じて従う。
足取り悪く頭を揺らしてエースが近づいても、女は見るからに顔色悪く、腹を叩かれたように呼吸を浅く荒くするばかりで、意識的に身体を動かそうという様子は見られない。
「ねぇ、あのね。りーちゃん、俺、沢山人を殺したよ」
「っう、」
「境界線のこっちに来ちゃったから」
女の背後にいた男達は困惑しながらも、エースに銃を向ける。だが、引き金も銃身も、銃を持つ手も身体も呼吸の僅かな合間に粘土のようにひしゃげ生臭さを溢した。。
「こんなふうに」
鋭く尖った爪が生え黒い鱗が僅かの灯りにちらちら光る手を女に見せつけてから背後に向けられ握りしめた。風のしゃっくりかと思ったが、地面に落ちた鉄の塊の音の後に気がついた。それが人の悲鳴だったのだとショートの頭は鋭いほどに鮮明に認識して鎖骨から下へと冷たい電流は流れるのに足は素直にエースの手に引っ張られて歩き続ける。
「俺は、まだ人だと思う?」
酸素を求めた魚が乗り移った女に声はない。長い鰭は無くとも、水の中で揺らすように首をゆらり、ゆらり横に動かすがエースの言葉に対する否定では無さそうだった。単に、今を嘘と決めつけたい願いが女の首を振らせただけだろう。
二人にどのような接点があるのか、ショートにはわからないが、わからないからこそ冷たい女だと、エースを哀れに思った。
飛んでくる銃弾の数は、エースが手を振る、握る、ささやかな動作で減っていき、その代わりに使えない鉄の塊と血溜まりが増えていく。
女の目の前に立ったエースを肩越しに横から見上げる。ショートよりも高い背、厚い胸板、硬くて甘くないチョコレート色の襟足が長いくせっ毛。笑うと平和がそこにあるのだと錯覚してしまう、笑顔。
今の横顔には、それらが全て無かった。
小さく細くの印象、湿った枯れ木の毛羽だった繊維、嘘つきの後悔は微笑みになると周りの音を奪う。
「ねぇ、りーちゃん。許さない、許さないから、だからこいつを生かして」
肩を引かれ、あ、と思うよりも早く首に時間を無くす痛みが全身に巡り、気がつくと手を放されていた。転び膝をついたショートの目の前にスマボに包まれた震える細い脚がある。
「絶対に生かして。許さないから、生かして」
ふり仰いだ背後、エースの頸の辺りから埃のようなものが噴き出し、姿を隠していく。
「まっ、隊長!」
「生きろよ、ルクシア」
塵芥にのまれ、ぼんやりとした姿が先のない手を振るのがわかった。大きく息を吸い込み、すぐに咽る。気がつくと、ショートの首の後ろ辺りからも変な臭いのする埃が出ていたけれど、量は少ない。
「ゆるさない」
声は塵芥のなかからぼんやりと、そして自然と霧散していく。そこには誰も居なかった。