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如何にして 26

 いじけた口が尖ったのも束の間、女神は落ち着いて再び組んだ足に肘をつく。羽が全て健全な状態で有れば隠れてしまいそうな、小さな背中。

「どうなるとは?」

「俺の処遇だよ。敵の兵士だ自由って訳には行かないだろ、じゃあ殺されるかと思えばこうやって縛り付けられる事もなくふらふらできる。なに、どうしたいのか展望はあんの?」

 腹に弾みをつけ、アンリは勢いよく身体を起こした。座った女神が揺れ、羽同士の擦れる頭の中から涼む音は気持ちがいい。今更になってやってきた眠気にうとうと瞼を溶かしつつ、夢とこんがらがりそうになってしまうのを何とか解いていく。

「お前を、神にするんだ。境界線を無くすための神にする。神なんてもんは居ない、だが」

 眠い目をうろりと持ち上げ、方頬を興味の形に持ち上げている、女神、と人から呼ばれるものをうつす。

「神を信じる者は、お前が上の方で羽を光らせでもすれば安心するんだろ? 境界線に縋る馬鹿には新たな神が必要だろう。不安に押しつぶされて暴れられても困るんだ」

「さぁ、信仰する神なんて持ったことないから知らねーよ、そんな事」

 ヘラヘラ肩を揺らす男臭さと女らしさ。そのどちらもが合わさると、摩訶不思議な存在を作り出す。

「だが、あーー、そうね。はいはい」

 明後日を先見た新緑は、我儘を受け入れる寛容さを平和に、顔をくしゃくしゃにさせた苦笑に変えて何度か頷いた。

「ま、境界線を張ってるアレが無くなるのはこちらも望むところだ。せいぜいお前の望む神とやらを演じてやろう」

 ベッドから勢いをつけて降りた背中で羽は鳴る。寝ぼけていたからと言われればそうではあるのだが、アンリはずっとそうしたかったに違いない。手を伸ばして、壊れた羽を指先で遠慮がちに摘めば見た目通り軽く仄暖かな感触。それを指で擦りながら、思っていた通りの感触に胸を撫で下ろした。

「おい、デリカシーがねーぞ」

「デリカシーって、」

「無いだろう、勝手に大切な場所を触りやがって。なんだよ、責任とってくれんのかよ?」

「せ、責任ったって、壊れてるじゃないか」

 室内にも関わらずお構いなしに、壊れた一対の羽が大げさに上下し、床や布団の埃を舞い上がらせ、しばし二人はいがらっぽさに喉を唸らせた。ツンケンと咳を誘う喉の身震い。それを飲み込めずに咳き込んだアンリの目に生理的な水の膜が薄く貼る。輪郭を引っ掻き回さない程度にぼやけた世界の暖かな光の中、降り注ぐ雪、ではなく埃。綺麗なものではないと分かっていても、アンリは綺麗なものだと、感じ入ったのを女神は鼻で笑った。

「所詮、上辺だけが綺麗なもんなんだよ。それも、他人が綺麗に見てるだけ」

「なんの話だよ」

「俺、お前、人、それから神とかいうよくわからんもん。ここに生きてるもん全部だ。本当は、全部汚いに決まってる」

 裸足の足音は、大きくはないと言うのに不気味に強大な錯覚をアンリに聴かせる。たったの数歩の間を勿体ぶる訳でもなさそうに、だがゆっくりとダボダボのズボンの中の脚を動かし、女神はベッドの上で動けなくなったアンリを上から覗き込み満足気に口を開いた。

「だから綺麗なんだよ」

 平和を笑みにかえて浮かべる火傷の跡のついたそれでもこれ以上になく、万人の目に美を描く美しい顔。その中にあるパーツだって、コンプレックスのカケラも無いだろう、出来すぎた形の良さ。芸術家が一生を費やしても生み出すことのできない完全な美がアンリのすぐそばに居る。人工でも自然でも作り上げることのできない、新緑の双眸の中に映るアンリの影が憎たらしい。

 薄く開いた唇の奥に、白く尖った牙の艶々とした表面は甘そうで、急いで口を閉じたアンリは狼狽えどこを見て良いのかわからずに俯いた頬は熱い。

「ん、あんた石も無ければ、契約もしてないのか。おいおい、境界線を取っ払うってのにそんなんで大丈夫か?」

「お、お前のとこの、ショートがカルアーを持ってったんだよ! 元々俺が目をつけてたのに」

 縮こまった身体の中で、心臓は跳ねる。うわずる声早口と滲む汗も抑えようはない。

「ひは、それはすまん。あの黒猫にとってあれは可愛いくて美味そうな獲物なんだろうさ。ま、俺の息子は可愛いし、あれがついてれば行く末は安泰だろうからお父さんはぜひに、だ」

 絵本の中にいる猫のようにニンマリと、だがやはりとして平和な笑みを浮かべる女神はご機嫌よろしく裸足の足でステップを軽く踏み、癖っ毛を揺らす。

「その可愛い息子さんのせいで俺は悲しい独り身なんだがな。別に良いけれど、精霊が居なくたってどうにでもしてやるさ」

 本当は、と歯と歯を強く噛み締めたい所ではあったが、無理やり顎を動かす。女神のそば、羽に仄明るく色づいた壁に映る揺れる影を追いかけ、気づかれたくないため息をそっと吐き出す。

「仕方ねーなぁ。助けてくれた恩もあるし、それに――」

 人の気を手繰り寄せる含んだ途切れの端っこ。片手を腰に、もう片手を顎につけた女神はアンリを無遠慮に見回す。頭、顔、身体、また顔、頭。見えない熱にくすぐられているようで居心地悪く、だが動くこともできずにベッドの上で縮こまる。

「ふん、まぁショートのような可愛げはないが、趣味は悪くないんだろう、知らねーけど」

 まるで誰かと会話をしているようではあるのだか、それはアンリではない。すぐ近くの誰かにせっつかれてそれをなあなあ受け入れるように、中身のない寛容さで頷いている。面倒くさ気な陰影は刹那、それを素早く呑み込んで女神は右目を挑発的に細める。顔の左右で違う顔が浮かんでいる違和感は、裸足の足で一歩踏み出した途端霧散した。

「力を貸してやろう。ただ、膝を折るのはお前だ。どうする?」

 隔絶された世界に放り出されてしまったようだった。頼る者は目の前の、何だかよくわからぬ女神と呼ばれるものだけ。その者が持つ新緑の中に再び閉じ込められれば嫌悪は無くなった訳ではないが、それ以上の安堵があった。足場にしっかりとした大地がアンリの肩幅だけあるのと同じでその双眸から逃げる事はできない。いいや、その時すでにアンリには逃げると言う選択肢は木っ端微塵に概念ごと砕かれ、そういった選択肢があること自体、忘れてしまっていたのだ。

 半ばから砕けてしまった陽の光にぼぉっと灯る一対の羽は、空気をかき混ぜないようにゆっくりと動き、アンリを閉じ込めていく。

 恐れは無かった。ただ、暖かさだけでは説明もつかない涙の熱。アンリ自身にもわからない目から溢れ出した涙を細い指先が拭う。後に残る頬にひりついた痛痒。

「小さな傷だ、治してやろうか?」

 考える事なく首を横に振った。彼にはそれ以上に望む事があったからだ。

「かみさま、」

 だけれど、何と言葉にすれば良いのか。困惑に喉を詰まらせたアンリは新緑の中で頼りなく幼い顔をしている。自分自身だととても信じられなかった。

「かみさま、おねがい」

「うん」

 相槌の内訳など一つもわからない。わからないが、アンリの心は、正義、正しさなど、そういった真っ直ぐすぎて他者を押し退けたり自身を自己中心的に守ったりするものに許され、解き放たれた。

 全てが肯定されたのだ。

 涙を流し続けるアンリの顔の上、女神のきらきら輝く右目と、柔和に平和を謳う左目が覆いかぶさる。薄く開いた唇から覗いた甘そうな白い牙と、薔薇色の舌。

「ようこそ、従僕の世界へ」

 その時、アンリは女神も悪魔も、そして人も見た。

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