如何にして 22
逃げていく花々は、どこに向かうのだろう。風に流されるままに駆けるものもあれば、まったく逆方向へと去っていく花弁もある。逃げられない花は、何を願ってリーシャに手を伸ばす。
「数だけはいるんだから!」
背後の建物の中、周りの影の中からぞろぞろと姿をあらわにした獣達がリーシャを見て嗤う。知性はあるだろうに飛びついてくる獣を光は追い払おうとするも、眩む思考もない獣にとってそれはたんに避ければ良いだけのものでしかないらしい。
涎の滴る牙をむき出しに、連携とするにはお粗末であれど多勢に無勢。一人きりであれば、すぐに食われる。空気の中で無理やり鳴らされた雷鳴が肌を震わせ、ショートの腹に力がこもり歯を食いしばった。
カルアーの存在がすぐそばに。そしてショートの万能感は、前のめりに身体の中から飛び出していく。意識して初めて触れたカルアーとの契約の証は獣を見えない壁で押し返す。そのまま手のひらを握りこめば簡単に殺してしまえることが出来ると、わかっていた。
食いしばった歯から血の味がした。昔、獣になる前に舐めた、忘れもしない血の味と同じ。
光の針が左右を貫き、獣串が二本。痙攣する身体が鮮度を物語る。突き出されたナイフを持つ手を蹴とばして、リーシャは息も付く間もなく足を縺れさせそうになりながら後方へ、ショートの傍まで退いた瞬間に、今しがた彼女の頼りにしていた地面が爆ぜた。そこから噴き出した水が獲物を捉えようと、二人の足に絡みつく。
重たくなった足元に飛び込もうとしてきた剣の先をカルアーの威嚇が追い払った。そのあとに続いて、ばつん、と弾ける音の連続。瑞々しいからこそ生々しく、果実が手ひどく扱われゴミに変わるように、バラバラと落ちていった獣。
「カルアー、お前」
フードから身を乗り出し、ショートの頬に擦りつけられた暖かい身体。
カルアーのその行動はお前は何もするなと言わんばかりだ。三つ目にから漏れ出す冷たくも熱い視線は、汚いものがショートの視界を掠めることすら嫌悪して潰していく。逃げる事も許さず、抗うことも許さず。たとえ、獣に抗う力を向けられたとてカルアーは薄い舌でその場に留まる血の香りを舐める程度の動きで獣を殺す。
背筋に走った清涼の心地よさ。何度吸っても吸い足りない呼吸でぼんやりとしていくショートの頭の中。
「カルアー」
呼びかければ、甘い鳴き声は帰る。ショートは泣きそうになっている己自身がわからなかった。ただ一つ、わかるとすれば何かが軽くなり、何かに縛られた不自由さが身の内にあることだけ。
「獣には似合いの最後よ」
リーシャの両手が大きく開く。夜の空に生まれた朝の欠片は、地面に僅かに残った獣の頭上に光る鉄槌を落とす。
しん、と辺りに落ちた静寂。呻く声も、風の内緒話も無い。だがその中に、微かに笑う声を見つけてショートの目は彷徨う。そして、見つけた。
血肉が浸る血だまりの中に取り残された表情も潰された女は、黒い穴を引き攣らせ血と悦楽の声を滴らせる。
その時、女の上には、どこからやって来たのか、砕けた太陽が登った。
暖かな日差しは優しい手の平そのものであり、女は満足げな吐息をつく。壊れた身体を無理やり動かし女はすべてを受け入れ、そうして太陽に頭を踏みぬかれたのだ。残された身体が腹を波打たせ、止まった。
すべてを照らす太陽の光。夜すらも焼き払う、朝を着る太陽の眼差し。
静かになったのに、低く唸るカルアーの警戒と威嚇は小さな身体に残ったまま。
はっと、ショートは身体を強ばらせた。
「隊長」
裸体を晒すショートの知らぬエースの身体。細くくびれた腰に、抉れた傷と汚らしい赤の手の後があった。薄くなった胸は、男のそれだ。だが、太陽はしなやかな両足の間から伝う男の性すらも明らかにしてしまう。筋肉の隆起も無い白い腹が戦慄き、首に巻きついた首飾りを指で掴んだエースは身体を折って、吐いた。
血とは違う、白く濁っま生臭いにおいだけしか風には混じらない。生理的であろう涙を目に溜め、瞬きも知らぬ新緑の双眸はぼんやりと何も見ていない目でショートを閉じ込める。
「やれ!」
隠れ潜む声のまるで弱虫のつけあがった命令を、ぼんやりと空っぽだと断言できてしまうエースは考える事無く、ゆっくりと従った。動く為に、なにかの電気信号を待つように。その後ろで背中を見せて走り去る丸い獣は、羽織っただけの軍服をひらひらと翻して遠ざかっていく。
血の味のする口内は舌が空回る。その代わりに地面を強く踏んで獣の後を追いかけるショートを、割れてなお芸術の感性に強く呼びかける羽は遮るために光った。
一人で立つ事を常と考える太陽の強さを、果たして今のエースは持っているのだろうか。無理やり羽に立たされているだけではないのだろうか。ネジを巻かれ、内側に沢山の歪な歯車と鉄線を仕込まれた人形は関節から良く無い音が漏れてきそう動きで、ショートに色違いの両手を差し向けた。速さはあっても正確さも、意欲もない手を避ける事は簡単。空気を力一杯に握る手の甲に触れる事だってできてしまいそうだ。けれど肌の色が並ぶと微妙に違う両の手のどちらに触れるべきかショートは悩んで、身体を足の裏ごと退く。かっくりと首を傾げたエースは、割れた羽をぎこちなく羽ばたかせる。暖かな風が足元から持ち上がった。
「アセリア」
リーシャは駆け出した。
親を見つけた子供が一心不乱に駆け寄る時、頭の中にはただ一人だけが居て、他は何もない。時間も、景色も、温度も何もかも。熱心に願うのは、両手に抱きしめられる事だけだろうが、エースには親が抱きしめる理由がわかっていない。そんな顔をしている。
半泣きで半笑いの顔で一等を見つけてしまった少女をぼんやりと、それでも不可解なものを見つけたように眉間に力を入れエースは後ずさる。早く飛ぶ虫がなんであるのかわからないから力一杯追い払うように、細い腕についた筋肉をできる限り硬くして幼い少女の顔をしたリーシャを追い払う。途端、少女は女性に変わった。
「なんでよ、なんで!」
秋の空だって、もっともっとなだらかな乱行化をすると言うのに、リーシャの情緒は見るからに荒れに荒れている。次に何が起こるか、彼女自身だってわかって居ないだろう、そのせいで息苦しそうに肩を上下させ、今にも内側から破裂して固い頭だけを残してしまうのではないか。そんな危機感はショートの胸の痛みとなった。
振り払われた手を、それでもそれでもとリーシャは伸ばす。無理に触れるには勇気が足らない両手。
リーシャの裏表のある期待の視線を裸体を晒したままぼんやりとした目を泣きそうな眉で額を飾るエースは、落ち着きなく壊れてなお日差しを産む羽を震わせる。足を伝うものは、未だにみずみずしい。
胸に両手を抱え、後退る。鬱陶しそうに首飾りを指先で何度も引っ掻くが、ピッタリと肌に張り付いたそれは微動だにしない。
「アセリア、ずっと一緒でしょ、大丈夫よ同じじゃない私たち」
同じ、とはどう言うことかショートは内心で首を傾げた。カルアーは、ずっと背中に両肩の骨を剥き出しにしてエースを睨み上げているけれど、唸る声はなりを潜め落ち着きなく鼻をひらひらと薄い舌で舐めている。
「同じなら一緒に居れる。そうでしょ?」
そうしてリーシャはようやくエースの両手を掴む。日陰の岩の下に潜む、湿った虫が笑った顔。リーシャはその真似が上手かった。
「あ、」
それと同時にショートは走り出し突き飛ばしたくなった。
両手を握られたエースは、震える唇を薄らと開いて閉じて、透明な鳴き声をが弱く上げる。ぼんやりとした新緑の双眸に盛り上がった透明な心はしかし、その意味を捻じ曲げられて頬を伝う。
「隊長っ!」
リーシャを突き飛ばし身体を折って崩れ、エースは首飾りを引っ掻く。
慌てて細くなってしまうまった身体を支えたショートが見たのは、いつかの日と同じ細い首に食い込む飾り。理性もなくただ勢いに身体を委ね首飾りをむしり取ろうとしても、細く美しいだけが取り柄の首飾りはショートの指も、エースの色違いの両手も受け入れてはくれない。
「抑えてて」
薄っぺらい光を手にしたリーシャが首と飾りの間に差し込もうとしても、それすらもさせてはくれない頑なさはもはや誰かの悪意だ。リーシャは何度か光を様々な形に変えて細い首から首輪を引き離そうとしたが、エースの苦しみは途切れなかった。
喉を締め付けられ、ゲップのような音が鳴る。開きっぱなしの口から、こぼれた銀の糸もそのままにカルアーに噛み壊されたままの羽が一対開く。萎れたままの羽を無理やり引き連れエースの身体は浮かび上がる。
「待って」
引き止めた二つの手は等しく熱に焼かれ、それでも意固地に掴み続ける。だが、そおっと引き離され遠ざけられた。息を吸いたいがための涙を流し、エースは丸い背中の男が逃げた方へ呼ばれるように飛び立った。
「おいていかないで」
弱った蝶の後を追いかける今のショートはただの子供だ。そして、リーシャも。
三つ目をもつカルアーだけが、エースの飛んでいく先を睨みつけていた。




