如何にして 21
アンリとガーランドが走り出す少し前のこと。
夜すらも嫌がる笑い声の群れ。ショートの耳には粘着質な汚物をかき混ぜる音と大差ない。
「大丈夫?」
「平気よ」
気丈であろうとしているのはわかる。しかし、リーシャの強張り、溶けない眉間の傷跡にも似た痛々しい肌の陰影の底から見える、震えるもの。握りしめた両手は、身体の横でバランスを取るために振り子のように揺れているが、時折縋りたいのだと服の裾を握り締める。
月が見えぬ建物の背後に潜み、少し考えてショートは同じ言葉を呟いた。
「大丈夫?」
前で身をかがめ様子を伺っていた背中は大きな声を出せないかわりか、身体全体で振り向きヒステリックに睨む双眸は肩をすくめたショートを気持ち高い位置から押し潰そうとする。
「しつこい」
喉に押しつぶされた低い一言。逃げるように顔を逸らしたショートが見たのは、建物とリーシャの身体のあいだに隠された手。
「でも、」
寒さが理由ではないだろう。怒りもまた、違うだろう。
「本当に、大丈夫。こんな場所に居るんだもの、初めてじゃない」
そう言う癖に、リーシャは初々しかった。下手くそな痩せ我慢は、聞いてほしいと言っている癖に変に繊細で一つ詮索の手順を間違えると臍を曲げる。それも、強がりのふりをしてだ。移動するリーシャの後に続きながら、ショートは口の中で溶けもしない、だのに形もないから飲み込めもしない甘苦いものを舐める。夜を見上げ、足元を見下ろし、エースを思った。
「……平気じゃなくてもいいと思う。だって、隊長はあんたを気にしてた。怖がりだってなんでこんな場所にいるんだって」
「そう」
素気なく前を向いているつもりなのだろうが、上ずってなだらかに滑る声音は弾ずむ。
汚い笑い声が近くなって行く。再度、一枚崩れかけた壁の足元に潜んだ。それはよく見ると、民家の名残だと言う事がわかる。足元に小さくなって転がる、営みの欠片をつま先で蹴飛ばした。
「そんなの決まってる。こんな場所にいる理由なんて、アセメリアしかないじゃない。それしか考えたことないもの」
そう言ったリーシャは満たされていた。確かに、嫌な思いも怖い思いもしただろう。ショートだって、エースや隊の仲間達が庇ってくれてなお、心も身体も痛くてたまらないことなんて沢山あったのだ。それでも、ショートのそばには沢山の大きな背中と大きな手があって守ってくれていたように、彼女にとって「アセメリア」は彼女を守る盾だったのだろう。
「すごいね」
心の上澄みには興味は無い。だが、無視をしてしまうにはショートの胸の中には憐れみが沢山詰まってしまっている。
てらてらと夜の中にくぐもる火の灯り。残ってしまった棘のような建物の残骸の向こう側で、たくさんの声がする。首を伸ばしても見えるのは不穏に踊る影ばかり。まるでその様子は、儀式めいた、見えない目に見られている不安をショートに抱かせる。一人きりを強調される影の踊りにゆっくりと息を飲み込もうとした時、頬を撫でる柔らかな感触にほっと息を吐く。
耳をくすぐるカルアーの生暖かなか細い鳴き声。
笑い声と女の悲鳴と、啜り泣く声。どんな儀式なのか、わからないはずもない。
「平気よ」
「わかってる」
初々しく怖がるリーシャの足を折らぬように、ただ肯定した。
影に沿って移動するのは簡単だった。下品な笑い声は、まるでここには笑うもの達だけしか居ないと言わんばかりであるし、なにより獣は欲を満たすことだけで頭がいっぱいだったからだ。
炎はいつだって温度を分け与える色をしているのに、その周りで行われていることに人の温度は無い。
外と内どちらの人間なのかはわからない。服を剥がれた裸体は、揺れる炎に照らされる。潤いの足りない肌は、艶もハリも足りずに若いのか年老いているのか火の灯りだけではなんとも言えない。顔を確かめようにも見ることは憚られた。
炎よりももっともっと濃い赤。風と共に天へ登る火の粉よりも、もっともっとどんよりとした酸化の赤。その中に沈むようにして目鼻口はあるのだろう。腫れ焼き爛れただ無意味に開けられた穴のような口には歯はなかった。振り回す叫び声はよく聞けば言葉にも聞こえてくる。否、言葉を喋っているのだけれど、言葉として発声ができない。
腹を空かせた獣は、それでも弱った獲物を痛ぶる悦びを手放さない。腹も悦も見たす強欲さは、賛嘆と嫌悪を同時にショートに抱かせる。そのせいで、彼は影の中から見た世界に、まるで現実感を持てない。
目を逸らしたくて彷徨わせた視線の中に、ちらりちらりと踏み荒らされた一輪花達はゴミ同然に打ち捨てられたものや、束ねられ無造作に積み重ねられ花弁を赤く散らしていた。獣は青臭く、そして血生臭い。
心臓が汗をかく。それは、じっとりと背骨から染み出しショートの身体を冷やす。その場の空気を舐めることを戸惑いつつも、少しづつ呼吸する側で、聞こえたえずいた水音がショートを我に返した。
しゃっくりのように断続的にひくりひくりと肩を震わせるリーシャは、本当は吐き出してしまいたいだろう花々の悲しみを飲み込む。
「リーシャ……」
無言で顔をあげ口元を拭った。炎ばかりでは無い赤に濡れた目元には、ただ一つしか無い。
「クズどもが」
吐き捨てた吐瀉の香り。
視界の端っこで、男が動きを止め満足げにのしかかっていた女から離れたのが微かにうつる。女は体を開いたままピクリとも動かない。
死んだのだろうかと、手を握ってショートは見つめる。
「しね、死ねばいい」
立ち上がったリーシャの手は、火に照らされた女に伸ばされているようにも、この景色全てを消し去ろうとしているようにも見える。
ふと、ショートが見つめていた女の、潰された顔の中にしとしと流れる透明な筋に気がついたと同時に束ねられ重ねられていた花から一輪、奥で手を叩いて笑っていた獣がおもむろに引き抜く。
「死ね、死んでしまえ!」
リーシャの叫びを破裂音に光は目の前を眩ませた。
それは音も飲み込む強烈な光。夜を朝に塗りこめてしまいそうな白光はしばし周りから色や音を奪い取り、爆発した時と同じ速さで消えていった。
無意識に目を閉じ、両腕で顔を庇ってたショートの頬に、光の熱が退いて行く気配がある。眩む目の奥を嫌がりながら、ゆっくりと瞼を開ける。
獣が、花が、そしてショートが、それぞれ別の角度から数本の太い光の針に貫かれ驚き顔のまま、ズボンをだらしなく履きかけたまま絶命してしまった一匹の獣をきょとんと、現実に置いていかれてしまったまま凝視していた。
嘘っぱちの人形劇かそれとも単なる絵か。全くもってそう言うもの、と言う認識が慌てて現実に追いつく。
一番足が早かったのは、選ばれてしまった新たな花だ。掠れた声にあっという間に芯が入り、腹の力こもった叫び声が空の月に響く。だが、それよりももっともっと力強く鋭くリーシャは影から飛び出して、叫ぶ。
「クズの獣が、死ね!」
喉を引き裂かんばかりの荒々しさで、手を振り下ろした。
降り注ぐだけには留まらずに、地面からも狭い範囲で密度濃く隆起する切っ先鋭い光は、目の奥に鮮烈な死を焼き付ける。獣の無様な死は姿かたちを見失わせる程の白い光の激情を受けて、不思議な事にはっと意識に衝撃を与える何かがあった。
顔の造形も見れない女は、光に顔を照らされ憎悪に嗤う。ショートはこの現実が、それでも尊いもの、綺麗なものとして受け入れていた。
獣の上だけに落ちる光の針。わっと瞬時に飽和する歓声の勢いでその場を飲み込み、引いていく。感情に呼吸を荒らされ不規則に肩を荒々しく上下するリーシャの作った現実は、すべての獣を殺すには至らなかった。
咆哮に気高さは無い。無様に生にしがみつく獣の必死の抵抗に無理やり自然の理は捻じ曲げられる。獣の首の後ろに埋め込んだ精霊は使われ、地面はうねる。まったく予兆なく噴き出した炎の間欠泉をリーシャは軽々避けた。




