如何にして 2
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日付の変わった月に見下ろされ、未だ太陽の訪れの微かな匂いも色も見当たらない夜の中を泳ぐ。足音は最小限に、森の中を進んでいく。土臭さが視界に映り込む。
神が引いた線の上ではいつだって血が流れている。神がそう望んだのだから、従順なる人はそれに従い血を流し続ける。どの国よりも多く神に血を吸わせるために。エースがある日、突然家族や友と敵国となったのは今からおおよそ二十数年ほど前。友であるが周りからはそれ以上を望まれた相手と手を握っていた時に、突然足元で線は引かれエース一人だけが外側へ、そして新たな名前をつけられてしまった。
それからは、ただただ過酷と言う言葉が優しく聞こえてしまう、命を無理やり絞り出す日々。家族と離れてしまった子供は、一纏めに孤児とされいくつかある施設に振り分けられた。そのうちの一つにエースが入って一番最初に受けたのは、神の洗礼。
神の洗礼と呼称したのは、国の上にいる誰かであって、その行為には神も洗礼もない。ただ痛みがあるだけ。
洗礼とは首の後ろに精霊石を埋め込む事。そして、人を中途半端に止める事。手のひらよりも一回り小さな宝石ともみがまう鉱石は、水の様に透明で甘そうな香りを色にしてたくさんの形と色があった。その中には、エースの国では精霊だとか神の意志だとか綺麗に呼ばれているけれど、埋め込まれた者にとってそんな綺麗なものではない。
ただ熱く、痛いのだ。ただ、ひたすらに煩くて悲しく、怖い者。
そんなものでしかない。
木の影から少し前の方を見ると、夜を厭う街灯の灯り。その下に太い道路がエース率いる十数名の部隊が潜む森に沿って続いていた。この道路をつたっていけば、前線から一番近い大きな街に出る。
エースたちの任務は、街で眠る内側の一般市民と前線を退いたけが人を収容している病院から血を搾り取り神に捧げること。前線で戦うよりも簡単で沢山の血を流すことができるが、引き際を誤れば後ろと前から挟まれる。もしくは、元々人数不利なのだ、この場所で逆に血を搾られるかだ。エースにこの作戦を与えた腰の悪い上官は、帰ってこいとは言わなかった。その代わりに、血が沢山流れ、神の卵に反応があれば埋め込んだ精霊石を印に帰投させると言った。
精霊石と呼ぶ、首の後ろに埋め込んだ者がなんであるのかエース達、下々戦う兵士はよくわかってない。わかってはいないながらに、精霊を石にして身体に埋め込んでいる事だけはわかっている。そんな不明瞭な者を体に埋め込む事だけで力を得られるのだからそれでいいと、下々戦う兵士はそれ以上考えはしなかった。効率の悪かった精霊を石に変える作業も今ではライン化し一番いい状態で作り出すことができるし、埋め込み作業に失敗して死ぬ確率も低くなった。
神の洗礼と言いながら、全くもって人の手で人の利益だけを追求している、この混沌。精霊石を埋め込まれた者のレントゲンを見ると、埋め込んだ石から脳や心臓、体の至る所によくわからない神経の様なものが伸び這いずって、そのおかげで人を辞めるために必要な力を使う事ができるようになった、といわれている。
上官は帰投させる、とは言うがどのようにして帰投させてもらえるのかすらエース達にはわからない。
わからないけれど、やるしか無い。
この行為が正しいのかはわからないが、神の卵に認められなくてはエースの今生きる国と、同じ境界線側にいる大小様々諸国は、悲惨の言葉が優しく聞こえる日々を過ごさなくてはならなくなる。
「行くぞ」
誰も返事はしない。
だが、誰も立ち止まる事はしない。
道路に沿って進み森を抜け、影の中を進むと見えてきた街は柔らかい輪郭の陰に覆われていた。自然物を殺し切らず、かと言って人が不便しないよう声なきもの達とどうにか意見を擦り合わせたのだろう検討の結果見える街には、エースの国とは違い高い建物も硬い印象も、冷たい匂いの風もない。かと言って田舎らしく取り残された時間の止まっている風でもなく、闇の中で目を凝らせば確実に現代の技術はあちこちに見える。見覚えのあるものはエースの国にも似たようなものがある機械。見慣れない機械は勝った境界線の内側で長く神の寵愛ある腕の中で独自に進化した技術だろうと、街で一番高い建物の天辺でエースは眼下をくまなく見渡す。
すぐ近くで血を流し続ける争いがあると言うのに、静かなで人の営みの香りある夜だった。微かに人が死を想う恐れの重たさはあったが、その理由は街の一番外側にある大きな白い建物のせいだろう。上官の与えてくれた一握りの情報では、その建物は前線で傷ついた兵士たちの為だけに建てられた病院だと言う。
月の眼差しは優しく白い建物の中で、傷が発する熱に唸りながら眠る者達を見守っている。だが、とエースは狼のような獣を模した仮面の下で口元をいやらしく歪めた。
優しく見守っている者達は人殺しだ。それを月は、この街の人々はわかっているのだろうか。
「さて、血を求めようかね」
喉を焼くのは胃液ではない。粘膜をガサガサに荒らす、妬み憎しみに声はガサつき、己の声は化け物のように聞こえた。振り返らずに片手で合図を出す。一歩下がった後方から、落ち着かない呼吸音が聞こえわずかに顔を動かすと見えた不細工な獣の仮面。猫っぽいが可愛らしさはどこにもない仮面の中で、ショートは緊張に強張った顔をしていることだろう。
「ショート。お前は、俺のサポートに徹しているだけでいい。無理に殺すな」
何度か戦場の後ろに立たせてはいるが、ショートは一度も人を殺した事がない。
そうさせてきた。エースも部隊の連中も、本来隊に配属になるはずのなかった、このようやく成人したばかりの子供の汚れない手はとても眩しくて、大事にしたかった。神の意志に反し、血に濡れない手はエースや長らく部隊に身を置く者達にとって、大切な存在だった。本人に言えば、その手の価値を知らぬせいで反発し、躍起になるだろうと思って直接伝えた事は無いけれど。
「で、できます。神に従えます!」
「言い方を変えよう。お前は殺すな、誰も。だが、死ぬな、俺を踏み台にしても生き残れよ、いいな! お前ら」
くぐもった声があちこちから聞こえる。笑っているような、ないているような、世界のどこでも流れる風のようでその音は耳に入ると気持ちがいい。
エース自身、己はここで終わると思っている。何度となくずるずると生き残ってここまできてしまったが、けれどそれも終わる予感があった。
「ショート、誰も殺すな。神に逆らっても、生きろよ」
残せるものは言葉しかない事は、安心でもあり寂しくもある。誰が生き残るだろう、誰が死ぬだろう、月はこの街には優しくても、エース達にその眼差しを向けてはくれない。
「やれ」
エース達部隊の動物を象った仮面は、神の従順なる僕の証。
夜を赤く染める使者となる。
月に目を瞑らせたのは大きな落雷。避雷針事真っ二つに建物に突き刺さる。隊の一人が、首の後ろに埋められた精霊石に薄闇を溜めて空から放った落雷は、横に広い3階建ての建物の中に火の子を撒き散らした。
燃えろよ燃えろ、呟く声はなくとも闇の空に放たれた中途半端な獣達は好き好き首の後ろを時に光らせ、皆一様に薄闇に澱んで眠った街を、眠ったまま痛めつける。
ポツポツとエース達を下から照らす火の灯り。月の代わりの光はただ熱い。
月の下で身体を翻して、エースは飛び起き出した街に黒い手の平を伸ばし、握り締めた。一つの呼吸の間をあけ、建物から暗がりの中へと飛び出そうとしていた人ごと潰れる。すぐに新しい建物に手を伸ばしたエースには、悲鳴は聞こえなかった。後から続くショートのぎこちない動きを見て喉の奥で笑おうとして、飲み込む。
聞かれたくなかったのだ。今のエースは、とても彼の声とは似つかない低くしゃがれた声をしていた。服の下も、仮面の下も、耳も指先も黒く硬い鱗の様なもが所々浮き出て、動きに流れる髪の隙間から垣間見える耳は鋭く尖る。人それぞれではあるが、ほとんどの者は力を使ったとても姿に変化はない。
たまにエースの様に、精霊石とうまがあってしまったものは姿を変え、大きな力を振るいどんどんと人から離れていく。だが、それでもエースはエースでしかなく、頭の中にも胸の奥にも少しばかり怠惰な男が居るだけ。
喉の奥で、唸り建物の角を蹴り上げ跳ぶ。高く高く、ショートも追いつけないほどに高く跳び、遠目に街並みを拒絶する高い壁を見つけ、尖った上下四本ずつの犬歯を仮面の下で剥き出しにした。
壁の中から届く慌ただしい気配は、無作為にほじくり返されたアリの巣と似ていた。それと、沸々と温度を上げる怒りが鉄臭さに混じり、エースの首の後ろの精霊石と似た者の感触が壁から溢れ出す。
「基地、だ」
ザラザラの喉の粘膜、ガラガラに掠れた低い声。無意識に呟いた声は、遠く眼下で壊される街の中取り残されたショートには聞こえず胸を撫で下ろす。
「すまねぇなぁ」
落下の風音は勢いよく、しかしエースは恐る事なく両手を身体の前で差し出し遠くの壁を両手で握る素振りをすれば、具合の悪い電波が届いたように一息の間を開けて高い壁は半ばから砕け散った。
このまま兵士の巣に行って、暴れてしまいたかった。宙を蹴って頭から落下していた身体を回し、足から地面に降りて後ろを振り返る。逃げ惑う人々の中に混じったショートの顔にある仮面が似合わないとエースはつくづく重たいため息を吐く。
このまま、仮面を剥ぎ取って逃げる人の中に混ぜてしまおうか。そんなことすら考えてしまうほどに、似合っていない。
「隊長!」
そう思った途端、子犬は待ってまってと駆け寄って顔を見上げてくるから憎めないし、不安定な場所に捨てることもできない。
このまだ年若い部下は、生き残ったとして一人で生きていけるだろうか、そんな不安すら覚えてしまう。
「……殺してないな?」
不本意であると言外な首の動き。狼を模した仮面の中に、人の笑った吐息は湿った。
「それで、いいんだ。それが人なんだショート」
不細工な獣の仮面は首を傾げた。何もわかってない頭。しかしからっぽのままに頷く。
「馬鹿馬鹿しいなぁ! この世はさぁ!」
悲鳴、落雷、泣き声、暴風、助けを呼ぶ声、炎の熱音、切り裂かれた身体から噴き出る血の生臭さが火に炙られ爆ぜる刹那の灯り。部下達の人を忘れた雄叫び。これが、エースの生きている今。血を求め、顔も知らぬ誰かが静かに見る夢を悪夢にかえ叩き起こし、日々を営む街を壊す。
壁の外に怒りの気配が数多吐き出されたのが、感覚でわかった。猛々しく、勇ましいその気配はショートにも伝わって来るほど濃いもの。後方に居た頃には、こんなにも生々しく命を狙われる感覚など無かったショートの尻が押されたように後ろに下がったのを見た。
「お前は離れて――」
後方からの爆発の風に押し出されたのか、それともそれがまだあどけない頬の輪郭を残した青年の選択だったのか。
「できます」
耳に届く恐れにエースは口を閉じる。不細工な仮面で隠れている顔が炎に照らされた時、目元にいらぬ決意を秘めて口元を食いしばるショートの顔が見えた気がした。
「馬鹿だなぁ、おまえ」
どこに居るかも生死すらもわからぬ弟を思い出させる様は栄養価高く、それと同じぐらいに悲しい。殺してくれるなと幾度となく伝えてきたそれらは間違いなくエースの本音だ。
「生きろよ」
だが、それよりももっと、もっと、その願いは強い。
剣呑な騒めく者どもに、顔を上げてエースは両手を水平に持ち上げた。