氷
冷たさなんて既に感じない。
手袋を何重にしても手先が真っ赤に腫れていて、感覚がない。吐き出した息が瞬く間に凍り付き、大気中に霧散してはナイフのように鋭い突風にさらわれていく。目の前に広がる海は荒れ狂い、夜と同系色の紺色に染まっていて海面と空の境界線がぼやけていた。
その遥か向こうに紺青色の氷の壁が聳え立っていた。それはゆっくりと、しかし確実に、唸りをあげながらこちらに迫ってくる。
僕とホムラはその壁をただ見つめていた。ホムラが口を開く。
「ねえ、あの氷がここまで来るのにどれくらいかかるの?」
「うーん、二週間……まあ、僕たちが今立っているここがあの氷に飲み込まれるのに三週間はかからないかな」
「じゃあ、早くここを出ないとね」
僕は背負っているリュックサックをかけなおし、踵を返した。ホムラも振り返って二人で歩いていく。整備する人がおらず、ひどく痛んでひび割れたアスファルトに足を取られて転びそうになった。慌ててホムラが僕の手を取って支えてくれる。海から吹き付ける殺人的な寒風が倒壊したビルや傾いた電柱の表面を撫でてはどこかへと流れていく。
「寒いね」
ホムラが呟いた。僕は小さく頷く。
「寒いね」
路上の端にはバラバラにされ、もはや原型をとどめていない人間の死体の山が築き上げられていて、そして凍り付いていた。その山からはみ出した幼い子供のものらしき腕がぐちゃぐちゃに食いちぎられている。野犬によるものか、あるいは飢えた人間によるものか、区別がつかなかった。チラリと隣を歩くホムラの横顔を見た。まだ幼さを僅かに残した、幼馴染の顔だった。
ふと思った。もし、今ある食料が底をついてそして極限まで飢えた時、僕もカニバリズムと言う凶行に走るのだろうか。人間はどんな味がするのだろう。
ホムラが「あっ」と声を出し、ある方向を指差した。
「あれ、あそこにある車まだ乗れるんじゃないかな」
ホムラが指差す方を見ると、確かにまだ辛うじて形を保っている車があった。近づいて見てみると左のバンパー辺りが大きくひしゃげているが、それ以外は傷はあれど無事なようだった。鍵もかかっておらず、すんなりと開いた。キーも刺さったままだ。
ホムラが嬉しそうな声を上げる。
「やった! これがあればかなり遠くまで行けるね」
「そうだね、ガソリンが残っていればだけど」
僕は運転席に乗り込んでキーを回してみた。しかしエンジンはかからない。
「どう? 無理そう?」
「うーん。寒いからかな」
何度もキーを回す。するとだんだんとエンジンが弱々しく鳴き始めた。
「お、いけるかも」
そのまま暫くキーを捻り続けていると、ついにエンジンがかかった。ボロボロボロボロと低い音がエンジンから聞こえてくる。ガソリンの残量メーターを見ると、僅かだが残っているようだ。
「やったね」
ホムラが嬉しそうに言い、助手席のシートに身体を預けてシートベルトを締め始めた。僕もシートベルトを締め、ハンドルを握った。アクセルを踏み込む。それと同時、車体が不安になるような振動と共に前進し始めた。タイヤが隆起と陥没してボコボコになっているアスファルトを踏みしめて回転する。
「いけー!」
ホムラが歓声を上げる。その隣で僕は慣れない運転に緊張して時折冷や汗を掻きながら、この死んでしまった都市を抜けていった。
空が白みだした。夜がゆっくりと去っていき、代わりに朝の爽やかさが軽快な足取りで世界を満たしていく。星々とも束の間のお別れだ。
その頃になると流石に運転に慣れきていて、僕は片手でハンドルを固定しながら既に道とは呼べないような道路を走っていた。もう片方の手は肘掛に置いて休ませている。初めの内ははしゃいでいたホムラも、疲れが溜まっているのとほとんど変わらない景色に飽きて船を漕いでいた。彼女の口の端から滴った透明な唾液が車のシートにシミを作った。
僕はガソリンの残量を確認し、顔を顰めた。もうほとんど残ってはいなかった。
「近くに街でもあればいいけど……」
しかし見渡せど見渡せど、広がるのは枯れた草原と、その奥で霞んでいる凍った山々だけだった。
このままだとまた歩く羽目になるなと憂鬱な気分に苛まれ始めた時、ふと前方に建物が見えた。その建物の傍に建てられている、背が高くて派手な看板にはガソリンスタンドと書かれていた。思わぬ幸運に胸の内でガッツポーズを繰り出して、アクセルを踏み込んだ。
車を停め、ホムラを起こして外に出た。長時間の運転で凝り固まった身体を伸びをしてほぐし、あらためてガソリンスタンド内を観察した。そこは荒れ果てていた。ふと、隅の方に車が止まっているのが見えた。近づいて中を見てみると運転席に男の死体があった。酷く痩せているようだ。表情は苦痛に満ちている。車に降り積もった砂ぼこりから、この死体はかなり前の物らしいことが分かるがしかし寒さのせいか死体は腐っていなかった。ホムラがやってきて、死体を見て両手を合わせた。死者を弔っているのかと思い、僕もそれに倣おうとしたがよく見ると寒さを紛らわすために両手を擦り合わせているだけのようだった。助手席に転がっていた男の物と思われる鞄の中を漁ってみたが、しかし壊れた通信機と色褪せた写真が入っているだけだった。写真の中で、今より数段健康そうな脂肪を蓄えた男が美しい女性と幼い女の子と一緒に笑っていた。僕はその写真を男の胸ポケットの中にそっと仕舞いこんだ。
その後も暫くホムラと共にガソリンスタンド内をコソ泥よろしく漁ってみたが、しかしめぼしいものは何もなかった。
「はあ……」
ホムラが溜め息を吐きながら朽ちかけたベンチに腰を下ろした。僕はそんな幼馴染を横目に、無数のドラム缶を調べてみたが、今最も必要なガソリンは一滴も残されていなかった。肩を落としてホムラの隣に座った。リュックサックから粘土にも似たクッキー状の非常食を取り出し、それを半分に割って大きい方をホムラに渡す。
「ありがと」
暫く僕達は黙って非常食をもそもそと食べ、荒れ果てた冷たい世界を眺めていた。乾ききった刺すような風が吹きつけ、枯れた植物だった物が宙へと舞いあげっては攫われていく。耳を澄ませば、限りなく小さくではあるが、あの氷の壁が徐々に進行してくる音が聞こえてきた。一切を破壊、粉砕し、何もかもを飲み込んでは凍てつかせるあの絶望が咆哮していた。いつかはこの場所も、そして僕とホムラも押しつぶされて、氷の一部となってしまうだろう。
ふと、ホムラが半分ほど食べた非常食を弄びながら口を開いた。
「ねえねえ」
「うん?」
「本って読む?」
「……人並みには。まあ、こんな世界になってからは読んでないけど」
「アンナ・カヴァンって知ってる?」
僕は首を振った。
「いや」
「昔の作家なんだけどね、その人の代表作の一つに『氷』って言う作品があるの。巨大な氷の壁がゆっくりと地球を侵食していく世界で、主人公がある女の人を探していろんなところを旅する話なんだけど、その中に出てくる氷の壁がさ、今わたし達の世界を覆い尽くそうとしているあの氷とそっくりなんだよ」
「へえ」
「それでさ、わたし達はアンナ・カヴァンの描いた世界の中に這入ってしまっているだけなんじゃないかって、たまにそんなことを思うんだ。死んじゃったらこんな冷たい世界じゃなくて、暖かい所でふかふかの布団の中で目を覚ますんじゃないかなって。そうだったら、どんなに幸せだろうね。この世界が夢で、わたし達は昔の人が創った世界の中を旅しているだけなら、どんなに、どんなに救われるんだろう」
「……そうだね」
僕は視線を動かして隣のホムラを見た。彼女の横顔は叶わない大きな夢を語る子供のように楽しそうだった。口元に非常食の欠片が付いている。
ホムラは続ける。
「そんな想像をする度にわたしさ、死んじゃいたくなるんだ。この世界から逃げて、暖かい、本当の世界で目を覚ますの」
暖かい、本当の世界。
ここじゃない、幸せな世界。
今ここで喉元を掻き斬って、ホムラの言うその世界に行けるのならば、これほどまでに魅力的で抗い難いものはないだろう。しかし、残念ながらそんな世界は無く、今僕達が冷たい空気を吸っているこの場所が現実だ。
「死んじゃだめだよ」
僕は言った。ホムラが小さく頷く。
「死なないよ。……ねえ」
ホムラが半分ほどを食べた非常食を僕に差し出した。
「もうお腹いっぱい。これあげる」
僕は非常食を受け取った。
「今日はここに泊ろう。ガソリンも無いし、明日からまた歩かなくちゃ。ガソリンスタンドがあるって事はもう少し行けば街に着くはずだよ」
「だね」
暫く僕達はぼうっとして過ごした。やがて太陽は沈み、月が昇り、星々が瞬き始める。僕とホムラは既にスクラップと化した車に乗り込み、シートを倒して目を閉じた。
朝の陽光がフロントガラスから差し込み、僕は目を覚ました。眼を擦りながら伸びをし、隣りで眠るホムラを起こそうと彼女の肩をゆすった。しかし彼女は目を覚まさない。手袋を外して彼女の首元に手を当てると、氷のように冷たかった。死んでいた。
僕はホムラの荷物から必要な物だけを取り出して自分のリュックサックの中に詰め込み、車を出た。ドアを閉める前、ふと思い立って彼女の髪の毛を一束ナイフで切り、それを手首に巻き付けた。
車に鍵を掛け、僕はガソリンスタンドを後にした。
歩きながら思った。ホムラは暖かい世界で目を覚ましただろうか。
そう遠くないうちに僕もホムラの許へと向かうだろう。それが氷によるものか、飢えによるものか、あるいは自分の手によるものなのかは分からないけれど。
僕は祈った。どうか、ホムラの言う世界がありますように。
そう、祈った。