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エッセイ

アドルノ「音楽社会学序説」、あるいは素人のやっつけ方

作者: 夢のもつれ

 この本は「序説」とは言え、文庫版ながら400ページを超えるもので、内容もかなり難解なものです。彼の思想的な立場はマルクス主義に近く、ベンヤミンらとともにフランクフルト学派に属しているようですが、その語法はドイツ観念論哲学由来の晦渋な表現です。


 また、社会学と言ってもアメリカのもののような方法論的自覚やフィールドワークがあるわけでもなく、同じく「音楽社会学」って本を書いたマックス・ヴェーバーほどの博覧強記があるわけでもなく、あっさり言ってしまえばアドルノ個人の経験に基づく思索の産物です。


 さて、音楽社会学ってなんでしょうか? この本のカヴァーには「音楽を社会から孤立した芸術ジャンルとせず、社会に還元されるべきイデオロギーともしない」云々と書かれていて、音楽と社会の関係を解明する学問ってことになるんでしょうけど、そんな教科書の定義みたいなことはどうでもいいです。


 わたしの勝手な推測で言うと、後進国ドイツ(正確にはオーストリアを含むドイツ語圏)において唯一優位性を誇れる芸術ジャンルが音楽であり、それをまたドイツの誇るヘーゲル先生の用語で記したものだろうと思います。


 例えば「まことにバッハにおいては民族的な要素が普遍性へと止揚されているのである。このことはほかならぬ20世紀中葉にまで至るドイツ音楽の優位を説明するものであると言えるかもしれない」(314ページ)といった記述において顕著です。これは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を始めとする経済社会学の浩瀚な著作においてヴェーバーが企てたことと同じでしょう。


 ただ、この本が1962年の著作であり、彼自身がユダヤ系で1938年にアメリカに亡命したことがあるだけに、手放しにドイツ系音楽のすべてを称揚しているわけでもなく、「この点(芸術的合理性と相矛盾する集合的な表象世界を扱うこと)でもヴァーグナーの音楽は、それ自体の中で、いくばくかのファシズムを先取りしている」(334ページ)といったお決まりの批判を歯切れ悪く行っているところに端的に現われています。


 しかし、アメリカは住み心地が悪かったのか、彼の地の音楽を徹底的にこき下ろしています。例えば「ジャズプレイヤーたちは瞬間の楽想のひらめきをひけらかすのに精を出しているが、それはリズムの点でも和声の点でも非常に狭い図式の域を超えられないため、インプロヴィゼーションは最小限の基本形式に還元できよう」(72ページ)とか、ミュージカルとオペレッタの違いは、商品として磨き上げられているかどうかだけで、「マイフェアレディ」のようなミュージカルの名作も「音楽の上ではオリジナリティとか発想の豊富さの点では卑俗な要求さえ満たせない」(59ページ)と断定されます。


 彼が繰り返し言及する作曲家はドイツ系の作曲家に限られ、特に現代音楽においてはシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンらが褒め称えられ、バルトークもショスタコーヴィッチもほとんど触れられず、プロコフィエフやアイヴズは全く出てきません。


 さらに、アドルノはシベリウスもほとんど評価しておらず、「彼は全ヨーロッパの作曲技法がかちえたものを受け入れず、彼の交響楽法においては無意味で平凡なものが非論理的でまったくわけのわからぬものと結びつけられているのではないか。美的に整っていないものが自然の声だと見誤られている」と言います。これに対しシベリウスの名を広めるのに尽力したニューマンは「あなたの非難なさった特性、これは私も決して否定しませんが、この特性にこそイギリス人は共鳴するのです」と謙虚に答えます(339ページ)。


 さて、こうした偏ったイデオロギー的な見方、音楽を狭く見る姿勢はもう過去のものなんでしょうか? アドルノのドイツ音楽偏重の姿勢ともったいぶった哲学者気取りは、ある時期までは日本のクラシック音楽の受容の仕方そのものであったと思います。


 今や権威主義も教養主義もなくなり、おもしろけりゃいいじゃん、気持ちよければいいじゃんってことになったように見えます。……ところが、この本でいちばんわかりやすく(つまり哲学的でなく)、たぶん有名(だって引用しやすいから)なのは、最初の「音楽に対する態度の類型」という章なんですが、それを読むと音楽の大衆化・平俗化への憎悪や冷笑を見ることができます。まあ、ふつうはこれから紹介するんでしょうけど、私はそんな素直な人間じゃないんで最後にしたんですね。


 最初に『エキスパート』という類型が出てきます(23ページ)。これは、「音楽という対象に完全に適応した聴取を行うこと」と定義され、「例えばヴェーベルンの弦楽三重奏曲の第2楽章のように、しっかりした構成の支えをもたぬ自由な曲に初めて出くわしても、その形式の各部を言うことができる人」なんだそうです。嫌味ですね。


「今日このタイプはある程度まで職業音楽家の範囲の中に限られるようだ」と言い、「自分の仕事が完全に理解できるのは自分の同類だけしかないと主張しがちである」と。まあ、現在の我が国でもこんな人は少なくないでしょう。


 次に『良き聴取者』という類型(25ページ)があって、「音楽全体のまとまりを自発的に理解し、承認し、その判断には確とした根拠があり、評判とか気ままな趣味だけに頼ることはしない。ただ作品中の技術的、構造的含蓄までは彼の意識には上ってこないか、少なくとも完全には上ってこない」んだそうです。ヒエラルヒーって言葉を思い出しますね。


 これら2つのタイプが減少しつつあるのに対し、取って代わったのが『教養消費者』だそうで、「このタイプの人は音楽を多量に聴く。状況が許せば飽くことなく貪り聴き、いろいろな知識・情報に詳しく、レコードの収集家でもある」って言います(27ページ)。クラオタという言葉を思い浮かべればわかりやすいかもです。このタイプに対し、エキスパート(出来はともかく自ら作曲してますからね)を自認していたはずのアドルノは次から次へと悪罵を浴びせています。


 面倒なんでかなり端折って引用します。「伝記と演奏家たちの長所に関した知識を集め、長時間それについて無駄話をして飽くことがない。……作品の展開には冷淡で、聴取の構造もこま切れ的で……自分で美しいと思い込んでいるメロディとか圧倒的な瞬間とかを待ち受けているのだ。……そこには何かフェティッシュなものがある。……彼はとにかく評価の好きな人間である。……彼を感嘆させるのは自己目的と化した手段、つまりテクニックである。……よく攻撃にさらされる現代音楽に対してはほとんど敵対の立場をとる……音楽文化財が彼らの管理の手にかかると次第に商略的消費財に姿を変える」わはは。いくら本音でそう思っていても、ここまで言う勇気は今の音楽評論家にはないでしょね。


 その次は『情緒的聴取者』で、「聴取の対象の本質からはさらに遠ざかっているもので……自分の本能を解き放ってくれるのが音楽なのだ」とされ、「チャイコフスキーのようにはっきりと情緒的な音楽を実際はことのほか強く求めるのである。彼らに涙を流させることは困難ではない」(30ページ)といった調子です。


 まあ、類型はもうちょっとあるんですが、音楽の素養のある人がない人間の悪口を言う材料としては、これで十分でしょう。ここだけ立ち読みすればむずかしい議論なんかわからなくても、「君が言ってる音楽なんて、アドルノによると――」って上から目線の嫌味を言えそうです。



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