悪意の正体
その男は、暗い夜道をひとりで歩いていた。灰色のローブを纏い、顔はフードで隠している。警邏中の兵士に見つかれば、間違いなく呼び止められるに違いない服装だった。
男が足を止める。
「――さっきから私のあとをつけているようだが、いい加減目障りだ。用があるなら姿を現して、とっととその用件をすませてもらいたいんだが」
彼の言葉に、建物の陰からおもむろに小柄な人影が姿を見せた。
リデルだ。
彼の銀色だった髪は藍色に染められており、顔には奇怪な模様が刻まれた仮面をつけている。
「誰だ。そして私になんの用だ」
「名乗るほどの者じゃない。訊きたいことがあって、あとをつけさせてもらった」
「仮面をつけたいかにも怪しい輩に、私が素直に答えるとでも?」
「答えなくてもけっこう。それならあとで無理やり訊き出すだけだ」
リデルの淡々とした口調に、男が剣呑な雰囲気を醸し出す。空気が張り詰め、あたりをぴりぴりとした緊張感が漂う。
「生意気な小僧だ。痛い目を見たくなかったら、その口を閉じるのが賢明だぞ」
「俺が訊きたいのはふたつだ」リデルは男の脅しを無視し、指を二本立てた。「ひとつ、おまえの目的はなんだ。ふたつ、おまえの飼っているシェイプシフターはいまどこにいる」
その瞬間、リデルの背後からすさまじい勢いでなにかが飛んできた。間一髪のところで身体を捻り、リデルはその強襲を躱す。
ほう、と男が感心するような声を洩らした。
体勢を立て直したリデルが男を睨むと、彼の前に立つ魔物の姿が目に入った。いまはエルフの子どもの姿をしている。
「質問の答えはこれでいいかな、小僧」
「そいつが、ジャンをスラムの奥地で殺したシェイプシフターか」
リデルの声には、はっきりとした険が含まれていた。
「ジャン? いったいなんの話だ」
「とぼけるな。おまえが殺したんだろう。シェイプシフターの正体を見破られたから」
リデルが懐から取り出したものを見て、男がわずかに動揺する。小瓶に入った晴やどりをわざとらしく掲げながら、リデルは続ける。
「おまえも知らなかったんだろ? 晴やどりの花粉に、シェイプシフターの変身を阻害する効能があったなんてことは」
――この花の花粉は、変身魔法を阻害する効能を持つ。
図鑑にあった記述だ。
男が首だけを動かし、シェイプシフターを見る。
攻撃を躱した際に花粉を振りかけたが、その変化は明らかだった。エルフの華奢な身体に時折ぶれが生じ、耳、腕、脚、と各部分が順繰りにエルフとは別のものに一瞬だけ変化していく。
「あの日、この花を買ったジャンは、おまえの近くでガラス瓶の蓋を開けたんだろう。珍しい花だったから匂いを嗅いでみたくなったのか、そんな理由かもしれない。そのとき、おまえの隣で人間にでも化けていたシェイプシフターの変身に乱れが生じた瞬間を、運悪く目撃してしまったんだ。その場では多くの人の目があったから殺せず、なにか適当な理由をでっちあげて言いくるめるしかなかった。おまえはジャンの証言から正体が露見してしまうのを恐れ、機会をうかがい、翌日になってスラムまでおびき出し、口封じのために殺した」
男がくつくつと笑い声を上げる。まるで楽しんでいるかのような不快な声だった。
「私からもひとつ質問しよう。なぜ私だと思った? あの市場には大勢の人間がいた。それこそ、あの少年が関わったのは私だけではないだろう。それなのに、どうして私に目を付けた?」
「理由はふたつ。ひとつは、ジャンが短剣を持っていたことをおまえが知っていたからだ」
リデルはそう言い、露店を開いていた商人のひとりである男を睥睨する。
「おまえはこう言った。『子どものくせに、魔法のかかった短剣を腰に携えていた』と。だけどそれはおかしい。短剣を買ったのは、晴やどりを購入してからあとのこと。そして短剣を購入した店は、おまえの店よりもずっと先にあった。さらにおまえは言ったよな、『見かけたのはそれ一度きりだ』と。晴やどりを購入した直後にジャンを目撃していたのなら、そのときに短剣は持っていなかったはずだ。おまえが短剣を見ることができたのは、ジャンが短剣を買ったあとにもう一度彼のことを見かけたから。違うか」
「そうか。おまえ、あのとき聞き込みをしていた小僧か」
男が忌々しげに舌打ちをする。
「もうひとつの理由は、おまえがあの短剣を『魔法のかかった』ものだと見破っていたからだ。あれは暗いところで発光する魔法が組み込まれているが、明るいところで見ればなんの変哲もないただの短剣だ。刻まれた魔法陣は、普段は鞘で隠れているし、よほど魔法に精通していない限り、一目見ただけであれを魔道具だと看破するのは至難の業だろう。だから、不自然に思った。あの短剣が光っているのを、どこかで見たんじゃないかと考えた」
ジャンは魔物に殺される直前、導きの短剣を鞘から取り出し、握りしめていた。おそらくそのときに、この男はそれを目にしたのだろう。
「それで、私のあとをつけていたというわけか」
「シェイプシフターの正体に気が付いた子どもを口封じのために殺したんだ、どうせ正規の手続きを踏んでその魔物を飼っているわけではないんだろう。つまり、おまえには後ろめたいことがある。犯罪者を見逃せるほど、俺はお人よしじゃない」
「青臭い。そして愚かだ。そこまでわかっておきながら、大人を頼らず、ひとりでのこのことやってくるとは。よほど自分の実力に自信があるのかな」
「そうだと言ったら?」リデルは挑発する。
「どうもしないさ。結果は変わらない。――貴様が死ぬという結果はな」
男がそう言った次の瞬間、リデルの視界を煙幕が覆った。煙は男とシェイプシフターの姿を完全に隠す。
リデルは冷静に手をかざすと、風精霊の指輪から風を発生させ煙幕を払った。煙の中から現れたものを見て、短く驚きの声を洩らす。
「……コカトリス!」
リデルが咄嗟に目を閉じるよりもはやく、コカトリスの持つ石化の魔眼が発動した。避ける術もなく、リデルの身体が硬直していき、やがて完全な石像へと変わる。
勝利を確信した男は、高らかに哄笑した。
「だから忠告したはずだ、仮面の少年。愚かだと。銀等級冒険者すら退ける、千の姿を持つシェイプシフターを相手に、貴様ごときが勝てるわけが――」
男はそこで言葉を切る。まるでありえないものを目にするかのように、リデルを呆然と見つめた。彼の視線の先には、石化の呪いを解き、何食わぬ顔で男を見返すリデルが立っていた。
「なにをそんなに驚いているんだ。状態異常への対策ぐらい、魔物と戦う者なら持っていて当たり前だろう」
「この、くたばり損ないが!」
男が吠える。
コカトリスの姿が、ぐにょりと歪んだ。
「次はいったいなにに化けるつもりだ」
シェイプシフターに神経を集中させるリデル。そんな彼の視界に、まるで蛍のような光が点々と空中に出現するのが映った。それが男の発動した魔法だと悟った瞬間、無数の火の玉が猛然と四方八方からリデルを襲った。
水風船葛の果実を地面に叩きつけ、水の柱を作り出す。火の玉を打ち消した直後、リデルの肩に鋭い痛みが走った。ぶうんと不快な羽音を立てながら、蜂の魔物――デッドリースティングが尻から伸びた太く長い針を、深々と少年の肩に突き刺していた。
焼けつくような痛みが全身へと広がり、リデルは苦悶に満ちた表情を浮かべる。
デッドリースティングの針には、致死性の毒が仕込まれている。そこらの毒消草や解毒魔法では完治不能の猛毒だ。
「魔道具に頼っているということは、魔法をろくに使えないようだな。その程度の実力で、よくこの私を倒そうと思ったものだ」
「訳ありでね、魔法とは少し相性が悪いんだ」
ふらつくリデルに、キラーマンティスの巨大鎌が振り下ろされる。岩をも容易く切り裂く凶器が、リデルの首を捉え――。
へしゃげた。
「馬鹿な」
男の驚愕する声が、夜の街路に響く。
キラーマンティスの大鎌を左手のみで粉砕したリデルは、ずれた仮面の位置を修正すると、ふうと短く息をついた。
「うん、これぐらいでいいかな」
キラーマンティスの身体が歪み、まるで粘土がこねられるように膨らんだりねじ曲がったりしたあと、出来損ないの人間のような形にまとまった。シェイプシフター本来の姿だ。
「なぜだ、なぜ変身が解ける! なぜ変身ができない! 貴様、いったいなにをした!」
男が叫ぶ。
魔物使いである彼は、魔力を込めた念をシェイプシフターに送ることで、自由に変身する魔物の種類を指定することができていた。しかし、それがいまはなぜかできなくなっており、そのことが男をひどく混乱状態に陥らせていた。
「たいしたことじゃない。晴やどりの花粉を溶かし、その変身阻害の効果を高めるよう調整した液体をふりかけただけだ」リデルは小さなガラス瓶を親指と人差し指でつまみ、男に見せびらかすように振ってみせる。「花粉だけだと身体の一部に異変を生じさせることぐらいしかできないけど、その効果を何十倍にも高めたこれは、変身を完全に解除させることができる。そいつはしばらくの間、姿形を変えられないよ」
魔物使いは、ぎりりと歯軋りをした。
「毒も無効化したのか」
リデルは、さも当然とばかりに肩をすくめて見せた。その行動が、男の神経をさらに逆なでした。
「シェイプシフターの恐ろしさは、その変身能力にある。逆に言えば、変身のできないシェイプシフターは、多少力のあるただの木偶の坊だ」
強化したリデルの蹴りが、うずくまるシェイプシフターの顎にめり込む。まるでボールのようにシェイプシフターは吹っ飛び、建物の外壁に激突する。
「よくも、私のしもべを……!」
怒りに燃え上がる男を、リデルは冷めた目で見つめる。
次々と打ち出される攻撃魔法。そのすべてを躱し、相殺し、リデルは男との距離を一歩ずつ確実に縮めていった。
「シェイプシフターとの連携はまあまあ見事だったよ。だけど、その相棒が沈んだいま、おまえにもう勝機はない」
底冷えするような声色でリデルは宣告する。
「この私が、おまえのような餓鬼に負けるだと……? ありえない、ありえないありえない!」
男が魔力を集中させる。渾身の一撃を放とうとする男の視界から、リデルの姿が掻き消えた。
「なっ、どこへ――」
狼狽し、周囲を探ろうとする男の顔面に、リデルの拳が思い切り叩き込まれる。
みしり、と骨が砕ける音がする。
殴り飛ばされた男は石壁にめり込んだあと、そのまま四肢をだらりと投げ出し、意識を失った。
やりすぎたかと一瞬焦り、急いで男に駆け寄る。小さな呻き声が口から洩れるのを耳にし、彼の生存を確認すると、夜空に照明弾を打ち上げた。大きな破裂音とともに、眩い閃光が夜の王都を照らす。これで、兵士やら野次馬やらが大勢集まってくることだろう。
「あとの処理は、むこうでやってもらおう」
リデルは身を翻すと、夜の闇に紛れた。