35 賽は投げられた 下
渉たちがドニエプル川を越えてから二日経った。時刻は十五時ほどである。
ポルタヴァ市街南西部に、街への入り口となる門がある。澄み渡る空の下で、一体の若いドラゴニアがその場所を目指し、逃げるように飛んでいる。駆け込むように着地した。
ドラゴニアは邪龍に命令して門を閉ざし、この門の警備を強化させた。次にこのドラゴニアが向かうべきは、アーヴィンスラードのもとである。
このドラゴニアは、数体の邪龍とビヒモスからなる補給隊を指揮していた。任務は、ドニエプル川に展開する邪龍に食料を届けることである。彼はこの任務を既に何十回も繰り返しており、道中で哨戒中の魔族に遭遇するはずだが、今回は不思議と誰にも会わなかった。
彼らは突然、渉とエズリーズの大精霊二人組による襲撃を受けることになる。指揮官であるこのドラゴニアは、配下の邪龍が戦っている間に、自分だけは一人で逃げ出した。
しかしこのドラゴニアは、このまま逃げてポルタヴァへ戻るのではなく、何か情報を掴んで一矢報いてやろうと思った。
安全な場所まで逃げ切った後、彼は考えた。高度を上げれば広い範囲を捜索できるが、敵にも発見されてしまう。敵を見つける前に、あの大精霊二人に見つかってしまうだろう。
彼は地面を這うように飛行し、大精霊が出現した方向を捜索した。少し進むと、正面に小高い丘と、それを覆う林が見えた。林の中に入った後、視界を確保するために大樹を登る。
彼はそこで、人間たちが長い列をなして歩いているのを発見した。人数は二千程度だろうか。その部隊が北東、つまりポルタヴァを目指している。
三日前ソカーニルが報告したのは、もっと南部であり、規模は倍以上で八千を超えている。目の前にいる部隊は、ソカーニルが報告したものとは別の部隊だ。
恐らく、このドラゴニアが向かうはずだったドニエプル川の防御陣地を突破してきたに違いない。この場所はドニエプル川から四十キロ進んだところにある。これほどの大規模な部隊がその距離を移動するには数日かかるだろう。ポルタヴァまでここから六十キロの距離なので、ポルタヴァに着くには更に数日かかる。これを計算ではなく直感的に感じた彼は、地面に降りて林を抜けると、再び低空飛行で飛び去った。
襲撃から一時間以内には、彼はポルタヴァに戻っていた。純粋な邪龍であればもっと早いし、疲労も少ないのだが、彼らは命令された事しか実行できない。門番の邪龍たちは、肩で息をする自分を見ても何も感じ取っていない。邪龍は所詮、魂の抜けた人形だ。多少の苛立ちを覚えたこのドラゴニアは、彼らに命令せずにはいられなかった。十字軍がポルタヴァに着くにはまだ数日あるのだが、門を閉めさせて警備を強化させていた。
休む間も無く、アーヴィンスラードの所へと彼は急いだ。通された広間ではドラゴニアたちによる小会議が行われており、そこにはソカーニルの姿もあった。
話は、このドラゴニアがポルタヴァに逃げ帰る前に遡る。
ソカーニルがミラジットの報告を伝えるためにポルタヴァに戻り、アーヴィンスラードは部下たちと一緒に彼女の報告を聞いていた。
ソカーニルの報告が、全くの嘘であるとも知らずに。
「奴らが世界樹に到着するには時間がかかる。それまでに、奴らの物資を強奪して少しでも消耗させるのが目的だ。私はそんな回りくどい事をしなくてもいいと思うが、我々が受けた屈辱を奴らにも味わわせてやりたいのだろう」
ミラジット姐さんは人間たちを歩かせておいて、後ろからやってくる補給部隊だけを攻撃しているらしい。奴らがドニエプル川を渡河している地点も突き止めているが、馬車を通らせるために放置している。マルフュールにもそれを徹底させているらしい。ソカーニルの言うように、姐さんはすげぇ回りくどい事やってんな。
「要するに、姐さんは敵の補給を断ちつつ、攻撃の機会を窺ってるわけだな。やられたらやり返す。受けた恨みはぜってー晴らさないと気が済まないタチだしな。ホント姐さんらしいよ」
俺も何回も経験してるからなぁ。俺がまだちっさい頃は飛ぶのも腕力も姐さんには勝てなかったけど、俺がソカーニルくらいの身長になる頃には逆転したんだよな。憧れだった姐さんに追いつけて、すげー嬉しかった。そのあと、まだ子供だった姐さんは俺をポコポコ叩いたもんだ。次はぜってー負けない、って顔してたな。
俺が大きくなるにつれて、姐さんは俺に勝てなくなった。「次こそは負けない」って言うのが、今度は姐さんの方になってたんだよな。その後も俺は、わざと負けるようなのは嫌いだから、毎回勝つつもりで姐さんと勝負してた。姐さんも、小さい俺にマジで挑んでくれてたしな。
大人になった今では、お互い自分のシマを持って、昔みたいに競い合うこともなくなってしまった。だけど、身体能力なら姐さんに負けない自信がある。姐さんは俺に勝てなくなったのが悔しいのか、魔術を磨いて邪龍一の使い手になってしまった。そんなこと言うと串刺しにされそうだからぜってー言わないけどさ。
「姐さんに伝えてくれよ、姐さんのやりたいようにやっていいから、ここは俺たちに任せといてくれ。どーせ、なんもやることないしな」
ホントに、姐さんの好きにすればいいさ。この街と北部は俺が守り切ってみせるから。前線から逃げ帰ってきた俺が偉そうなこと言える立場じゃないけど、ここなら戦力が揃ってるし、ぜってー負けねぇ自信がある。
「伝えておくよ。だからもう少しここで待っていてくれ。奴らはここ数日、全く補給を受け取れていない。飲まず食わずでまだ必至に歩き続けているが、三日もすれば動けなくなるだろう。その時はお前達も、奴らが苦しんでいるのを見に来るといい」
ソカーニルがそう言うと、周りの連中はゲラゲラ笑い始めた。
弱らせる必要なんてない。そんなことしなくても、姐さんの軍団なら奴らを皆殺しにできる。ソカーニルの言うように、姐さんは俺の代わりに復讐をしてくれているんだ。それが分かってるから、胸がグッと締め付けられるような、それでいて青空みたいに晴れ晴れした気持ちになる。
「その補給部隊を襲ってるのは、姐さんだよな」
俺がそう尋ねると、ソカーニルは一瞬キョトンとしていたが、
「そうだ。ミラジット自ら手を下しているよ」
と答えた。
姐さんが怒り狂って暴れてるのが想像できるぜ……きっと影絵で血祭りにしてるんだろうなぁ。姐さんと一緒なら、誰が相手だろうと負ける気がしねぇ。そんな風に戦う姐さんの隣には、俺が一緒に居てやりたかった。
「姐さんに会いたい……」
小声だけど、誰にも聞こえないだろうけど口にしてしまった。姐さんが俺たちのために戦ってくれてるのに、こんな所で毎日ダラダラしてる場合じゃねえ。俺も姐さんと一緒に戦いたい。
少しでもいいから、姐さんの顔が見たい。
姐さんはいつも不機嫌そうな顔をしている。子供の頃からそうだった。姐さんの心からの笑顔を、ソカーニルだって見たことはないだろう。だけど姐さんは俺に、一度だけ「とびっきりの笑顔」を見せてくれたことがある。俺が自分のシマをようやく手に入れて、それを姐さんが褒めてくれた時のことだ。忘れることなんて出来ない。
左手を思いっきり握りしめて、姐さんが俺の頭を撫でてくれた時の、あの笑顔を頭に焼き付ける。
目を開けると、ソカーニルだけは俺の事を見ていて、何か恐ろしいものを見たような顔をしていた。そんなにヤバイ顔してたかな。俺はあの時の、撫でられた時の、満たされた時の顔をしていたハズだ。
ソカーニルと姐さんは仲が良いからな……何か変な事を言われると困っちまう。頭かいて考えている時に、誰かが走ってこっちに来るのを感じた。
「アーヴィンスラード様、大変です!」
走ってる奴が俺の名前を叫んでいる。皆が立ち話を止めてそのドラゴニアを見た。コイツの名前なんだったっけな、確か姐さんの部下の代わりに、前線まで物資を運んでる奴だよな。
「……人間が……人間どもが……」
「とりあえず落ち着けよ。おい誰か、水でも持ってきてやれ」
俺の目の前まで来たはいいが、とにかく息が上がってんな。一大事ってヤツか。
「いえ、大丈夫です……それよりも、別の部隊が現れました。こっちに向かってるんですよ!」
コイツはそう言って、ハァハァ言いながら俺の顔をただジッと見ている。返事を待っているようだが、これだけじゃマジで何を言ってるのか理解できねぇ。拒否られたが水でも飲ませて、一旦落ち着かせてから話を聞くとするか。
ソカーニルの奴は心配そうにしてるな。ここは俺がビシッと解決して、姐さんの役に立つところを見せてやらないとな。




