34 賽は投げられた 上
ポルタヴァにて、部屋の一角で地図と睨み合う『アーヴィンスラード』というドラゴニアがいる。二十四歳の若さで、自身の派閥を築き上げた青年である。
「あーーやっぱりダメだ。やっぱり、いつまでもミラジット姐さんの言われた通りじゃダメだ」
誰も居ない部屋の片隅で地図を放り投げると、アーヴィンスラードは立ち上がって拳を握りしめた。床に這いつくばった地図を拾い上げた後、かつてオジクスが座っていた王座を見つめる。この場所にオジクスが帰ってくることはない。居ても立っても居られなくなり、部屋から出て廊下をスタスタと歩き始めた。
彼はオジクスとミラジットの指揮の下、南部戦線におけるポルタヴァ以北の地域を担当していた。魔族による数に物を言わせた戦術は功を奏し、アーヴィンスラードはドニエプル川まで一気に兵を進めることができた。
しかしながら対岸の防御は固く、橋は落とされており、寒さが彼らの戦意を挫くことになる。アーヴィンスラードは焦り始めたが、ミラジットの待機命令を受けて冬の終わりを待つことにした。
だが、その間にオジクスが決闘で敗北。その後は彼の担当地域でオストフチ、リストチェントと失態が続き、補給線を攻撃されて食料が不足した。日増しに状況は悪くなり、選択肢がじわじわと減らされていく。ついに十字軍はドニエプル川を越え、魔族達の戦意は打ち砕かれることになる。
彼は広大な前線を担当しており、後方拠点の防衛と兵站はミラジットが全地域を担当していた。オストフチもリストチェントも、ミラジットの管轄下である。戦線が後退する羽目になったのは彼の責任ではないのかもしれない。だが、もう一人のリーダーである『マルフュール』の担当するポルタヴァ以南は問題なく守り通している。彼女の責任にすることは、アーヴィンスラードにはできなかった。
ソカーニルが、ポルタヴァ南部から東へ向かう大規模な集団を報告してきたのは昨日のことだ。
「マルフュールの担当地域でドニエプル川を越えたのだろう。奴らは世界樹を取り戻して、そこから兵隊を送り込むつもりなんじゃないかな」
ソカーニルは、報告にそう付け加えた。即応可能なのがミラジットの配下だけであり、その間のポルタヴァの防衛をミラジットはアーヴィンスラードに依頼した。
世界に点在する世界樹は『繋がり』を持っており、世界樹の精霊はそれを利用して空間を結ぶ力を持っている。人間達は世界樹を保護することにより、自国内の魔力を豊かにし、世界樹間貿易を活用して発展を遂げてきた。
世界樹はカエルラ帝国・アルビオン王国・レタレクティア帝国内に二つ、マクシミリアノ共和国・エストブルターニュ半島に一つずつ存在している。エストブルターニュはカエルラ帝国の影響下にあり、実質的にカエルラ帝国は三つの世界樹を管理している事になる。
邪龍も世界樹を一つ確保しているが、ドライアドは居らず、他の世界樹と繋がりを持っていない。彼らはランドマーク程度にしか考えていなかった。豊富な魔力を生み出す世界樹は安らぎを与えてくれる存在であり、邪龍だけでなく魔族達の憩いの場となっている。
この世界の国家においては、世界樹を確保していることが大国としてのステータスになる。レタレクティアは、ポルタヴァを戦争初期から奇襲により喪失し、奪還を試みたが失敗に終わっている。現状では十字軍が機能しており、ポルタヴァの戦略的価値は極めて高い。邪龍もそれを認識しており、オジクスが最前線に居座ったのはそうした理由からである。
アーヴィンスラードは、長老であるマルフュールの事は嫌いだったが、ミラジットの事は「姐御」と思って慕っていた。当然ながらオジクスも尊敬しており、彼はムードメイカーとして舵を取った。彼の派閥は自由気ままな邪龍の多い事で有名だが、それを各自が自ずから戦争へと向かうよう邁進させていったのである。
邪龍の王であるオジクスがなぜこの戦いを始めたのか、それは誰にも分からない。始まりは魔族の支配だった。使役術によって魔獣を配下にし、ゴブリンやオーガ、更には宿敵であり世界最強の存在であるドラゴン達をも屈服させた。これによりオジクスは魔族を統べる者、つまり魔王となった。勢力が拡大するごとにオジクスへの信頼は盲目的と言えるほどになっていく。一方で、オジクスは自身の目的について何も語らず、部下達の熱狂もどこ吹く風であった。
かつてアーヴィンスラードはオジクスに尋ねた。
「兄貴ぃ〜 兄貴ももっと楽しそうにして下さいよ〜 どうしてそんな淡々としてるんっスか?」
それに対する返答は、「魔王としての勢力拡大は、単なる準備段階に過ぎない」であった。
それを聞いたアーヴィンスラードは首を傾げたが、「たぶんもっと面白い事が待ってるんだ」と考えて詳細を聞かなかった。
廊下を歩くアーヴィンスラードは立ち止まって、ふと思い出したようにそのことについて考えた。どうして自分達は人間と戦っているのか。窓に近づいて空を見上げると、青空の中を真っ白な雲が、よく見ればゆったりと流れている。オジクスが死んでしまった以上、目指していたものが何かは分からない。人間達に戦争を仕掛けて連戦連勝してもオジクスは何も喜ばなかった。
だがあの時だ。エズリーズと渉、大精霊の二人が決闘を申し込んできたことをソカーニルが伝えた時、王座に座っていたオジクスが急に立ち上がったのを目にしている。明らかに興奮や驚きの類だった。彼が知っている中で、オジクスがそれ程感情を表にしたことはなかった。
邪龍達はその様子を見て、オジクスがその決闘を受ける事は容易に想像できたが、負けるなど夢にも思わなかった。それだけにショックは大きく、激しく動揺したが、戦時である事が彼らを結束させた。当時の戦局は停滞しているものの優勢であり、戦意という炎に対して、オジクスの死は「水」ではなく「薪」になっていた。
追い詰められつつある現在は、ムードメーカーであるアーヴィンスラードが魔族全体の鼓舞に貢献した。アーヴィンスラード自身も苦い思いをしたわけだが、ポルタヴァであれば食料事情は悪くなく、勝機は十分にあると考えていた。人間との能力差を強調してやる気を取り戻させ、特に邪龍達は徹底抗戦に意欲的であった。……ただ一人、ミラジットを除いて。
渉とミラジットが出会ったのは、一週間程前である。ソカーニルの報告は虚偽であり、ミラジットは一芝居打ってポルタヴァの防衛をアーヴィンスラードに任せ、自身の軍勢をポルタヴァから避難させることに成功した。オジクスが死んだ時点から、ミラジットはこの戦争に見切りを付けていたのである。アーヴィンスラードがミラジットの期待に答えようと頭を捻る中、今まさに裏切り者の二人、ミラジットとソカーニルが、ドニエプル川にて敵を迎え入れている最中であった。
「ミラジット姐さん……」
アーヴィンスラードは、青空に向かってポツリと呟いた。裏切り者であるとも知らず、死地に向かうであろうミラジットの身を案じて。
秘めたる恋心を燃やしながら。