今度はちゃんと約束、守ってくれるよね?
少女の声が冬夜の頭を揺らす。
違う。
揺らしているのは、冬夜が今いるこの場所。列車が走る振動。病院のような風景だというのに地面に手をつけば車輪の振動はしっかりと伝わってきた。
「思い出した?」
シロの声が優しく鼓膜を震わす。
優しく甘いシロの声は冷たく冬夜を嗤っている。
「冬夜くんはわたしを殺したの。そんなことも忘れてるなんて、冬夜くんってば酷いよね」
自分でも思う。何故、今まで忘れていたんだと。
舌に残る甘酸っぱい香りを飲み下し顔を上げると微笑むシロと目が合った。早鐘のように打つ心臓がぎゅうと締め付けられる。
思い出した。
シロとのすべてを。
夜の川は真っ暗だった。遅刻した冬夜を待てずに一人でランタンを流そうとして川に落ちたシロはなかなか見つからなかった。
意識のないシロが見つかるまで、川を眺めていることしか冬夜には出来なかった。
何故あの時シロは、冬夜を待っていてくれなかったのだろう。遅刻したとはいえ、約束は約束だ。もし少しでも待っていてくれていれば、あんなことにはなっていなかっただろうに。足を滑らせたことだってシロの不注意だ。年不相応に危なっかしい足取りを思い出す。シロがもう少し気を付けていれば、最悪は避けられただろうに。
「ねえ、冬夜くん」
シロの冷たい声音に冬夜はびくりと顔を上げる。
「わたし、もう好きな場所に行くことも好きな音楽を聴くことも好きなものを食べることも出来ないんだよ?それ、ぜんぶぜーんぶ、冬夜くんが奪ったの」
シロは冷ややかに、冬夜を見下ろしていた。床につく手が凍るように冷たくなる。まるで冬夜の頭の中をすべて見透かしていると言わんばかりの冷たく赤い瞳。実際に見透かしているのかもしれない。冬夜が今、何を考えてしまったかを。だからこうして冷ややかな眼差しを冬夜に向けているのだ。
「ねえ」
シロが、一歩近寄る。考えるより先に冬夜の足が後ろに動いた。
「さっき見た天の川、すっごく綺麗だったよね」
「なに、が……」
一歩、また一歩。
「夜の川って、冷たくて、暗くて、怖いの」
シロが歩み寄るから冬夜が後ずさる。こつりと冬夜の腰に固いものが当たった。これは窓枠だ。もう、後ろには下がれない。
首筋にひやりとしたものが伝った。吹き込む風が流れる汗を冷やす。冷たい感触でやっと自分が冷や汗をかいていることに気付いた。目の前まで迫るシロに対して、恐怖を感じていると。
こつり。シロが冬夜の目の前で足を止める。シロが冬夜の胸に右手を当てた。シロが少しでも力を込めれば、冬夜はきっと、
「……冬夜くん、試してみる?」
涼やかな水の匂い。どくどくと鼓膜を揺らす自分の心音をかいくぐり、車輪の音と風の音と、川の流れる音が聞こえた。きっと列車は今、川の側を走っているのだろう。ちらりと窓の外を横目に見る。眼下に映るのは星も煌めかない真っ暗な水面。どこまで深く、どこまで激しく流れているのかすらわからない。ぞっとするほど黒い黒い川。
シロは、こんな川に落ちたのだろうか。どれだけ恐ろしく、惨たらしく、凍えるような思いをしたのか、想像もつかない。
「……ごめん」
冷たい川の水に浸かったかのように冬夜の心臓が冷えていく。ぽつりと零した言葉は思っていたよりも小さかった。
「ごめん……俺のせいだ」
無意識のうちに窓枠に置いていた手から力を抜いた。
シロにはその権利がある。
窓辺に立つ冬夜を突き落す、その権利が。
「……いいよ。冬夜くんがしたこと、ぜんぶ許してあげるね」
シロが手を下ろし、冬夜を見上げて微笑んだ。いつものシロのような優しい微笑み。
「冬夜くんだって、わたしを殺したくて殺したわけじゃないもん。冬夜くんが来ても、どんな道を選んでも、わたしはこうなってたかもしれない」
「……でも、やっぱり、俺が遅れなかったら……まだ何か変わってたかもしれない」
もしもなんてありえない。冬夜は間に合わなかった。もしもは、どれだけ考えても実現してくれない。わかっていても、そのあったかもしれない可能性に縋りついて、後悔することしか出来なかった。
シロは小さく微笑んで優しいねと呟く。
「じゃあ、ひとつだけ。お詫びにわたしのお願い、聞いてもらえる?」
「…………わかった。俺に出来ることなら、聞くよ」
それくらいしか冬夜には出来ない。シロから全てを奪ってしまった冬夜に、償いの拒否は許されないだろう。冬夜自身も許せない。どんな願いだろうと受け入れたい。
「じゃあ……わたしのために、死んでくれる?」
まるで冷たい水を頭を叩きつけられたように思考が真っ白に塗り潰された。
シロが何を言ったのか、まるでわからない。耳が何かで塞がってしまっているかのように音が、シロの声が入ってこない。
どんな願いだろうと受け入れたいと思っていた。思っていたが、シロから出てくる願いの形が、そんなものとは、思ってもみなかった。あの優しいシロが、許すと言って冬夜を突き落すことだってしなかったシロが、人の死を望むだなんて、そんなこと。
「許してあげるって言ったけど、やっぱり納得いかないことはあるもの。冬夜くんだけどこまでも行けるだなんて、不公平だよ。だからわたしと一緒にいて?」
頭のどこかで必死に否定するが、それでもシロの願いは変わらない。優しい微笑みで、冬夜を呪う。
「今度はちゃんと約束、守ってくれるよね?」
やくそく、とシロがゆっくり甘く囁く。それはあの時約束を守れなかった冬夜に、シロを死なせてしまった冬夜に、重く、重く、のしかかる。
「ね、冬夜くん?」




