つまんなくはない、かな
たたたん、たたん。たたたん、たたん。とんとん、とんとん。
車輪の音が響く木の床を小気味良く踏み鳴らし、シロが冬夜の先を行く。
「冬夜くんほらこっち」
「走るとまた転ぶよ」
「冬夜くんのいじわる」
はしゃぐシロに軽口を叩くとぷくりと頬を膨らまされた。けれどそれもつかの間、すぐに無邪気な顔を浮かべる。
足音を弾ませるシロの後を追い、向かう先は列車の最後尾。窓の外を流れる景色と同じ方向に進んでいく。
「探険、なんてちっちゃい頃以来」
後続車両はみんな座席車らしい。変わり映えのしない座席の間を通り抜けながらくすぐったそうにシロが笑いかけた。列車に分かれ道などありはしない、ただの一本道の探険なのにそれでも嬉しそうにはしゃいでいる。先ほどまで抱いていた陰鬱な気分がいっそ馬鹿らしくなってきた。
むしろ、そのためだろうか。重苦しい表情をしていただろう冬夜の手を引き、探険しよとシロが誘ったのは。子供のように無邪気に振る舞うのは。
ぶわり、冬夜の思考を風が攫う。
思わず細めた目で見やると、シロが開けたドアの向こう側に星空が広がっていた。
「わあ……!」
感嘆の声を上げたシロがオープンデッキに駆けて出る。危なっかしい足取りのシロを追い車内から出た冬夜も、一瞬でその景色に目を奪われた。百八十度に広がる満点の星空。プラネタリウムだってこんなに広い空を見せてはくれない。見渡す限りの星。吸い込まれそうなほど真っ暗な夜空を無数の星が彩っている。列車が通ってきた地面も星空だろうか、きらきら輝くビー玉のような手のひらサイズの石がいくつも詰まれ、その上には白銀の枕木が並んでいた。ピアノの鍵盤を思わす枕木の上には二本のレールが敷かれている。レールに視線を這わせて遠くを眺めた。先ほどまであんなに眩いほどの光を放っていた十字架は、もうすっかり見えなくなってしまっている。
「すごいね、きれいだね」
隣から声がかかる。
ちらりと横目でシロを見た。きらきらと輝く星を、同じようにきらきら輝く翠の目で眺めている。風に靡く黒髪をかき上げたタイミングでシロも冬夜を見やった。視線が合い、シロが微笑む。
肋骨の奥が、また痛む。けれどその痛みは、今までの痛みとはどこか違った。柔らかくくすぐったく、呼吸をゆるりと止めてくるような、そんな痛み。決して嫌な痛みではない。痛みではあれど、どこか心地良い痛みだ。
「シロ」
肺が熱を持つ。内臓が火傷しそうな空気を追い出そうと、口を開く。シロが首を傾げた。けれど肝心の言葉は何も出てこない。熱い空気が喉から漏れる。そうしているうちに肺はすっかり冷え、何かを言おうと言葉がぐるぐるしていた頭の中もからっぽになってしまった。
「……やっぱ、なんでもない」
「ふふ、そっか」
ばつが悪くなりそう告げると、楽しそうにシロが笑った。冬夜が何を思っていたのか全て見通していたかのようだ。
「ね、冬夜くん、次は食堂車行ってみよ?」
「ほんとに何もなかったけど」
「それでもいいって言ったでしょ?」
シロが冬夜の手を引く。触れた指先に温度は無かった。きっと冷たい風に晒されて冷えたのだろう、そう察し、特に何も考えることなく冬夜はそのひんやりとした手を握った。シロの手が強張る。驚いた顔で冬夜を見上げ、それから冬夜と繋がっている自身の手と冬夜の顔を何度も何度も交互に見つめた末に、おずおずと、遠慮がちに冬夜の手を小さく握り返した。
小さく上目でこちら覗うシロの頬の色を見て、冬夜はようやく事の次第に気付いた。冷えたはずの内臓がかっと熱くなるのを感じる。けれどどうにもしようがない。やっぱなしと放すわけにもいかないだろう。
「……行こっか」
「う、うん」
シロの手を引き歩き出す。なんだかよく歩き方がわからない。さっきまでどうやって歩いていたのか思い出せない。ゆっくりと進む足が自分の物ではないかのように動かしにくく、一歩すらももどかしかった。
窓の外に星とは違う明かりが見える。どこかに続く街道だろうか、ぽつりぽつりと街灯がぼんやりと照らされていた。街道は少しばかり線路に沿って、それから小高い丘の向こう側へと伸びている。丘の手前にはさらさらと星屑の川が流れていて、街灯に照らされ橙色に染まっていた。
ドアノブをひねり引く。開かなかった。逆だ。ドアの開け方すらあやふやになるほど頭が回っていないらしい。シロに触れた手がとくとくと脈打っているのが自分でもわかった。
押して開けたドアの向こうに並ぶクロスのかかった白いテーブルを確認して冬夜はするりと手を離した。触れていた箇所がまだ熱く鼓動を刻んでいた。
もしかしたら手を離したことを気にしているだろうか、そう思って顔色を窺って見るが、シロはそんな些細なことは気にしていなかったらしい。無邪気な顔で食堂車を見渡していた。椅子と、クロスのかかったテーブルと、カトラリーケースと、メニュー表、ただそれだけがある食堂車。
「何もないって言っただろ」
「ほんとだ、何もないね」
だから言ったのにと冬夜はため息をついた。料理が並んであるならともかくそれも無い。それなのにシロはその何もない車両を楽しそうに歩き始める。置いてあるメニュー表を興味津々に眺めて、それからテーブルクロスの皺やシミを確認するかのようにまじまじ眺めながら歩をすすめて、
「でも楽しい」
そう微笑んで冬夜を振り返った。
「冬夜くんは?」
振り返ったシロは冬夜の目の前まで戻ってくる。冬夜の返事を確信した笑顔で。
何もない、ただの通り道だった。食器が入ったカトラリーケースがテーブルの上にあることも気付かずに通り過ぎてしまった車両。けれどどうやらシロの意見が正しかったらしい。
「……つまんなくはない、かな」
冬夜の返事に、シロが満足げにまた微笑んだ。
かちゃり、金属が触れる音が聞こえた気がした。
見ると先頭車両へ続くドアがわずかに開いていた。この先の車両は、イバラで塞がれたドアのある車両だ。蠍の火で燃えていたイバラは果たしてどうなったのだろうか。確か少女はサザンクロスを過ぎたあたりにはイバラは燃え尽きると言っていた。ならもうとうにイバラは無いだろう。あのドアの向こうも確かめられるはずだ。
別に見なくても構わない、あのドアの向こうになにがあろうが関係ない、今はシロと一緒にいるのだから。頭ではそう思っているのに、イバラの向こう側を、この目で見なければならないと、体のどこかが急かす。視線はもうドアの隙間から動かせなかった。からからに乾いた喉が生唾を飲み込もうと上下する。
そして冬夜は一歩、踏み出した。
「ねえ、このメニューの絵……冬夜くん?」
メニュー表を眺めていたシロが顔を上げた時、冬夜の姿はそこにはなかった。
少しだけ開いた木のドアが軋んだ音を立てた。