冬夜くんは銀河ステーションからこの列車に乗ったの
「銀河ステーション、銀河ステーション」
どこかで不思議な声がした。
すると蛍の光、宝石の光、夜景の光、光という光をいっぺんにばらまいたかのように、目の前がさあっと明るくなった。
眩くて、眩くて、思わず目を閉じた。
たたたん、たたん。たたたん、たたん。
リズミカルに聞こえてくる音。音は途切れることはなく、未だ夢の世界にいる冬夜を揺らす。
たたたん、たたん。たたたん、たたん。
断続的に続く音。不快ではない。むしろ音の波は心地よかった。穏やかに優しく揺れる音。
やがて音はふわりと冬夜を揺り起した。
うっすらと開いた目でぼんやり辺りを見回す。黄色い電灯に照らされた、幾つもの青い布地の座席。木目の床はずっと遠くまで続いていて、その終わりには真鍮のドアノブがついたドアがあった。気付いてみると、そこは列車の車内だった。さっきからする心地のいい音は車輪の音だった。
ひとつあくびをして目を覚ますと、冬夜は目の前に少女がいたことを知った。
濡れたようにまっ黒な髪の、自分より幾分も背の低い少女が窓から頭を出して外を見ていた。さらさらと少女の髪が風になびく。見覚えのある後ろ姿だった。誰だろう。知ってるような気がしたが、名前がわからない。そう悩んで見つめていると、少女はおもむろに冬夜へと振り返った。
大人しそうな、可愛らしい顔立ちをした少女。
冬夜と目が合うとその少女はふわりと笑い、冬夜に話しかけた。
「冬夜くん、やっと起きた?」
「…………え」
少女は冬夜の名前を知っていた。しかし、冬夜からは少女の名前が出てこない。謎の少女は座席に座り直して微笑むだけだ。
「おはよう冬夜くん」
「……おは、よう」
「あ、おはようじゃないかな。もしかしておよそうになっちゃうのかな……ずいぶん長く寝てたもんね。疲れてるのかな、目の下にうっすらだけど熊さんいたよ?」
少女は自分の目の下を指差し、冬夜を心配そうに見つめた。冬夜も思わず自分の下瞼に指をあてる。そんなに酷いくまが出来ていたのだろうか。そういえば、目覚めてからやけに頭がすっきりしている気がする。少女の言う通り疲労か、睡眠不足だったのだろうか。
「疲れてたら、ちゃんと言ってね?多分長旅になると思うから」
「長旅?」
旅とは、なんだ。冬夜は旅に出た覚えはない。気付いたらこの列車に乗っていて、気付いたら目の前に少女がいた。それも見覚えはあるが名も知らぬ少女。知らない誰かと旅に出た記憶はない。
「…………ごめん、旅ってなに……というか、俺、なんでこんなとこに……」
「……もしかして覚えてないの?」
冬夜の問いかけに、少女は少しだけ眉を下げて寂しそうな顔をした。そんな顔をさせてしまったことが何だかバツが悪くて、覚えていないとすぐに言うことが出来なかった。しかし冬夜の無言はそのまま回答になってしまったらしい。
「……じゃあ、一個ずつ整理しよっか?」
寂しそうな笑顔のまま、少女はそう言った。
「ここ、どこだかわかる」
「……列車?」
「あたり」
思った通り、やはりここは列車だった。冬夜の正解に少女は嬉しそうに微笑む。
「だけど……この列車がどこを走ってるかは、自分で見た方がいいかも」
嬉しそうな微笑みから、今度はいたずらっ子な笑みに変わった。冬夜の反応をそわそわと待っている表情。その変わり様がなんだか面白く、冬夜は少しだけ苦笑した。
「自分で見た方がいいって言われても……」
先ほどから視界の端に映る暗さ。どう考えても昼間の明るさではない。夜ならばどこを走っているかなんてわかるわけもない。そう文句を言おうとしながら冬夜は窓の外を見た。見て、目を見開いた。
窓の外は、確かに夜だった。しかし普通の夜の風景ではなかった。
「……星空」
「ね、すごいでしょ?」
上も下も、遥か先も、見えるところはどこまでも星空だった。きらきらきらきら、あちこちに星がばらまかれている。
列車はそんな星の間を通り抜け、青白く光る銀河を横目に走っていた。銀河の岸一面では銀色のすすきが風に揺れさらさらと波打っていた。
「天の川だね。真っ白で、きらきらで、きれい」
少女の言うとおり、銀河は数え切れないほどの星で埋め尽くされている。星があちこちで瞬く様は、まるで流れている本物の川のようにも見えた。
その風景を見て言葉も出てこない冬夜に、少女は覚えてない?と首を傾げる。
「冬夜くんは銀河ステーションからこの列車に乗ったの」
「……銀河ステーション」
「それで、今はわたしとこの列車で旅をしてるんだよ」
そんなの覚えていない。列車に乗ったことも旅を始めたことも、覚えていない。本当にあったことかも疑わしいくらいに。
けれど、冬夜に話しかけながら窓の外を見る少女の微笑みが、心の底から旅を楽しんでいることのわかる表情で、どうにも嘘だと否定することが憚られた。否定してしまえば、間違いなくその表情は曇ってしまうだろう。なんだかそれは良くない気がして。そう思って、冬夜は口をつぐむ。
「あ!」
一音を発した少女の顔が、さらに輝いた。
「……竜胆が咲いてる。きれい」
少女に言われて見てみると、青色にも橙色にも輝く星の野原に、透き通るような竜胆が咲いていた。輝く花びらの一枚一枚はまるで細工されたブルームーンストーンにも見えるほど。こんな竜胆はどこの花屋にだって置いていないだろう。きらめく青紫色の花は幾つも幾つも野原に揺れて冬夜の目の前を通り過ぎて行った。
「ね、竜胆の花言葉って知ってる?」
「……知らないけど」
「知りたい?」
少女が問う。またあのいたずらっ子のような笑みをしていた。これは当てろということなのだろうか。けれど冬夜は花言葉を一つだって知らない。花言葉そのものにあまり興味がわかないのだ。だからだろう、今度はすこし素っ気なく、少女のいたずらっ子な笑みから視線をそらしてしまった。
「……別に。興味無い」
「もう。冬夜くんってば。いいもん勝手に話しちゃう」
拗ねたような声音だった。少女は一瞬だけぷくりと頬を膨らませ、それから窓の向こう側で流れる竜胆に優しい視線を向けた。
「竜胆の花言葉はね、あなたの悲しみに寄り添う」
窓から吹き込んだ風が、少女の髪をふわりとなびかせた。
「優しい花だよね」
哀しくなるくらいに優しい笑顔。その表情と目があった瞬間、何故か心臓がどきりとした。ときめきの類いではない。どちらかと言えば、これは、不安だ。
「……まあ、そうかもね」
肺が締め付けられるような感覚。不安感からか、そんな曖昧な返事しか出来なかった。
この妙な焦燥感は、なんだ。不安で焦る気持ちも、上手く呼吸が出来なくなるくらいの締め付けも、全く理由がわからない。
そんな冬夜の戸惑いをよそに、少女が駅だ、と呟いた。
「次ははくちょう座だよ。ね、冬夜くん、降りてみない?」
「降りてって……ありなのそれは」
「はくちょう座には20分くらい停まってるから大丈夫。ね?」
冬夜の腕を取り軽く引っ張る少女の顔は、待ちきれないと言わんばかりだ。ダメだとも、自分は残るとも言いにくい。銀河に負けず劣らず少女の目はきらきらしている。
冬夜は呆れたようにため息をついた。なんだか、わけのわからない感覚で悩んでいた自分がばからしい。
「わかった。その辺歩くだけならだけど」
「ほんと!?」
冬夜の許可に、少女がぴょこんと立ち上がる。嬉しそうに笑う少女はどことなく危なっかしいなと感じた。と、感じて数秒すら経過しないうちに、少女がバランスを崩した。ガタンと揺れた車内、傾く少女の体、倒れそうな先は……開けたままの窓。
「シロ!」
体は、咄嗟に動いた。
どさりと重い音が車内に響く。
「と、冬夜くん……」
自分の腕の中から戸惑ったような声が聞こえた。抱きとめたときに窓枠にでもぶつけたのだろうか、背中が鈍く痛む。
「いって……あのさあ、もう少し場所とか考えないと……」
危ないからと咎めようとした言葉は途中で止まった。
「……やっと呼んでくれた」
車輪の音にすら掻き消されてしまいそうなくらい小さな呟きが少女から零れた。
まるで今にも泣き出しそうに潤んだ目。泣きそうなのに、少女はたまらなく嬉しそうだった。
やっと呼んだ?何を?訊ねるより早く冬夜は思い出す。
シロ。
そうだ、さっき自分は、この少女を助けるとき、そう口にした。
「…………シロって、君の名前」
「うんっ」
シロ。そう言葉にしただけで、少女は、シロは、これ以上ないくらいに嬉しそうに笑う。堪えきれなかったのか、長いまつげがほんの少し濡れていた。
車輪が鳴っている。しばらくして列車が止まる音がした。
「あ、着いたみたい。行こ?」
「……うん」
冬夜の手を取り、シロが立ち上がった。
シロの表情の理由がわからなくて、戸惑って、おざなりな相槌を返してしまう。手を引かれるまま、冬夜は座席の間をすり抜けた。
「冬夜くん、さっきはありがとう」
真鍮のドアノブに手をかけたシロが振り返る。とびきりの笑顔だった。
つきり、また胸が痛んだ。嫌な痛みだ。
どこかで見覚えのある姿、教えられてもいないのに知っていた名前、そして、この胸を締め付ける笑顔。
知らない子だと思ってた。なのに何故、俺はあの子の名前を、覚えてるんだろうか。この痛みはなんなのだろうか。
口に出来ない謎の痛みと想いを抱えながら、冬夜はシロに手を引かれて列車を降りた。