第367話 卒業式
あれから、さらに時が過ぎた。
クファルのちょっかいを警戒していた俺たちだったが、あの時の襲撃以降、奴は姿を現していない。
当時は周囲を警戒していた俺たちだったが、やがてその警戒も薄れていった。
まず、マクスウェルがモンスターの接近を感知する敵性感知を展開しているのも大きい。
常時展開することはほぼ不可能に近い魔法なのだが、マクスウェルの魔力量なら、それすら可能になる。
もっとも、さすがに街の外にまで効果を及ぼすことは不可能だったらしい。
「えー、皆も六年間、この学院において精進をし、今や魔術師としてどこに出しても恥ずかしくない力量を持つに至り……」
そのマクスウェルは今、講堂の壇上において珍しく長いコメントを述べている。
そしてその前には今年卒業する生徒たちが整列していた。すなわち、俺たちである。
「諸君らはこれからそれぞれの道を歩む。中にはつらい道を選択したものもいるだろう。しかしこの学院で学んだ知識と経験を胸に事に当たれば、必ず乗り越えることができるだろう」
俺は講堂に並べられた椅子に座り、珍しく熱の入った祝辞をぶち上げるマクスウェルを眺めていた。
隣に座るレティーナとマチスちゃんは胸の前で手を組んで涙を堪えていた。いや、堪えているつもりなのだろうが、すでに決壊していた。
「ほら、レティーナ。涙と鼻水拭いて」
「だっで、だっでぇ」
「レディが鼻水まで流すもんじゃないでしょ」
「ニゴルざんにいわれだくないわよ!」
「濁るって言うな」
俺からハンカチを受け取り、涙を拭うレティーナ。ついでに鼻水も噛んでから、ハンカチを返してくる。
「ばい」
「いや、いいから」
「ぞう?」
ドリル幼女の鼻水付きハンカチなんて、少なくとも俺は欲しくない。
後で洗濯してもらってから、コルティナにでも返してもらえばいいだろう。
「でもニコルさんも卒業式が終わればすぐ街を出るのでしょう?」
「うん、すぐっていっても一週間くらい後だけど。それに、ときおり戻ってくるけどね」
「さびしくなりますわね……」
マチスちゃんもここで堪えられず、涙をポロリと流した。
俺はハンカチを渡そうとして、それがレティーナに渡していたことに気付く。
「マヂズぢゃん、ハンガヂ」
「いえ、結構ですから」
レティーナが鼻をかんだハンカチをマチスちゃんに渡そうとしているが、丁重に断られていた。
「レティーナ、少し落ち着け?」
「うん」
いつもならこれだけ賑やかにしていると注意されたものだが、今日に関しては大目に見てもらえている。
さすがにこの日にまで、細かいことをいう教師はいないようだ。
そうしているうちにマクスウェルの祝辞も終わり、各クラスの代表が卒業証書を受け取りに前に出ていく。
コルティナのクラスからは俺……といいたいところだったらしいが、爵位を勘案してレティーナが前に出て行った。
正直言うと、あの有様だから何かポカをしないか不安だったが、大したトラブルもなく証書を受け取り戻ってくる。
そしてつつがなく式典も終わり、俺たちは講堂を出た。
これで俺たち生徒は、晴れて卒業生となり生徒ではなくなる。
そう思うと感慨も湧くというモノだ。俺は青く澄み切った空を見上げ、熱くなる胸に手を当てて興奮を沈めていた。
その姿を周囲の生徒たちは遠巻きに見つめている。
春ということもあり周囲は季節の花びらが舞い踊っている。その中に佇む俺の姿に見入っているのだろう。
それくらいには、俺の外見は女性として成長していた。残念ながら、それが自覚できるくらいには育っている。
男女を問わず見惚れているその中を、猛然と駆け寄ってくる男がいた。
この俺に何のためらいもなく駆け寄れる男なんて数えるほどしかいない。この場合、間違いなく――
「ニコルゥゥゥゥゥ!」
「くるな!」
ライエルだった。
涙と鼻水を、花粉症かといわんばかりに駄々漏らしにして、立ち尽くす俺を抱きすくめんと襲い掛かってくる。
俺は一声叫んでその抱擁を躱そうと、鋭くバックステップを踏む。
しかしそれより先にライエルの抱擁が俺に襲い掛かった。
「ぐえぇぇ!?」
「ああ、ついに卒業してしまったんだな。涙をこらえる姿も可愛かったぞ!」
「そんなことないし、遠くからしか見てなかったでしょ。それに苦しい!」
馬鹿な、前世ではさっきの速度で充分に回避できたはずなのに。
こいつの肉体、若返ってからさらに素早くなってやがる。
「それにしても、ニコルも立派になったものだな。もう立派なレディだ」
「うぐっ」
「さっきの光景は、俺でも少し見惚れちゃったぞ。まるでマリアみたいだった。少し若いけど」
「あらあなた。私は今でも若いわよ?」
爆走してきたライエルの後ろからゆるゆるとマリアが近づいてきた。
頬に手を当て、困ったという表情をしているが、その背後がそこはかとなく黒く見える。
ライエルも硬直して抱きすくめていた俺を解放してしまう。
「こんにちは、マリア様、ライエル様」
そこに如才なく挨拶をしに来たのは、マチスちゃんだ。さすが商人の娘。
スカートの裾をちょいとつまみ、優雅に一礼する姿は貴族と名乗っても通用しそうなほど堂に入っていた。
ライエルもすかさず話題を変換するべく、マチスちゃんに返礼していた。
「やあ。いつもニコルが世話になっているね」
「失礼な、世話になってなんかないし」
「あら、先週も準備運動のマラソンの最中に倒れましたわよ?」
「レティーナ、うるさい」
号泣から復帰したレティーナも、ライエルたちに挨拶すべくそばにやってきた。
こちらは本物の貴族なので、完璧な所作で一礼する。
「こんにちは、ご機嫌麗しゅう、マリア様。ライエル様も壮健そうでなによりですわ」
「あ、君も先にマリアに挨拶するんだね……いやいいけど」
多少の付き合いのある者なら、ライエルとマリアどちらが実権を握っているか一目でわかる。
そしてマチスちゃんもレティーナも、その『多少の付き合い』のある人物だ。
どちらを優先するかは、自明の理と言えよう。
「マチスちゃんも元気そうでよかったよ。卒業おめでとう」
「ありがとうございます。ニコルさんのおかげで楽しい学園生活を送れました」
「そう言ってくれると留学に出した意味もあったというモノだね」
ライエルはがっしりとした手を彼女に差し出し、マチスちゃんもその握手に応える。
マチスちゃんは高等部に進学せず、実家で商売の勉強をするらしい。
高等部は貴族の勢力がさらに強くなるため、その方が気が楽というのもあるだろう。
「はいはい、みんな集まってるー?」
「あ、コルティナ」
「学院じゃ先生と……もう呼ぶ必要はないわね。まあいいわ、卒業式も終わったことだし打ち上げするわよ! 教室にお菓子とか用意してあるから、みんないったん戻りましょ」
「お、そりゃいいな。俺もお邪魔してもいいかな?」
「あんたはすっこんでなさい。生徒が緊張しちゃうでしょ」
「もうお前の生徒じゃないんだろ?」
「うぐ……ライエルのくせに生意気な」
珍しくコルティナの方が口喧嘩に負けている。
それを見て笑いを堪えていたマチスちゃんが、控えめに提案してくれた。
「コルティナ先生、わたしたちもライエル様に参加してもらった方が楽しいです」
「そ、そう? まあいいわ。ホールトンさんに免じて参加を許してあげる!」
「そりゃありがたいね。彼女には感謝しなきゃ」
こうしてこの日は日が暮れる寸前まで、教室で騒ぐことになった。
ライエルとマリアの周りにも人だかりができ、質問攻めにあっていた。
きっと他のみんなも、忘れられない卒業式になったことだろう。