第295話 製作開始
過去の自分を捨てるか、今の自分を捨てるか、そんな選択に苦渋の表情を浮かべる俺に、アストは溜息を吐いた。
肩を竦め、脱力したように椅子にもたれかかる。
「まったく、仕方ない奴だな。とりあえず当面をごまかすために変化できる魔道具が欲しいと?」
「ああ、頼む。礼はいくらでも出すし、なんだってする」
「ほう、なんだってすると?」
「あ、いや。不倫にならない程度にな?」
にやりといやらしい笑みを浮かべたアストに、俺は念のために牽制を入れておく。
悪いが俺は、他者の家庭を脅かすような存在にはなりたくないのだ。
いや家庭だけでなく、カップルとかそういうのを壊す存在になりたくない。
「まあいい。だが変化か……それを魔道具にしたことはなかったな」
「じゃあ、お前でも無理なのか?」
「いや、巻物に込めるだけなら、すぐにでもできるだろう。加工するための材料もある」
「なら早くやってくれ!」
「ああ、わかったわかった。だが茶を一杯飲んでからな。デンの茶は美味いぞ。がっつり仕込んだからな」
その言葉と同時に、デンがトレイに香茶を乗せて戻ってきた。
「お待たせいたしました。レモングラスとジンジャーをブレンドした茶です」
「へぇ、おいしそうじゃん」
この家は半ば地下に沈んでいるだけに、空気が澱んだ傾向がある。
そんな室内に爽やかな香りが満たされていく。香りだけでも食欲が沸いてきそうだ。
「ジンジャーには体を温める効果が、レモングラスには沈静作用があるので、気分が落ち着きますよ」
「ほうほう」
冬は峠を越えたとは言え、夜はまだ肌寒さが残っている。この心遣いは正直にうれしい。
これもアストの執事教育の成果なのだろうか。
「他にも貧血に効いたり、乳の出が良くなったりするそうです」
「ブフゥ!?」
いや待て、なぜ乳の出が良くなる茶を飲ませようとした?
そもそも俺はまだ乳など出ない。
「いや、貧血の方を心配しまして。ニコル様からは少し血の匂いがいたしましたので」
「うっ」
そういえば最近また月の物があったばかりである。軽い貧血の症状が出ているのは否めない。
「それに、失礼ながら胸部の発達に不具合を覚えました」
「余計なお世話だ!?」
「あれから半年。育ち盛りであることを勘案しますと、少々心配が――」
「もういいから! それに俺たちはやることがあるんだ。ほら、アストもさっさと飲め!」
何が悲しくて生活を世話したオーガにまでセクハラされねばならんのか。
俺は話を打ち切り、アストの口に香茶を強引に流し込んだ。
「あっつ! 待て、それはさすがに、あっつ!?」
「最近のニコルは熱湯責めにでも目覚めたのかのぅ」
「他にも被害者がいるのか?」
「すでに二名ほど」
待て、クラウドは熱湯じゃないからノーカンだろ。
それにあの召喚者の男も糸で焼いただけだ。熱湯をぶっかけた経験は一度もない。
「謂れのない噂を広げるな。ほら夜は短いんだ、急げ急げ」
「だから熱い茶を流し込むのはよせ!」
すったもんだした挙句、ようやく俺たちはアストの洞窟へと移動することになったのだ。
デンは俺の隠れ家を守るという義務感を持っているため、洞窟へついてくることをせず、留守番をすると主張していた。
俺たちは三人だけでアストの洞窟へ向かい、その奥へと案内された。
洞窟の奥にある一軒家……という表現は妙だが、奥の部屋には俺が見たこともない素材の山が存在していた。
「こりゃすげぇな。前世でも見たことないぞ、こんな素材」
「長年集め続けたコレクションだからな」
「これだけあれば確かに最上位魔法の巻物くらいは作れそうですな」
「ああ、作業におそらく……そうだな、俺でも五時間くらいはかかるか」
「五時間……深夜になるな。いや、明け方近いか?」
途中の寄り道で結構時間を食っている。時間にしては深夜零時に近い。
五時間程度の時間が経てば、それはもう明け方と言っていい。
「今から作業に入るから、お前たちはそっちの客間で休んでいるといい」
「客間あったのか」
「一応ここは家だぞ。客間くらいはある」
「洞窟の中に埋め込んでおいて、何を今さら」
「好きで埋め込んだわけじゃない。ちょっと噴火に巻き込まれた旧家をリフォームしただけだ」
「いつからあるんだよ、この家……」
この山が噴火したという話はかつて聞いたことがある。だがそれは伝承すら危ういほど昔のはずだ。
なんにせよ、客間があるというのはありがたい。夜も更けてきたので俺も眠気は感じていた。
見学したがるマクスウェルを強引に引き摺り、客間へと潜り込んだ。
そこは地下の洞窟だというのに快適な部屋だった。
天井付近には扇のようなモノを組み合わせた基材が設置され、ゆっくりと回転することで空気を外へと送り出している。
こうすることで室内の空気を循環させ、常に新鮮な空気を取り込んでいるのだろう。
「ほほぅ、あの扇を回転させることで風を起こしておるんじゃな」
「微妙に角度つけてあるのか。夏場には便利そうだな」
「確か冷風機にも、あの機構がついておったのぅ」
夏場の友と化している冷風機。内部に小型の氷壁を張る術式を備え、そこから風を送り出すことで部屋を冷やす魔道具だ。
ちなみに開発者はあの白いのだと言われている。信じがたいことだが。
しかしそれ以外にも、俺は一つ重要な事実に気が付いた。
「おい、この客間……ベッドが一つしかないぞ?」
「う、うむ?」
客間には少し小さめのシングルベッドが一つ置いてあるだけだった。
もしあそこで寝ようとすれば、かなり窮屈な思いをすることになるだろう。
「まあ、俺が身体小さいから、寝れねぇことはないか」
「そういう問題じゃないじゃろ。お主はそろそろ異性との接触に気を付ける歳になってきておるじゃろうに」
「あ? 俺とお前の間に……いまさらだろう」
「ああ、もういいわい。ワシは床で寝る」
「別に気にしないのに」
「ワシが気にするんじゃ!」
まあ、床には毛足の長い絨毯が敷かれているので、冷えることはないだろう。
ローブを掛け布代わりにして横になるマクスウェルに、なにを強情なという視線を向けながら、俺はベッドに横になったのだった。