36,一発入れてやった日
エリーは走った。
――……ヘルペスに向かって。
違う! 全然思いは届いとらんぞ!
「おっと危ない」
掛け声と共に放たれたちっぽけな炎を躱したヘルペスが、意外そうにエリーを見下ろした。
「君も、フォルミカ先生と同じで行動原理がイマイチ把握できませんね。
今、そこの死に掛けに、捨てられたじゃないですか。怒りをぶつける矛先、間違ってますよ」
「うるさい! 合ってる!」
「はぁ……キミの目玉は飾りでしたか?」
面倒臭そうにため息をついて、ヘルペスは前髪をかき上げた。
「ま、なんでも結構。
死にに来たのなら、死なせてあげますよ――お母さんに焼き殺されるなんて、幸せですね?」
ミコー、と合図のようにヘルペスが名を呼んだ瞬間、ヘルペスの手元に大きな炎が宿った。
エリーにタックルを喰らわせるようにして抱え込み、地面にゴロゴロ転がる。
散々痛めつけられた体だ。
もう2、3本骨が折れても大して変わらないだろう。
むしろ動けたのが驚きだ。
おじさんのズタボロの体も、意外にやるもんだ。
火事場の馬鹿力とはこのことか。
しかし自身の身体の話より、と体の上を通り過ぎた大きな炎を見ながら、私はかすれたザラザラの声で言った。
「……なんで、逃げないんだ、馬鹿エリー」
私の腕の中で、ぎゅっと目を閉じていたエリーは、私の声にうっすら目を開ける。
それからいつか見たのと同じ、モゴモゴと言葉を探したあと、充血して赤くなった目で、私をまっすぐ見上げ、レースシャツをぎゅっと握った。
「だってアタシは……、あんたが良いもの、――オーグラー」
「!」
「アタシは、あんたと一緒にご飯を食べたい。
あんたと一緒に、森を歩いて、喋って、歯を磨いて、眠りたい。
朝はあんたに、おはようって、言うんだ」
きゅっと、エリーが口を引き結ぶ。
重い瞼の下で、緑の瞳が決意に輝いた。
私は間抜けに口を半開きにし、その素直な顔をしばらく眺めてから、そっと微笑んだ。
――エリー、どうやら私は、お前の認識を少し、改める必要がありそうだ。
「なんだ、エリーお前……可愛いだけじゃあないな、――カッコいいぞ」
エリーはしばし「へ」の形に口を開いていたが、むずむずと口をこそばゆそうに動かした。
「……オーグラー、あんたこそ見た目は良くないけど、カッコいいな。たぶん、戦闘服のお陰だけど」
「馬子にも衣装か? そりゃひどい」
一緒に肩を揺らして笑いあい、そっとお互いに手を回す。
はにかむ小さなぬくもりを抱え、埃っぽい匂いを吸い込んだ。
それから私は、ぶるぶる震える腕を支えにゆっくりと上半身を起こす。
歯を食いしばって膝をたて、危なっかしくふらつきながらも立ち上がった。
脇腹は刺すように痛むし、頭は割れそうだし、足首は風船みたいに腫れてズキズキ脈打ち、右手の中指はウィンナーのよう。
どこを動かそうがどっかしら痛い。
更に、眼鏡は割れて殆どレンズが無いし、安い革靴は底が剥げている。
大事に手入れしていた頭髪は焦げたり暴風にやられたり地面に擦りつけられたりで荒れ放題。
どこで切ったのか、頭から流れてきた血が目に入って血涙状態だ。
あちこちの火傷のせいで、肌がぷりっとしたピンク色になっている部分もあって、健康状態抜群とはとても言えない。
むしろ健康部分を探す方が難しそうだ。
シャツの下がどうなっているのか、恐ろしくて見たくない。
ここに居るのは、ただの人間のおじさんだ。
魔法は使えないし怪力も無いし、空だって飛べないし頑丈な牙も美しさもない。
役に立ちそうにない、薄汚れた格好の、ボロボロなおじさんだ。
けれど、まだ――――二本足で、立てる。
みっともなくガクガク震えながら、珍獣を見るような目をしているヘルペスと私は向き合った。
「……頭を強くぶつけましたか?」
ヘルペスが気持ち悪そうな顔をして、私の頭を眺めまわした。
私は軋む首を縦に動かす。
「まあな。何しろ、私の頭部は、防御力が人より低い」
「……そのようですね。で、どうするおつもりですか?
貴方が五体満足の健康体であったところで、何もできないと思いますが。
気付いていますか? 今、あなた、死に掛けですよ?」
「ああ……そうだな、だから私の役目は――囮だ」
怪訝そうな顔になったヘルペスの、僅か斜め左に向かって、私は腹の底から叫んだ。
「フォルミカ! 今だ!」
「!?」
パッと後ろを振り向いたヘルペス。
素直で可愛くない敵である、うむ。
残念ながらフォルミカは意識不明の重体だ。
ハッタリだと気づいたヘルペスが私の方を振り向く前に、地を蹴っていた私は思いっきり、ヘルペスの頬を殴り飛ばした。




