29,泣くなとあやしてやりたかった日
私とミコーは目を見交わした。
中から聞こえたのは、エリーの声。
何故此処にエリーが、と私は少し焦る。
不思議そうな顔になったミコーも私に倣って、こっそり扉に耳を張りつけた。
「嘘つき! 返せ! あいつは、アタシのオーグラーだ!」
扉越しでくぐもっているが、エリーの怒声が聞こえてくる。
あいつ何怒ってんだ? オーグラーって、アンタの事?
アンタここに居るじゃん、とミコーがブツブツ呟く。
「いやはや。君は彼を本当に《人喰い鬼》だと、思っているのですか?」
「っ! 当たり前だろ! アイツは、アタシが血の契約で呼んだんだ!」
「嘘は感心しませんね。血の契約で嘘はつけない」
フォルミカ先生に習わなかったかな? と、猫なで声でエリーと会話しているこの声――ヘルペスだ!
ぴったり隙間なく扉に耳をくっ付けると、ヘルペスの愉しげな声が聞こえてきた。
「……血の契約の魔法陣――――召喚相手と自身に、同等の立場を約束するもの」
同等の立場とは何だ? とミコーを見る。
ミコーはそうそうその通り、と優等生の顔で頷いていた。
どうにも解説してくれる気は無さそうだったが、代わりにヘルペスの声が説明を続けた。
「一方的支配を命じる事が可能な紙面契約による主従とはならない。
よって、己の力以上の者を呼んだとしても反旗を翻されることはない。代わりに、互いを傷つけあえない」
ヘルペスは淡々と私の疑問だった契約内容を話してくれているようだ。
私は息を飲んで、一言も漏らすものかと耳の穴をかっぽじってから、べたりと扉に耳をくっつける。
「両者の血液を媒介とし、互いの名を知り、利害が一致することによって初めて契約は成立する。
故に、顔見知りの相手と契約を結ぶのが一般的」
小難しい単語が羅列されていて、理解にまで少々時間を要した。
けれど、何となくイメージはわく。
おそらくラーウムがしていたのが紙面契約。
要するに……会社の採用試験に何とか通ったはいいが、この新人使えねえと早々に解雇されてしまった――。ラーウムが魔法使いより強ければ、そいつをやっつけることが可能だったのだろうが、そうではなかったからラーウムは泣き寝入りした訳だ。
しかし私とエリーが交わしたらしいのは、血の契約。
上司と部下、という関係ではなく、横に並んで同じ目的の為に協力し合う契約、という感じだろうか。
だが私はエリーの名前なんか知らなかったし、エリーも私の名前を知ら……いや、微妙に合っていたのか。
発音が変なだけで。
それにしたって私はエリーのあの長ったらしい名前は未だに覚えていないのに、どうして契約が結ばれたんだ。
しかも条件が利害の一致?
私は人間食べたいだなんて欠片も思った事は無いが……しかし、もしかすると。
「彼が、君の名を知る筈がありません。彼は別世界の人であり、君の存在を知りえなかった。
それに人喰い鬼でもない。契約が結ばれるはずがない」
「っオーグラーは! アイツはちゃんと、アタシを知ってた!」
「そうですか? でも彼は、人喰い鬼ではありませんね」
エリーの言葉を軽くいなすヘルペス。
もう訳分からん、と思考を半ば放棄した顔をしているミコーを眺めつつ、私はきゅっと下唇を噛む。
ヘルペスが軽い調子で言った。
「まぁ良いですよ、悪魔の子が嘘をついても、きっと誰も咎めやしません」
「アタシは、嘘なんてついてない! オーグラーを返せ!」
「勿論、好きにして構いませんよ。
別の世界の人間らしいので、どんな力を持ってるかと思って一晩観察してみましたが、無能すぎです。
しかもコレをとってこいと命じたのに、拒否しましたし。あれは使えませんね。
迷わずクビ切ったあの人喰い鬼以下――あぁいや、一応、人質にはなったので、多少の役には立ちましたか」
人質?
……人質だと?
ヘルペスの言葉と、これまでの会話を考えて、私はピンときた。
エリー、お前まさか、私を助けに来たのか!?
オーグラーを返せと怒鳴るエリー。
私はてっきり、お前はうそつきの私を怒って家に引っ込んでいるものとばかり思っていた。
けれど、エリーはここに居て、ヘルペス相手に食ってかかっている。
しかも、ヘルペスの言葉からして、エリーは《暖炉の火》を、持ってきたのだ。
持ってきて、ヘルペスに渡したのだ。
なぜ、私なんかを……一体、どうして。
「オーグラーはどこ!」
「地下牢に閉じ込め……ああ、丁度そろそろ火竜に呑まれた頃かと」
ヘルペスがクスクスと笑って、絶句している様子のエリーに続けた。
「彼の檻の真下に、竜の隔離部屋がありまして。
炎の研究に飼いはじめたのですが、あの火竜は暴れる以外に能がないので使えないのなんの!
今日は餌をやってないので不満いっぱいかと思いますが……何しろ彼のいる地下牢の床は脆くて……。
あ、そうか、彼は人質以外にも、餌として役に立ったわけですね!
彼は無能の人喰い鬼より使えたって事ですよ、おめでとうございます!」
パチパチパチ、と1人だけの虚しい拍手が響く。
私は拳を握りしめて鼻息を荒くした。
ええい、なんて野郎だ!
あの地響きはてっきりこのピラニアが暴れまわっていたせいだとばかり思っていたが、どうやら火竜なんて恐ろしげな奴が私の下で暴れていた振動だったようだ。
ピラニア、お前がいなきゃ私は今頃竜の腹の中だったらしい、ありがとう!
感謝をこめてランタンをぎゅっと抱きしめておく。
直接抱きしめる勇気は流石になかった。
ランタンの中でピラニアはあまり嬉しくなさそうな顔に見えたが、元々怒り狂った顔をしているのでもしかしたら喜んでいるのかもしれない。
しかしあの時の荒み具合、おそらくピラニアは地下で火竜と戦ったのだろうな。
何故かは知らんけども。
恐ろしい目に遭ってきたんだな、と同情の眼差しを向けると、ピラニアは屁でもねえさ、というようにケツから水泡を出した。
「おっと、まだ駄目です、君に行かれちゃ困りますよ」
ぎゃっ! とエリーの短い悲鳴が聞こえた。
どうやらヘルペスに捕まえられたらしい。
「万が一この炎で力が不十分だった場合、君のわずかな魔力も頂かなければなりません。
そもそも、胃袋の中から死体回収は無理でしょうから、自然に出てくるまで待っては如何ですか?
焦ることはありませんよ」
「っ! この、うそつき! 返してくれるって、言った癖に!」
「勿論、返そうと思っていました。
ただ、うっかりしていて、彼の牢の下に火竜がいたことを、忘れていただけですよ」
すみませんね? と真摯さゼロの謝罪に、私の腸が煮えくり返るが、私は生きているのでその点は大丈夫だエリー。
大丈夫だから、――――泣くんじゃない。
スンスンと鼻をすすっていた音が、堪えるようなしゃくりあげる声に変わって、私は今すぐこの扉を開け放って《ばあ!》とでもやってやりたくなった。
けれどそんな事をしてみろ!
ヘルペスに捉えられてエリー共々やられてしまう。
どうにかしてヘルペスから暖炉の炎を奪い返し、エリーの手をひっつかんでここから逃げる策を考えねば、と腕を組む。
すると、鼻声のエリーが逞しくも喚き始めた。
「っが、がえせッ! お、おーぐらっ! あ、アタシん、だ! ばか!
この、のうなしっ、試験に、おちたぐぜにっ」
「ッ、ああ全く!
だから子供は嫌いですよ。すぐ泣くし煩いし喧しい! 少し黙っていなさい!」
その途端に、ぴたりとエリーの泣き声が止まる。
何か魔法をかけられたのだろうか。
くそ、エリー大丈夫か。
コッソリ隙間を作れないものかと、じりじり扉を押す。
「……な、なぁ、ちょっと待ってくれよ。先生、ひ、火竜なんて……」
怯えた小さな声に、すっかり忘れていたミコーの存在を思い出した。
暗がりの中で、真っ青を通り越して真っ白な顔になっている。
「ど、どうした、大丈夫か?」
今にも倒れそうな顔を見て、慌てて扉から耳を離して、小さな肩を支える。
何故かその肩は、ブルブルと小刻みに震えていた。
ごくりと唾を飲んだミコーが、うわ言のように呟いた。
「う、嘘だ……だって、そ、そんな、先生に限って……」
「……? 竜が何だ。大丈夫だ、飼育室にぎゅう詰めに色々飼ってたじゃないか。
竜の1頭や2頭、いても変じゃないだろう?」
勝てるかどうかは分からんが、との思いを引っ込めて笑顔を向けた。
しかしミコーは歯をむき出して悪態をつく。
「っあんた、馬鹿かよ!
竜の召喚は王お抱えの魔法使いにしか許されてないんだ! 先生は1度その試験に落ちてる!
なのに、やらかしたら、どんな重罪になるか……!」
どうにもこの世界における物事の順序や決まりが私には分からないのだが、竜の飼育は法律違反らしい。
頭を抱えるミコーを余所に、私は顎に手を当てて、ふむふむとちょっぴり喜んだ。
だって、そいつは良い。
世間にこのことを公表すればアイツは牢屋の中に入ってくれることになるようだ。
やばいやばいと落ち着かないミコーを視界から外して、私は呟く。
「何とかそれを利用してヤツを――」
「ほう、どうします?」
「っ!!」
扉が数センチ開かれていて、その隙間からはちみつ色が弧を描いた。
しまった、ミコーと騒ぎすぎた!
咄嗟にミコーを横へ突き飛ばし、なんとか反撃しようと焦った私だが、焦っただけでなんとかする前にヘルペスの人差し指が軽く振られ、私の横っ面が張り飛ばされた。
強烈な一撃に眼鏡が吹っ飛び、私の体が傾いて片足が浮く。
誰かに平手打ちされた――いいや、誰もいない――じゃあ何が――?
思考する前に、今度は左の腹に関取から張り手を食らう。
馬鹿な、こんな所に関取が居る訳がない。
たたらを踏みながら痛みと苦しさに腹を抑えると、そこはぐっしょりと濡れていた。
息ができない中、一体何だ、と腹に目をやろうとしたら、今度は膝カックン――ただのお茶目な悪戯ではない、膝のお皿をだるま落としのように吹っ飛ばしかねない膝カックンだ。
そのままの勢いで膝をつき、堪えきれずに四つん這いになった私に、トドメとばかりに後頭部に岩が降って――違う、岩じゃない――――。
「っゲホッ! ぐ、ガハッ」
――水だ。
ボタボタと、私の頭から水が垂れる。
頭頂部にかぶせていた筈の頭髪が、だらりと垂れ下がっている。
ヘルペスは水を私にぶつけて攻撃していたらしい。
水がこれほどの威力を持った凶器になるとは初めて知った。
エリー、お前が水を嫌がる気持ちが今なら分かりそうだ……!
「はは、いやぁ、驚きました。どうやって火竜の腹から逃げ出したんですか?」
かつん、かつん、とヘルペスの足を包む皮のブーツが音を立て、私に近づいてくる。
床に無様に倒れる私は、鼻に入り込んだ水を鼻水と共に排出しながらむせるばかりで、碌に返事など出来やしない。
しかし端から返事など期待していないかのように、ヘルペスが笑った。
「ううん、まぁ竜の気持ちになれば、貴方、美味しくなさそうですもんね。
……さぁミコー、そんな所に座り込んでいないで、入りなさい」
「ッ! ……せ、せんせ」
「どうしました? そんなに震えて。この人に何かされましたか?」
大丈夫ですよ、何の魔力も持たない弱い人間です、とヘルペスはミコーに向かって柔らかく微笑んだ。
眼鏡が無いせいでぼんやりとしか分からないのに、なんでその顔が鮮明に想像できるんだか。
腹の痛みのせいで深い呼吸ができず、ハッハッと短く喘ぐ私から少し離れた場所で、ミコーが悲痛に叫んだ。
「先生、い、今、俺を……あ、いや、火竜なんて……! じゅ、重罪ですよ!」
「ええ、勿論知っていますよ。ですが、心配いりません」
さぁ立って、と小さな手を掴んでミコーを立たせたヘルペスが、にっこり笑う。
「私が炎の魔法を使えるようになれば、直ぐにでも王のお抱え魔法使いに昇進です。
竜の飼育時期が、少々前後しただけですよ」
パチンと慣れた風にウィンクを1つ。
星が飛んだ。
また変な魔法を使いおって。
しかし嫌味を言う前に、突如として私を大波が襲った。
咄嗟に息は止められず、ガボガボと水を飲みこんで手足を無茶苦茶に動かす。
辺り一面水――どっちが上だ――息ができない――苦しさに口を開き――鼻に、肺に水が――咳き込んでも水が入ってくる――駄目だ、苦しい――もう空気が――水から抜け出せない――溺れ死「ッオーグラー!!」
切羽詰まった叫び声と共に、周囲が一気に熱くなった。




