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25,夕焼けの記憶を見つめた日




「昨日の夜、少々騒がしかったようですが、眠れましたか?」


朝食を持ってきたヘルペスが、にこやかに言った。


顔を洗い終え、柔らかなタオルで水気を取り去りながら、知っていたのか? と尋ねると、ヘルペスは愉しげにクスクス肩を揺らした。


「窓に守りの呪文を掛けたのは僕ですから」

「そうなのか……凄いな、蛇が出たり蜘蛛の巣が出たりした」

「そりゃ、ええ、魔法ですから」


穏やかに微笑んだヘルペスは、窓に手を翳す。


随分ガラスが薄くなっていた窓がゆらいで、元の厚みを取り戻した。

なんだかとても魔法っぽい。


さあどうぞ、とテーブルに置いたトレイを勧めるヘルペスに、私はおずおずと切り出した。


「その、悪いんだが、この食事……」

「おや、口に合いませんでしたか? 

貴方の世界の一般的な食事を教えて頂ければ、同一とはいきませんが、似たものを作らせますが」


腕のいいシェフがいますよ、とヘルペスが軽く微笑む。

私はそうではなくて、と手を振った。


「美味い食事だ。だからこそ、これをエリーの所に持って行ってやりたいと思ってな。

持ち帰れるように何か容器を貰えないだろうか」

「……なるほど」


少しの間を開けて、ヘルペスが頷いた。


おもむろにポケットから白いチョークを取り出して、テーブルの上に小さな星を描く。

さらにその周りをぐるぐるとミミズ文字で囲んだ。


「丁度いいですから、見ておいてください。

この円と五芒星は魔力の通路で、この部分が契約文書……まぁこの場合はただ単にモノを引っ張ってくるだけなので大した量はありませんし、血液も不要。

中心に対象物を書き、最後に――魔力を注ぐ」


ヘルペスが私の目の前で人差し指を立てる。


形の良い長い指の先で、空気が幽かに揺らいだ。

小さな蜃気楼に驚く私の前で、ヘルペスはその指を魔法陣の中心に押し当てた。


瞬間、魔法陣が青みを帯びた光で輝いた――と思った時には、ツタで編まれたバスケットがそこにいた。


「これをどうぞ、使ってください。中に瓶も入っていますから、スープも入るでしょう」

「……ああ、ありがとう」


成程、こうして私はエリーにこの世界に呼ばれたのか。


初めて見る召喚魔法にフンフンと頷きながら、私はパンをバスケットに突っこみ、木製の深いボウルにサラダを移し替え、水性ランタンに湯気を上げるソーセージを入れ――ヘルペスが嫌そうな顔をしたが、他に入れ物が無い――、ビンの中に玉ねぎのスープらしき物を注ぐ。


きゅっと瓶の蓋を閉める私に、ヘルペスが言った。


「それでは、それを使って彼女をおびき出すなりなんなりして、火の魔力をうまくランタンに詰めて下さい。

もちろん、ソーセージは出して。

それから、魔力は残さずお願いしますね、足りなくては色々無駄になりますし。

あぁ、まず、集合場所を決めましょうか。

ここは私の研究棟ですけど、貴方が知っている場所となると――」

「あぁ、待ってくれ。そのことなんだが……、私はまず、エリーに帰宅を頼んでみることにする」


部屋の中を歩き回りながら色々喋っていたヘルペスの言葉を遮る。


するとヘルペスはぴたりと足を止め、目を見開いて私を見た。


「……なんですって?」


水性ランタンと瓶をバスケットに詰め込みながら、私は答える。


「ほれ、その、エリーの家から彼女の母の魔力を貰うと、つまり、エリーが寒いだろう?」

「寒い? 彼女が? ――だからなんだと言うんです?」


ヘルペスが真顔で私に尋ねた。


私はバスケットを抱え、なんだかうすら寒くなってくる背筋をふるわせて、窺うように答えた。


「何だと言うって……そんな、あの子が凍えてしまったらどうするんだ」

「はあ。彼女が凍死しても、誰も困りませんよ。

悲しんでくれそうな母親は死んでいますし、あのキチガイの魔物も、彼女が勝手に死んだとなれば諦めるでしょう」


貴方は何を言っているんですか、と困惑の表情を浮かべるヘルペス。

困惑したいのはこちらだが、ヘルペスはどうやら本心から言っているらしい。


私は訴えかけるように言った。


「彼女は……エリーは、小さな女の子だ。甘えられる親もいない、庇護してくれる知り合いもいない。

唯一、あのあたたかな暖炉の火が彼女の母の遺志だというのなら、私にそれを奪う事など、とてもできない」


ヘルペスは大げさにため息をついて、まるで小さな子供に教えるように、ゆっくりと言った。


「貴方は異界からやってきた。だから知らないのでしょうね。

―――ですが、良いですか?

彼女が死んで喜ぶものは居こそすれ、生存を望むものなど、何処にも、誰も、1人として、いやしないんです」

「っそんなこと――」

「この国は、火の悪魔を恨んでいる。

悪魔に殺された者たちが多すぎる。

その悪魔の子孫がのうのうと生きていることを、諸手を挙げて歓迎しているものなんて、この国には確実に、いません」


きっぱり言い切るヘルペスの前で、私は言葉を失った。


エリーはそんなに、居てはならない子供なのか? 

生きていてはならない子供なのか? 


そんな、そんな馬鹿な。


……ラーウム、お前もそう思うのか? 

お前も、エリーなんて死んで居なくなってしまえばいいと、怯えながら、思っているのか? 


―――今も、そう思っているのか?


「貴方は目の前で人が炭と化す場面を見たことが無いのです。

所詮、部外者。此処とは異なる世界の人間。

貴方が優しい人であることはよく分かりますが――――」


ヘルペスは私を冷ややかに見つめて吐き捨てた。


「この国の、この世界の事情に首を突っ込まなくて、結構です」

「……っ!」


心臓に、氷の針を刺しこまれた気分だった。


窓からさしこんでくる太陽の光は温かいはずなのに、この部屋の空気のなんと冷たい事だろう。


――いいや、この部屋はエアコン魔法が掛かっているから温かい。

冷たく感じるのは、私が世界に切り取られているせいだ。


私の悲壮な顔を見たからだろうか。

ヘルペスが僅かに表情を和らげて、私の肩を軽く叩いた。


「大丈夫、余計な情など不要ですよ。貴方は、帰る事だけ考えれば、それで良い」


ヘルペスの気遣うような柔らかい声。

しかし私は返事をしなかった。


だって、本当に、そうなのか?



私は帰る事だけを考えて――……考えて、いられるか?



「…………」


ハチミツ色の瞳から目を逸らし、窓の外を見る。

透き通った青い空が、こちらを覗いていた。


そっと目蓋を下ろした。


チカチカと舞う光が徐々に消えて、暗い瞼の裏が静かに私を見つめる。



――帰った先を、考えた。


クソの塊のような上司のいる世界へ帰り、再び社畜生活を送るのは非常に憂鬱だ。


こっちで過ごした日数分、有給扱いにしてくれる会社かどうか……。

これ幸いとクビされていても可笑しくない。


この年で再就職先を探すだなんて……お先真っ暗だ。


それでも。


それでも私は、あの欠点まみれの世界で、淑子と共に暮らした。


おしどり夫婦とはいかなかった。

けれど、グチや罵り合いがあっても、苦労を共に背負い、切なさを温めあい、くだらない小さなことを笑って過ごした日々が、確かにあった。


新婚当初より随分肥えて、笑い声も年を重ねるごとにデカくなって、顔の皺もシミも白髪もだんだん増えていった淑子。


かくいう私は、額の後退がこれでもかというほど進んで、もはや額どころか頭頂部を通り越して後頭部に行きついて、枕から加齢臭を嗅ぎ取るのが日常になって、足の臭さに関しちゃ他の追随を許さない勢いになった。


面倒なしがらみがいっぱいで、キラキラ輝く美しさは見る間に減って、体は老いていった。

子供はいないから、時折感じる寂しさが私達の心を削った。

周囲の心無い言葉に傷ついて、切なさに涙した。


けれど、一緒だった。


一緒に年を重ねて、暑苦しくも寄り添って、しみったれた生活を2人で歩いた。


淑子の下手くそなギャグを笑って、血圧と、コレステロールの値について一緒に額をつき合わせて悩んだ。


ゴミ捨てを忘れた私が尻を蹴られて、病持ちの尻の穴に直撃して悶える私を見て、淑子は悪かったわよと口を尖らせ、その日の楽しみだったオヤツ代をボラギノール代に変えてくれた。


夜中に五月蠅いイビキを止めようと、トドにそっくりな鼻をつまんでやったら蹴り飛ばされてふすまに激突した。


昼のワイドショーに集中しすぎた淑子のせいで私のシャツに焦げ跡が作られたので、鬼の首をとったとばかりに文句を言ったらその日の夕飯が豆腐1丁になったので畳に額をこすりつけてごめんなさい。

ご機嫌は中々直らなかったが、翌日の朝ごはんで豆腐は温かなみそ汁の具になっていた。


そんな、フワフワしたお花の香りから程遠い、随分と醤油臭い生活を続けた世界を、私は日々にため息を零しながらも、心底――愛おしいと、淑子が墓石の下に眠る今も、そう思う。



――では、エリー。


エリーについては、どうなのだろう。



私がエリーと過ごした時間は、とても短い。

淑子と過ごした長い年月に比べると、それこそ猫の額ほどだ。


けれど私はエリーと出会ったし、エリーを知った。


固い木の実の殻をかみ砕く頑丈な歯を持っているが、魚は柔らかく煮たものを好む。

お得意の焼き料理の場合は、炭にまみれた食事になることが多いので、火を良く通したのが好きなのだろう。


料理を残すことは滅多にないし、食べ物は皿まで綺麗になめて、食糧を粗末にすることはないが、塩味より、甘いものをよく選ぶ。

甘味を舌の上で転がしている時は、緑の瞳が幸せそうに輝いて、目じりが緩む。


良く怒るが、嬉しそうに八重歯を見せて笑う顔は、子供らしく可愛いものだ。

寝顔などはまさにそれだろう。

くるりと丸まって何やら幸せそうな顔でプスプスと寝言を呟くことだってある。

勿論、なにか気に食わない夢を見てギリギリ歯ぎしりをすることもあったが、傍から見ている分にはそれも中々の愛嬌だ。


……ああ、歯ぎしりは歯が痒かったからかもしれないな。

もうすぐ左上の奥歯が乳歯から永久歯に生え変わるのだ。


歯磨きは大分上達したが、まだ甘い所があるから大事な永久歯を守るためにしっかり磨けるようにならないといかん。

雑な性格だが、手先は器用だ。

きちんと習慣に出来れば、虫歯なく過ごせるだろう。


習慣と言えば、行き過ぎた水嫌いは良くない。


気を抜くとすぐ泥まみれの垢まみれだ。

最初に体を拭いたときは本気でこんび太郎が作れるかと思ったものだ。


母親譲りなのかなんなのか、エリーは水に関する物全部だめだ。


川の中で魚釣りなんてとんでもないし、バケツに入った魚を捕まえるのだって全力拒否。

顔を洗いもしないので、強制的に濡れタオルでぬぐってようやっと目ヤニがとれる。


水面に石を滑らせる水切りも下手くそだ。

ラーウムと私とエリーでやった時は、1番うまかったのが私だった。


最高記録3回という底辺争いだが、ラーウムは馬鹿力で石をどこかへほん投げるだけで水面を滑らない。

対するエリーは水への憎しみがあってか、石をもれなく川底に投げつけていて跳ねさせる気概が見えてこない。

私はラーウムから水切り王者と賞賛を浴びたが、これでもかという井の中の蛙状態で素直に喜べやしなかった。

疲れた私が木陰で休んでいる時、エリーはずっとちゃぷんちゃぷんと石を川の中に投げ入れてうっぷん晴らしをしてい――――ああ、あれはもしかして、練習していたのだろうか。

負けず嫌いのエリーだ。

きっと努力していたのだろう。


そうだ、あの子はよく努力をする。


私より早起きして、魔法の練習をしていた。

あの小難しいミミズ文字の並ぶ文面をスラスラ読んで、人喰い鬼の項目を暗記する程、分厚い本を読みこんでもいた。


動機が少々恐ろしいが、大人がやるらしい契約魔法を、自分1人でこなしてみせたのだ。


勿論、出てきたのはエリーが望んだ人喰い鬼ではなく、ただの人間のおじさんだった。

クラスの連中を食わせるなんて夢、到底かなえられそうにない。


けれどきっと、人1人を自分の世界に呼び込むくらいの物凄い魔法を使えたのは、あの爆発頭の小さな女の子が、物凄く努力家だったからだ。

1人ぼっちでも、頑張ったからなのだ。


ああ。なのにエリー。

お前は、……お前自身は人に怯えられるような事など、何もしていないのに、恐れられ、暗い森に追いやられ、死を願われている。


1人であのボロ屋に居て、エリー、お前は毎日何を考えていた?


何を思っていた? 

何を望んでいた?


好き勝手して死んだ母を恨んだか? 


一緒に暮らしてくれないルルススに怒ったか? 


1人ぼっちの世界を嘆いたか? 


世界が嫌いか? 

憎らしいか?


学校でひどい虐めをするクラスメイトを、本当に、殺してやりたかったか?


なぁ、エリー。

お前は何故私を呼んだ?


どうして人喰い鬼ではない、ただの人間の使えないおじさんを呼んだんだ?


エリー、お前が呼んだのは、一体誰だ?


人喰い鬼? 

クラスメイトを喰らってくれる、恐ろしいOgerか?


――……いいや、違うだろう。



エリー、お前が必死になって、心の底から呼んだのは――――誰だ?




そっと目を開いて、こちらを警戒した目つきで見るヘルペスに尋ねた。


「エリーが、髪の毛を隠すのは……あの色が、象徴だからか?」


ヘルペスは大きく肩を怒らせて頷いた。


「ええ、勿論! あの色はまさしく火の悪魔を受け継いだ、おぞましい色ですから」


私は抱えていたバスケットを片手にぶら下げて、そうか、とゆっくりと微笑む。


ヘルペスがどこかほっとしたように顔の力を抜いた。


「分かりましたか? さぁ、そろそろ行き――」

「私はな。……あの色を――――とてもきれいだと、思ったよ」

「ッ!」


最初見た時は、随分ひどい爆発天パだと思ったが、それでも、あの川辺で日にあたったお前の赤色は、私にはとてもきれいに見えたぞ。


夕焼けの輝きのようだった。

あの時夕日に飛び込んだときのように、とてもきれいだった。


少し切なく、寂しく、とても優しい色だ。……エリー。


顔を歪めて軽蔑の視線を寄越すヘルペスに、私は小さく微笑んで伝えた。


「私は、エリーが生きていることを、喜ぶ。歓迎する。

あの子が笑顔であれば、嬉しいと思う。もしもあの子が死んだら、泣くだろう」


彼女の母が犯した罪を、この国の連中に忘れ去れとは言わん。

悪魔が生んだ子供を心から愛せとも言わん。


だが、禿げたおじさんが子供の笑顔を望むくらい、随分自分勝手だとは思うが、どうか、目をつむってくれ。


「――帰らないのですか」


かすかな怒りが籠っているが、平坦に押しつぶしたようなヘルペスの声。


私は背を向け、扉へと歩きながら答えた。


「帰るとも。……エリーが怒りながら待っている」


それじゃあ世話になった、と扉の前で頭を下げようとした時、ヘルペスが私に人差し指を向けているのに気が付いた。


見えたのは召喚魔法を使った時と同じ、空気のゆらぎ。

はっと目を見開くと、ヘルペスが呟いた。


「ならば、貴方には別の使い道しかありませんね」


何を言ってる? 

眉をあげて問いかけようとした時、周囲がぐにゃりと歪んだ。


何事だと体を強張らせたが、目の前のヘルペスは冷ややかな顔のまま、私に背を向けて歩き出す。


明るかった部屋がどんどんと暗がりに包まれていく中、闇に溶けていくヘルペスの声が降ってきた。


「あぁまったく、あの喧しい子供と直接関わりたく無かったのですが……」


仕方ありませんねぇ、という声がぼやけて遠ざかっていく。


「おい待て! ヘルペスお前、エリーに何をす――!」


する気だ、と尋ねようとした口で息を飲んだ。

温かなベッドのある部屋が、何故か冷たい牢獄に様変わりしていたからだ。


目の前には頑丈そうな鉄の柵、狭苦しい周囲はコンクリのように塗り固められた岩の壁。

ぴちゃん、と首すじに何か降ってきて、うっひゃあ! と叫び声を上げたが、湿った牢獄の天井から水滴が落ちてきただけだった。


うっひゃあ! っひゃあ! ……っひゃぁ! ……ぁ! と、牢獄の中に声がモワモワと響いている。


目の前の柵を掴んで、顔が出ないか奮闘して無理だと悟った後、顔を押し付けて外を窺ってみるが、同じような牢獄がずらりと廊下を挟んで並んでいるだけだった。

ヘルペスの姿は無い。 


ひんやりした柵から手を離して、茫然と自分の牢を眺める。


がらんとした冷たい空間には、さっきまで持っていたバスケットが寂しげに床に転がって、中のサラダをぶちまけているだけだった。




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