2,変なものに出会う日
ウトウトしたような気もするが、まんじりともしなかったような気もする。目の下にクマが刻まれているのは確かだ。
はぁ、と行場の無いため息を零して、私は呟いた。
「……朝じゃないか」
「当たり前じゃん、夜が去ったら朝が来る。鬼の世界では違うの?」
「いや……同じだとも」
煤けて汚れ、まともに景色の拝めない窓ガラスごしでも、外がほんのり明るくなっているのは分かる。しかし私の胸中は依然として暗い。
昨晩、あの暗い土に囲まれた部屋の中で、エリーがクラスの連中を全員喰えと命令してきたが、夢だと思って適当に頷いた。しかし夢だと思ったら夢じゃなかったという、大変のっぴきならない現状を、私は股間の激烈な痛みと引き換えに知ることに成功する。
故にいきなり共食いを繰り広げなければならない状況に追い込まれるかと思ったが、今学校は春休み中で誰も居ない、だから休み明けに生徒が登校してから食ってやろうと言う結論をエリーが導いてくれたのが不幸中の幸い。
いや、ちっとも幸いではない。ここは何処なんだ。
エリーに尋ねると、長ったらしい横文字でナンタラ国と言われたが、覚えられないし聞き取れないし聞いた覚えもない。地理に滅法弱いという訳でもないのに、まったく知らない地名に私は頭を抱えた。
じゃあ東京や日本はどこだと聞いてみたが、鬼の国の名前? と首を傾げられ、もはや私は頭どころか膝を抱える羽目になった。
ここは地球ですらないのか、あるいは何故かエリーが人間社会と隔絶して1人ぼっちで生活している為世間を知らないかのどちらかか。しかし日本語が通じているのにエリーが抱える本のミミズ字が読めないというのが不可思議だ。
絶望を枕にしてギシギシと軋む木製の床の上で寝たせいか、節々が凝り固まって痛い。私は首をゴキゴキ言わせつつ、エリーにおはようと挨拶する。
ベッドの上で大きく伸びをしていたエリーは、私の挨拶に眠たげだった目をぱちくりさせてから、小さくコクリと頷いた。
「……うん」
「うん? うんじゃないだろう、なんだ、朝の挨拶も出来んのか」
全く近ごろの若者は、とブチブチ呟くと、エリーは慌てて元気よく叫んだ。
「ば、馬鹿にすんな! おはよう!」
「おはよう。……あぁ全く、目が覚めたら元の職場に戻っているかと思ったのに……」
「ッなんだと! 契約者がアタシだと気に食わないってのか!」
勿論私は、エリーの言うよく分からない《契約》なんてもの、なんだか変な日本語だが、気に食うはずがないので気に食わないと言いたかった。
しかし今にも私を食い殺しそうな形相のエリーに、言葉が喉の奥深くに引っ込んでしまったので、曖昧に微笑んでみせる。
「そ、そういう訳ではなくてだな……」
「なんだ、違うの。じゃあ何だよ! 何で戻るだなんて言ったのさ!」
ギャーギャー耳元で喚くエリーを何とか宥めすかして、鼓膜の破壊を防ぎ、私は陰鬱とした気分になった。
この状況からして私は、謎に満ちた人喰い鬼などという恐ろしげな生き物がいる世界に、エリーによって悪魔召喚の如く呼び出されてしまったと考えるのが普通だ。
普通だけれど全然普通じゃない。
一体何をどうしてその辺に沢山いるサラリーマンを――しかも窓際族の干からびたサラリーマンを――世界を越えて呼び出せるっていうんだ?
あまりの突飛な事態に頭が思考を放棄し始めたので、私の視線は目の前で動き回るエリーを自然と追いかけた。
昨晩エリーは粗末な木箱を並べた物の上に布を敷いた、簡易なベッド……と呼んでいいのかどうかも分からない、そんなものの上でボロ布にくるまって寝ていた。床よりマシかもしれないが、すっくと起きてせっせと動き回るその姿に感服する。彼女の頭は昨日見た時以上に爆発していて、天衣無縫の様がいっそ見事だった。
私が最初に立っていたロウソクの灯りしかない土壁の部屋は地下だったらしく、お手製の壊れそうな木製梯子を恐々として上った先には、ちゃんと出入口用の扉がある部屋があった。
それが私とエリーが睡眠をとった場所――エリーの家である、ボロ屋だった。ボロ屋というか、廃屋だ。崩壊しかけたレンガの馬小屋を、無理やり打ち付けた板で補強して人が住めるように何とか整えたような見かけ。まだ温かい季節だから良いものの、隙間風がひゅうひゅう甲高い音を立てて吹きこむし、薄っぺらな板一枚の扉は、お情け程度に錠前が掛かっているが防犯の役にはまるで立ちそうにない。
石を積み上げて作られているちっぽけな暖炉には、何故か中々消えない火がついていたが、煙が天井に向かうばかりで、殆どはけていかない。当然だ、煙突が無いんだから。
天井にかぶせられた木々の隙間から少しずつ煙は逃げていくが、このままではこの家が燻製になる日も遠くない。果たして雨が降ったらどうなるんだろう。雨漏りが凄い事になりそうだ。
何より可笑しいのは、このボロ屋にエリー以外の人間がいない事。
まさかこんな小さな子供が、1人で暮らしているなんて事があるのだろうか。……これが自分の夢だったのなら、もっと豪勢な暮らしをさせてやれたかもしれないが、まったく不自由な現実だ。
暖炉の火に小さなフライパンを乗っけて、エリーは小さな卵を割り入れている。目玉焼きを作る気らしい。
こんな小さな子が、火を使って料理をするのか。
自分に子供が居ないので、このくらいの子供が料理をするのが一般的かどうかなんて分からないが、少なくとも子供が火を使うときは大人が傍に居るべきだというのは常識だろう。
こわばって、ベキバキ嫌な音を立てる体を何とか動かしながら、私はそっと声をかけた。
「大丈夫か、火傷するんじゃないぞ」
「はぁ? アタシが火傷なんてするわけないじゃん」
コンコン、と暖炉に積まれた石に卵をぶつけ、こちらに馬鹿にした目を向けるエリーは、2つ目の卵をフライパンに割り入れた。それは両掌で包めるようなニワトリの卵サイズでは無くて、青い殻の、ウズラの卵くらいのものだ。
「あ、オーグラーは何食べられんの? 悪いけどウチ、今人肉ないし」
「……おじさんは1食抜いても死なないから大丈夫だ」
人間の肉なんか口に入れる気はないし、こんな貧しい家の子供から食料を分けてもらうのもあんまりだ。こんな状況下でも卵の焼ける匂いに空腹は感じたが、仕方ない。
ふうん、と興味なさげに相槌を打ったエリーは、フライパンを火から下げ、ジュウジュウと香ばしい匂いをさせる目玉焼きを、上手にいびつな木製フライ返しで黄ばんだ皿へと移した。
「オーグラーは水は飲むの?」
「ん、……あぁ、そうだな、飲む」
「じゃあ飲んでくれば」
外を少し進めば川がある、とエリーがあごで扉をしゃくった。
確かに喉は乾いていたので、私は頷いて扉の前まで歩く。といっても狭い家なので数歩の距離だ。既に開錠されている南京錠を取り外し、恐る恐るきしむ扉をちょっぴり開け、隙間から外を覗き見た。
目に飛び込んできたのは、深い緑色。
上から下に視線を動かすが、目に入ってくるのは9割緑……――森だ。ここは森のド真ん中だ。
扉をあけ放つと、湿って冷えた空気が肌に届いた。
ジャングルの奥地に生えていそうな、背の高い、様々な種類の木々が此方を冷たく見下ろしている。鬱蒼と生い茂るツタが、そんな木々に絡んで日光を遮っていた。あちらこちらにうねる枝には、コケがみっしり隙間なく生えていて、まるで緑色の毛が生えた大蛇がのたうちまわっているよう。湿った地面には太い木の根が張り出して凸凹しており、白い霧がゆっくりと波打つように動いていた。
オギャア、オギャア、と字面だけ見れば赤ん坊の泣き声だが、絶対そうではない、異様に濁ってかすれた声が、どこからともなく響いてくる。おぞましい何らかの生き物が、木のウロにでもゾワゾワと住んでいそうだった。
霧と共にひんやりとした空気が、足元から這うように背中を上ってくる。まとわりつく冷気を振り払うように、背筋を震わせた。けれど相変わらず冷たい足は幽霊にでも掴まれているかのようだ。
ブンブンと宙を蹴るように足首を動かしたら、転がっていたバケツにつま先が当たって猛烈な痛みに襲われた。ぐおぉ……と、つま先を抱えこむように丸まって痛みをこらえていたら、さっさと目玉焼きを胃に収めたらしいエリーが背後に来て、不思議そうに言った。
「オーグラー、何踊ってんの? 鬼の運動か?」
「……勿論、伝統的なダンスだとも」
意味の無い意地を張って立ち上がり、感じた不気味さに蓋をして歩みを進める。
田舎生まれではあるが、こんなに自然豊かな場所に果たして行った事があっただろうか。
左右に視線を動かせば、低木が密集する暗がりに、生まれてこのかた見た事のない形の、リズムに乗って踊る植物が生えているのが見えた。……風に揺れているんだ、きっと。
ごくりと唾を飲みこんでから、スピードを上げてサクサク歩く。
何かが擦れたような音が聞こえて、ちらっと後ろに視線をやれば、ツタのような黄緑色の草が、まるで人を転ばせようとしているかのように這いまわっていた。馬鹿な…!と息をのむ。
「っいや、まさか、そんな……そうだ、あるわけがない。しっかりするんだ。あー、……オジギソウに似た、ちょっと元気な種類の植物だ、そうに違いない」
細く小さな葉に触れると、その名の通りお辞儀するように枝が垂れ下がる木があった。きっとそれの仲間だ。私めがけて動いているような気がするのはそのまんま、気のせいだ。植物が人間を追いかける訳がない。
イヤな動悸がしてくる心臓を抑えるように、胸にそっと手を当てて歩く。
会社で履いていた黒色の安い革靴が、小さな水たまりに入り込んで泥に汚れた。元々汚いのだから別に良いのだが、ほんの一瞬だけ気を取られた途端――なんとツタが足首に巻き付いてきた。
「ひっ、! うわっ、ッ……は、放せ!」
素早く絡みついてくるツタを払おうと、慌ててボールを蹴るように足を動かすと、ツタはプチンと簡単に千切れたが、反動で自分が尻もちをついた。急いで尻を引きずってドタバタ後退し、必死にツタから距離をとる。
千切れた葉っぱがヒラヒラと舞う中、湿った地面のお陰で尻がひんやり濡れてくるが、目の前の恐ろしさに比べたら何の事はない。
私はのけぞるような恰好で脂汗を流し、奥歯をカタカタ言わせながらツタの動向を探った。私の目の前で、今にも噛み付こうと鎌首をもたげる蛇のように、ツタはゆらゆら動いている。
どういう事だ……なんで、ツタが、人間に、絡みつくんだ!
信じ難い光景に眩暈を覚えるが、こんな所でフラフラしたらツタに巻き付かれて首を絞め上げられて一巻の終わりだ。
こちらの隙を狙っている様子なので、意を決した私は歯をむき出し、鼻の穴を膨らませ、威嚇の心を盛大に込めて思いっきり叫ぶ。
「っだあーー!!」
するとツタは怯えたようにビクッと揺れ、さっとUターンして行った。
だぁ……だぁ……ぁ……と、こだまが森のざわめきの奥に吸収されていく。荒く呼吸をしながら、私は呟いた。
「か、勝ったぞ……」
全く勝利に酔いしれる事の適わない勝利だ。油断はならない。
緊張したまま、視線をそーっと動かして周囲を見回す。注意深く耳もそばだててみたが、木々が風に擦れる音しかしない。
他に襲ってくる植物はいなそうだった。
顔を通常に戻し、ビクビクしながら膝を抑えて立ち上がる。
湿った私の臀部はいい大人がおもらししたような有様に見えるだろう。尻の泥をぺんぺん叩いて落とし、私は垂れてきた鼻を啜った。
……真剣に帰りたい。
訳が分からないぞ。
一体何なんだ此処は。
私はどうしてこんな所に来てしまったんだ。
もう水なんかいらないから戻ろう、と後ろを振り返ったら、ボロ家の前にいるエリーが変な生き物を見るような顔をして、こっちを窺っていた。
「…………」
かすかに残るプライドを鎧のように纏い、手を軽く打ち合わせて泥を落とし、短い草が生えている獣道を大股で進む。
木々に隠れてエリーが見えなくなったので、ほぅっと息を吐き、遠慮なくビクビクしながら歩いた。
警戒して足元ばかりを見ていたら、いきなり顔面にクモの巣がひっついた。ぶあっ! と間抜けな声をだし、ベトッとした粘着性があるも、ふんわっと纏わりつく感覚を慌てて手で取っ払う。しかしやけに粘着力が強いらしく、白い糸は私の顔と髪の毛にべっとり張りついて中々取れない。
ええい何なんだ、と1本掴んだ糸を思いっきり引っ張ったら、私の髪の毛まで一緒に引っ張られてプッツンと抜けた。
「っああ!!」
私の手には、白いクモの糸と、それにべっとり絡み取られた私の大事な黒い一筋。私の頭に残留することを選んでくれた1本1本を私が丹精込めて大事にケアし、ここまでに育て上げた。
それなのに、それなのに……!
襲い来る悲しみにそれをジッと眺めていたら、めらめらと怒りがわいてきた。
畜生っ、クモめ! 許さん、末代まで祟ってやるぞ……!
キッと目つきを鋭くして、本体のクモは何処にいるのかと見回し――――30センチ程離れた右横の木々の中に、黒い球体が密集しているのに気づく。私の拳程ありそうな球体が大小4つ、モジャモジャした茶色の毛玉の中に埋まっている。
何だこれは、とあっけにとられて眺め、それぞれの黒い球体の中に私の顔が映りこんでいるのを見つめ、数秒後に気づいた。
クモの目だ――。
ひくりと頬を引き攣らせ、思わず1歩下がったら、そのクモの全貌が拝めた。
デカい。
どのくらいデカいかというと、人間を食べそうな程、デカい。
なにしろ、地面を這うようにしているこのクモの顔が、私の顔と同じ高さにあるのだ。蛇に睨まれた蛙の如く、動けない。動いたら目にもとまらぬ速さで大量の糸を吐かれ、グルグル巻きにされ、1滴も残さず体液を吸い尽くされる気がする。
怒りにまみれて真っ赤だったはずの私の顔が、さーっと青くゾンビのようになったのを自覚した。ごくりと唾を飲んで、上から下まで視線だけを動かして相手を観察する。
全体的に茶色いそいつは毛むくじゃら。
巨大なレンコンのように節のある足が、むっちりした毛まみれの胴体からにょっきり生えている。黒い艶やかな眼球は、小さいのが両端に2つ、真ん中に大きなのが2つ横に並んでおり、パッと見れば大きな鼻の穴のサイドに小さな目がくっついている、愛嬌のある顔に見えなくもない。
勿論、こんなにデカくなければの話だ。
コイツの腹に、私が収まらなければの話だ。
……もういやだ、何なんだ此処は。
家に帰りたい。
この際あの理不尽な仕事まみれの会社でもいい。
今なら上司のたゆたうメタボ腹に抱き着いて、ほおずりだって喜んで出来る。
帰りたい……! 帰してくれ!
こんな気味の悪い所、いくら積まれたっていたくない!
心細さと恐ろしさと脳みその許容量を越える数々の事態に、巨大クモの目の前でわんわん泣きだしたくなったが、必死に小鼻に力を入れて色々堪える。
だってこのままじゃ私は食われる。
訳の分からない世界に無理やり連れて来られて、見ず知らずの子供に無理難題を吹っかけられ、ツタに殺されそうになって、尻はジメジメ、髪の毛まで引っこ抜かれ、挙句の果てにクモにむしゃぶりつくされそうな状況に遭遇。
最悪が群れを成して私に迫ってきているのだ。
一体私の何がいけなかったのか。毎日辛くても仕事をこなしていたじゃないか。
私が欲しかったのはあの世からのお迎えであって異世界からのお迎えじゃないし、そもそも疲れ切った私の思考内容をそのまま受け取られたって困る。
ふざけるな、何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ……!
喚き散らしたいがクモの注意を引きたくないので必死にこらえ、垂れる鼻水をそのままにして歯を食いしばり、顎に梅干し模様を作った。
目の前のクモは動かない。じんわり涙目の中年男が、果たして美味しいかどうかを見極めているのかもしれない。
……それなら大丈夫だ。
私は筋張っているし、柔らかい肉も付いていない。唯一腹部にビールによる脂肪層はあるが、メタボの元だ、やめておいた方が良いに決まってる。
……そうだ、よく見ろ、これ以上不味そうな獲物もいないだろう?
じっと巨大グモの瞳に――4つの内どれを見て良いか分からなかったので、とりあえず中心辺りを眺め――私は食うに値しないと訴えかける。
私は不味い、美味しくない、腹を下すぞ。
……じりじりとした緊張の糸の張る空気がゆうに5分ほど続いただろうか。
何と、巨大グモがゆっくりとうずくまった。モジャモジャの手足を器用に折り畳み、団子のように丸まったのだ。これは獲物に飛びかかる前の姿勢なのか、それとも別の獲物がかかるまでの待機の姿勢なのか分からない。
けれど何となく、毛むくじゃらの体からは力が抜けているような気がした。
ソロソロと、相手を刺激しないように気を付けながら、1歩後ろへ下がる。
相手は――動かない。
4つの目玉が私を見つめているだけ。どうやら此方を観察している模様だ。
さらに1歩下がって距離を取り、私は念のために忠告した。
「わ、私はとてつもなく美味くないぞ。口に入れたらその瞬間から胃もたれする事請け合いだ」
うん、と頷いてから、此方を恨みがましく見ているような気がするクモにサッと背を向けて、競歩のスピードで歩く。
ざざざざざ! と追いかけてくる音でもしたらどうしようと、一瞬後方に視線を向けたが、クモはその場に蹲ったままだった。ほっとして歩調を緩める。
……助かった。
私が元気いっぱいの若者だったら飛び掛かられていたかもしれない。おじさんで良かった。
強張っていた顔を少し緩めながら、私はかたく握りしめていたクモの糸と髪の毛を、ズボンの腰ポケットに突っ込んだ。ちなみに、顔と髪の毛に相変わらず張りついているクモの巣は気にはなったものの、完全なる禿げに移行したくはないので、放置を決める。
そこから、頭上より垂れ下がる第2のクモの巣やツタの下を潜り抜け、てんでバラバラの向きに生えているキノコ群――地面をえぐりながら育っている奴までいる――を飛び越え、掴まったら飛んで行けそうな巨大ワタ毛たんぽぽを迂回し、数十歩進んだところで、水がサラサラと流れる心地の良い音が聞こえてきた。
曲がりくねって足場の悪い獣道を、息を弾ませてえっちらおっちら進めば、木々の間から明るくて綺麗な小川が顔を出した。
透き通った水が、コケの生えた岩の間を滑らかに流れていく。
木々の緑が映り込み、穏やかに揺れる水面の向こうには、コロコロした小さな石が沈んでいた。上流には岩で出来た小さな段差に可愛らしい滝が出来、綿と見間違えそうなふんわりした白い筋が見える。川幅は場所によって差があるが、狭い所はジャンプしたら飛び越えられそうだ。流石に川の真上には木は生えておらず、朝日が差し込んでキラキラと水面と岩肌を輝かせていた。
「おお……」
運動し慣れない私の肺はぜえぜえと荒い呼吸音を響かせていたが、都会では中々見ることの適わない清流に身体は軽くなる。
そっと川岸に屈んで手を伸ばし、水に触れる。運動して火照った体に心地よい冷たさが、指の間をサラサラすり抜けていった。
ふっと一息ついてから両手を川に突っこみ、ジャブジャブと泥で汚れていた手を洗った。
ついでにこの顔にへばりついたクモの糸が落ちないものかと、眼鏡を外した顔も洗うが、頑として取れない。なんだかいつまでも囚われた獲物の気分だ。
気分を変えるように掬った水を一口飲む。水道水より遥かに美味い、なんだかほんの少し甘いような感じもした。全身に染みわたって行くような不思議な感覚に、緊張していた身体から力が抜ける。ごくりごくりと喉を潤し、乾きは癒えたがそれでももう一口、と口に含んで舌の上で転がすように美味しさを堪能する。
変なものに絡まれたり変なヤツに食われそうになったりしたが、これで少しは――――
「わ、カッパ!」
「っ!?」
突如後ろから声をかけられ、飲みかけていた水が食道ではなく気管に入り込む。
苦しさに咳き込んだら、原因のそいつはしまったぞと、私の背を慌てて擦ろうとしたらしい。
しかし力加減を盛大に謝ったそいつは、私の背中を物凄い勢いで引っぱたいた。
結果、水きりに失敗した小石のように、私は顔面から川に突っこんだ。