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10,声が返ってきた日




魚を食べ終え、ヒビの入ったコップの水を飲んで一息つく。

エリーは満腹の様子で目元をとろんとさせ、今にも眠ってしまいそうだった。


しかしそうはいかない。


空気が冷えてきたので、私はボロ布を肩に引っかけて立ち上がり、エリーの肩をゆする。


「さて、エリー。日常生活習慣として、私達がすべきことがまだあるんだが、分かるか?」

「……え? うん、寝る」

「違う。歯を磨き、風呂――はないから、せめて体を拭き、トイレを済ませて寝る、だ」


エリーはひどく面倒臭そうな顔をした。

その気持ちは分かるが、私は小さい頃にしっかり歯磨き習慣を身に着けておかなかったせいで虫歯だらけだ。

奥歯なんて四方もれなくギンギラギンだぞ。

けれどお前はまだ間に合うんだ、エリー。


私は人間を食べる前に帰郷するが、この子にはいない親が教える筈だった事を可能な限り教えてやった方が良いだろう。

幸いにもエリーは注意したり意見したりする程度で人を爆破させることはなさそうなのだ。

……沸点は謎だが。


ルルススがエリーを死なないようにしていた、というのはどうやら本当にそれだけらしく。

エリーには文化的な人間の生活習慣があまり身についていない。

人とコミュニケーションをとる、読み書きする、服を着る、食糧を獲り、食べて眠る、それをルルススが教えたのだろうが、きっとそれだけだ。


さぁ、と私はルルススの家にあった小さな馬毛ブラシをエリーに押し付ける。

歯ブラシが無かったのだ、仕方ない。

虫歯になるよりマシだろう。


しかしエリーはその馬毛ブラシを勢いよくほん投げた。

私の眉間にこつんと直撃したが、エリーはまるで反省した様子は見せずにベッドに飛び乗った。


「アタシの歯は強いし、アタシはそんなに汚れてないし、トイレは明日の朝まで大丈夫だもん!」


私はブラシを拾い上げ、しつこくエリーの手に握らせ、コップを押し付けた。


「お前の歯の間には魚が挟まっているし、お前の体は泥まみれだし、夢の中でトイレして現実的にはおねしょなんて有様は嫌だろうが」

「うるさい! 大丈夫だ!」

「だいじょばない。虫歯は痛いぞ。美味しいものを食えなくなるぞ」


私の言葉に、え? と目を見開いたエリーは、舌を歯に滑らせているらしく、モゴモゴ口を動かしながら、小さな声で反論した。


「……う、うそだ」

「嘘じゃない。お前が美味いと思ったものは、虫歯菌も美味いと感じる。口の中では今まさに連中が歯をボロボロにしてやろうと、宝の山だと歓びの咆哮をあげながら槍をふるっている」


三つ又の尖った槍を奥歯に突き刺して喜んでいるぞ、とエリーを脅かした。


エリーは顔をちょっと青くすると、馬毛ブラシとコップを握って――――恐ろしげに頷いた。




「そうだ、1本1本、丁寧にだ。繰り返して――……強くこすったからって、駄目だ、それじゃ綺麗にならない」

「……ふぁう?」


目線でこれでどうかと尋ねてくるエリーに、私は頷いた。


「中々良い線いってるな」


綺麗に洗った馬毛ブラシを口に突っこみ、しっちゃかめっちゃかに動かすエリー。

全然なっていない。

だが、最初にいきなり叱りつけたところ、エリーは一気に不機嫌になってまた馬毛ブラシをほん投げた。

必死に宥め、おだて、持ち上げ、どうにか再度ブラシを握らせることに成功したので、今度は適度に褒める事にしたのだ。


しっかり乗せられたエリーは気分良さげにブラシを動かしている。

私は額の汗をぬぐってホッと息をつき、エリーにうまいうまいその調子だと感想を言いながら、自分の口にもブラシを突っ込んだ。


しかしこの様子からして、エリーは人生初の歯磨きなんだろう。

歯並びに少々問題はあるが、虫歯が見当たらないのは、これまでの人間離れした野生的な食事のお陰かもしれない。


自分の歯磨きも終えて――少々デカい馬毛ブラシしかなかったので、かなりやりにくいが何とかこなした――私はエリーの口を覗き込む。


「どれ、仕上げだけ任せろ」

「ふぇい」


素直にヨダレまみれの馬毛ブラシを私に渡して、エリーは口をあーんと大きく開けた。

磨き残しを確認し、チョチョッとブラシを動かせば、エリーの小さな舌がくすぐったそうにひょろひょろ動く。

邪魔なので突っついて避けながら仕上げをしていたら、くすぐったさに堪えきれなかったらしいエリーがブフッと吹いた。


……私の顔面はエリーのヨダレにまみれた。


エリーは目を泳がせた後に笑った。


「……へへ」

「へへじゃない」


何故私の顔面はこうも沢山何かしらで汚れるのだろう。

私の顔を見て、半笑いのエリーが文句を言った。


「だってくすぐったい!」

「なら、吹き出す前に手を挙げて合図しろ」


まるで歯医者に来た患者のように。

痛みがあったら教えて下さいねー、ではなく、エリーは《くすぐったいですー》の合図として片手を挙げるようになった。


歯磨きを終え――私の場合は顔面の清掃も終え――汚れた体の清拭を開始。

雨が降ったおかげで、外に置いてあった水瓶に水が溜まっていたのを使い、私はエリーの体をボロ布で拭いた。


エリーはここでも擽ったがって暴れたので、私の顔にパンチを入れたり腹に蹴りを入れたり喧しい。


「エリー! お前は――綺麗に――なる気が――あるのか!」


ぶひゃひゃひゃ! と笑い声をあげながら、すっぽんぽんで家の中を駆け回るエリーを、ヒィヒィ息を荒げながら追いかけまわす私。

人間に会いたいと思ってはいたのだが、頼むから今だけは誰もこの家に入ってこないでくれと切に願った。

私が変態の烙印を押される道以外に選択肢が見当たらないのだ。


何とかエリーの腹を抱えこみ、肋骨の浮いた脇腹をこすれば、エリーはギャーギャーと目に涙を溜めながら爆笑し、背広にくるんだ人面魚のように暴れまわった。


「……早急に、……風呂を……作るぞ」


汗だくになりながらも、何とかエリーを綺麗にし終えた私はこっそり心に決める。


エリーの事もあるが、日本人である私は、毎日体を拭くだけでは気持ちが悪い。

そもそもこの森に居る以上、体は会社でデスクワークに励んでいた時より遥かに汚れるのだ。

風呂は必須だ。

髪の手入れだってしたい。

作り方なんかまるで分からないが、何とかする。


疲れ切った体を引きずって、エリーと野外トイレに行く。

トイレというトイレはなく、ただ土を掘っただけの穴だが。


「アタシもそれやりたい」

「…………大きくなったらな」

「ん!」


立ちションが出来る日が来るとは思えないので、子供に無駄に夢を持たせてしまったと私はちょっぴり後悔したものの、女の子への説明の仕方なんか分からない。

淑子、助けてくれ。


《――やぁね、男ってのは馬鹿で!》


頭の中に、淑子の楽しげな笑い声が響いた。



あれこれ口を出され、慣れない行動を強制させられたエリーは、先ほどより一層眠たそうな顔になり、ほぼ目を閉じた危うい状態で、フラフラしながらベッドに転がり込んだ。

それを見届けてから、私はテーブル上に灯っていたロウソクの火を吹き消し、ボロ布を引っ被る。


「エリー、おやすみ」


暗闇の中で目を閉じると、エリーの方からふにゃふにゃという謎の言語と一緒に、……うん? という相槌のような寝言のような声が聞こえてきた。


私はごろんと小さく丸まるように寝返りを打ちながら、うん? じゃないぞまったく、とブチブチ文句を言う。


「近頃の若者は、就寝の挨拶も碌に出来んのか」

「ヴぁかに……すんなよ……」


ふぁ、と大きく息を吸い込む音がする。

つられて私も大きく欠伸をした。


とろりとした眠気に包み込まれながら、果たして何故あくびは連鎖するのかと、ぼんやりと沈み込む頭で考える。


「――ほぁすみ……」


返ってきた。

舌ったらずなその言葉がすとんと、腹の底に落ちた。

不思議と、胸にじわりと広がった安堵感は、私を夢の中へと誘う。


…何故――……まぁ……――いいか…、と私は思考を放棄して、最後の体の力を抜いた。





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