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1、契約の始まりの日



私は、好きで禿げたわけじゃない。


耳の後ろから後頭部にかけての、なんとか幽かに残る髪の毛を頭の上にかぶせる努力は、やりたくてやっている訳じゃあない。

バーコードなどと呼ばれる髪の隙間から頭皮がテカテカと輝くのも、別に目立ちたいから輝かせている訳ではないのだ。


女性社員が私の座るデスクの後ろを通り過ぎるたびに、クスリと笑っている気がする。

キモイよねー、と遠くでコソコソ会話をしている気もする。


被害妄想かもしれないが、私と話をする社員皆が1度は私の頭に視線をくれるのだから、そんな考えに囚われるのも無理はないと思うのだ。


何故日本の醤油顔男性陣は、ハゲるとこうも価値が下がるのだろうか。


《――外国の男の人は禿げてもカッコイイわね、羨ましいわぁ!》


せんべいを齧りながらTVを見つつ、妻は頬を染めて楽しそうにしていた。

カッコ良くなくて悪かったな。そんなカッコ良くないのと結婚したお前は一体何なんだ。


けれど、そんな文句を言えるはずの妻は3年前に他界した。

お喋り好きで、体のあちこちにまんべんなく脂肪分を蓄えて、かんらかんらと大きな声で笑う、私より遥かに長生きしそうだった淑子よしこは、頭の血管が詰まってぽっくり逝った。

娘も息子も出来なかった私に残ったのは、家のローンと疎遠な両親ぐらい。


碌なものが残っていないというのに、残されたものの1つである私の髪の毛はどんどん消えていくのだから、悲しいの一言だ。

カツラを被るのも今更だろう。

明日いきなり黒髪が増量したら不自然過ぎる。

益々笑われる事になるに違いない。


「キミ! さっさと動かないと間に合わないだろう! 次だ次、スピードを上げたまえ!」

「もっ申し訳ありませんっ、すぐに取り掛かります!」


さっきから私を怒鳴り散らしていた恰幅の良いメタボ上司から唾が飛んできて、私の分厚い黒ぶちメガネに、汚い小さな丸を作った。

ようやっと悲壮な方向へ意識を飛ばす時間が終了の模様だ。


大相撲の行方とか読んでいた本の続きとか、そんな多少なりとも関心のある事を考え始めると、私の顔は緩むらしい。

叱られている時の顔ではなくなってしまうので、あえて己の頭皮に関する己を苛む事象について考える。私の顔は悲しみに染まり、上司は満足、私は実の無い文句を右から左に流すことが出来る。


ただ、己へのダメージが割と大きいのが難点だ。


しかし今回は長かった。

情けなく縮こまらせていた肩と、ぺこぺこ曲げ伸ばししていた腰が重怠い。


毎日続く益体無いルーチンワークにため息をつきながら、隅っこにある狭くて煩雑としたデスクに戻ると、向かいに猫背で座っている年中眠そうな顔の茶髪部下が声をかけてきた。


大倉おおぐらさぁん、なんかめっちゃ怒ってるオッサンから電話来ましたけど……」

「? オッサ……誰だ?」

「いや、知らねーっす」


電話を受けたら相手の名前を確認しろ、と何度口を酸っぱくして教えたか分からないのに、まるで実行しようとしない間抜けな部下に苛々。

私の心中が察せられる訳もなく、そっちに回しますんで、と眠そうな声と共に、デスクの隅で私と同様働きっぱなしの電話が鳴った。


1日の仕事量は半端無い。

反りの合わない若い部下と始終顔をつき合わせ、喚くことしか知らない上司の尻ぬぐいに奔走し、己の仕事がはかどらない事に焦り、クレームに頭を下げ続け、深夜まで残業代のつかない仕事をこなし。

けれど文句を言えばこんな未来の見えない中年、いつリストラされるか分からない。

だからやられるがまま、怒鳴られるがまま、理不尽な思いを溜め続ける。

ストレスが毎日飽和しているのが当たり前になった。


何で私は毎日毎日、飽きずにこんな事をやっているんだろう。

何の為に、私はこんなに一生懸命になっているんだろう。

誰の為に、私は――。


電話越しのクレームに90度で頭を下げながら謝罪し、延々と文句を聞き、キリキリ胃を痛ませながら何とか面倒な上に繋げるのを阻止したところで、また茶髪部下がゆるゆると言った。


「大倉さぁん、なんか今度、うるさいオバサンから電話来ましたけど……」


淑子か、と口から飛び出そうになって、誰だ、と尋ねた。知らねーっすけど、といつも通りに返ってきた。そしてまた怒鳴られる。

胃にぽっかり大穴が開くのはもはや時間の問題だ。


定時を3時間ほど過ぎて、お偉い連中や子供のいる女衆など、その辺りから順に一応人が減る。

節電節電言っていても、流石に暗闇での仕事は無理なので、古びた卓上スタンドの、切れかけた蛍光灯の黄ばんだ明かりをつけた。

慣れないながらもパソコンに齧りついて始末書を作る。

チカチカする画面とキーボードを交互に見ながら字を打ち込み、時折押した覚えのないキーの文字の出現に舌打ちし、いきなりローマ字変換され始める文体に歯ぎしり。


両手の人差し指を迷わせながら目的のキーを探し「ごめんなさいもうしません」をひたすら長ったらしいそれらしい文面にして綴っていく。


ファックス送信ミスがウンタラカンタラ。

自分はファックスなど送った覚えはないのだが、誤送信先からの電話を受けたのが自分だったという運の悪さ、そしてファックスを送った奴が早々に帰宅していたこと。

更に、君はインシデントアクシデントを良くおこすから慣れているだろう? と、酷いイメージと共に否応なく始末書作りを押し付けた上司がいたことが原因だ。


大きな腹をたゆたわせ、それじゃあ僕は接待だからお先にと私にでかいケツを向けた上司。

ピンクの飲み屋に向かうその背を見送りつつ、人間を馬鹿にするオランウータンのように、白目をむいて歯茎を見せびらかすという中々の顔芸を披露してやれたのが、せめてもの救いだ。


冷めてしまった不味いコーヒーを胃に流し込んで、襲い来る眠気を必死に追い返す。


始末書は何とかなりそうだが、問題はそのせいで遅れた自分の仕事の方だ。

一体何時に帰宅できるのかという問いへ、脳みそが絶望の答えを導き出す前に頭をブンブン振って、悲しい現実を吹っ飛ばす。

同時に頭頂部からひらりと一筋の髪の毛が垂れてきたので、慌てて持ち上げて撫でつけた。


危ない、私の頭皮の現実まで、これ以上吹っ飛ばしてはならない。


良い感じに髪の毛が定位置に戻ったところで、ホッと息を吐く。

再度パソコンに向き直った私だが、くらりと眩暈を感じたので眼鏡をはずし、目頭を揉んだ。

このパソコンというのは肩が凝って仕方ない上に、目がしょぼしょぼ乾く。


《――アンタ、ちょっと、暇ならあたしの肩でも揉んで頂戴よ。》


仕事から帰ってきた私に笑顔で肩もみを要求してきた淑子を思い出しつつ、首を左右に動かして、僅かなりとも筋肉をほぐそうと努力する。

こわばった手で鉄板のように固まった肩を揉めば、多少楽になったような気がした。


眼鏡をかけ直し、何となく片手を伸ばして傍のブラインドを少し動かす。

隙間からそっと窓の外を伺い見れば、とっくに日は沈んでおり、都会らしい薄汚い光の群れがひしめいていた。

芽吹きのあたたかい季節の筈だが、私に春の匂いは届かない。


グカッ! という鼻が詰まったようなイビキに、ブラインドを閉じて向かいの部下に視線をやった。

テーブルに突っ伏してヨダレの海を作っている茶髪部下。

コイツも大変だ。

いつ首をちょん切られるか分からない上司の元で、こんな遅くまで残業――堂々と寝ているが――やる気を起こせという方が難しい。


少し寒そうに背を丸めて縮こまる部下を見て、何か掛けてやろうかと周囲を見るが布団などない。あるのは己のくたびれたスーツ位だが、しなびたおじさんの背広なんか掛けられたって嬉しくないだろう。

自然とため息が零れた。


《――いやあねアンタ! また幸せが逃げるわよ! あたしの幸せまで持っていかないで頂戴!》


淑子はよく私を叱咤した。

考えてみればあいつがため息をつく事は少なかったな――いつも豪快に笑って、女は愛嬌なのよ! と偉そうに宣言していた。


だが、もう逃がす幸せも無いだろうと、ぼんやり思う。


おかえりの声の無い家に帰るようになって、私はただいまと言えなくなった。

だって、行ってきますと言ったって、飲んで帰ってくんじゃないよ! と私の尻を引っぱたいて送り出してくれる相手がいない。


鼻には線香のしとやかな匂いばかりが染み込んでいく。

代わりに、たまねぎを炒める手間を省いた、余り物ごった煮手抜きカレーの匂いも、ジャガイモがぐずぐずに煮崩れた異様にしょっぱかった煮物の匂いも、いつの間にか記憶の中から薄らいでいった。


いやだ臭いわ、と私のシャツを嗅いで鼻をつまみ、洗濯機に放り込んでくれる声もなければ、私のぬぎたて靴下を、腕を伸ばし指先で摘まんで、くさいくさいと笑いながら私の顔面に押し付ける愉快な奴もいない。


この仕事が終わって帰宅したところで、私をお疲れ様と迎えてくれる人はいない。


晩酌の準備を整えて、今日のご近所さんニュースを嬉々として報告してくれる淑子は、もう、いない。



軋む背もたれに寄りかかって上を向き、そっと目を閉じたら、じわりとした眠気が襲ってきた。


「――――……」


ああ、……疲れたな。


1人でいるのにも、疲れたな。


1人で働くのも、1人で眠るのも、1人で食事をとるのも、疲れた。



 ――……とても、寂しい。



もう早い所、お迎えに来てもらえないだろうか。


けれど一足先に行っている淑子は、あの世で軽快に笑って遊んでいそうで、私の迎えの事などけろりと忘れていそうな気もする。

私が老け込んだ白髪まみれのジーさんになって――そもそも髪が残っているかどうか怪しいけれど――ひょっこりそっちへ行った時に、《あらアンタ、久しぶりねぇ! あぁ皆、コレあたしの旦那》――なぁんて言って、私の文句なんか聞かずに友達連中と楽しそうに笑っていそうだ。


ふっと口元が緩んで、ついでに少しばかり涙腺も緩んで、ウトウト保っていた意識も緩んで。


少しだけ、と私は睡魔に身を任せ――――……いや、駄目だ。

此処で寝たら絶対起きられない。


目を開けろ、もう少し頑張れ、せめて書きかけの始末書だけでもやってから休憩を取るんだ。

そうしたらコーヒーを熱いのに淹れ直して、休憩室にある女衆の菓子をちょっと頂いて、それからタオルケットくらい持ってきて部下にかけてやろう。

電話番も碌に出来ない部下だが、楽しくも無い会社に皆勤で来ているよく分からない頑張り屋なのだ、風邪はひきたくないだろう。


ほら起きろと自分を鼓舞し、呻き声を上げつつ、まるで縫い付けられたように重い瞼を必死に持ち上げ……――――カッと目を剥いた。


馬鹿な、と瞬きを数回。


……視界が、揺らめく赤色の炎で満ちている。


「か、火事!?」


息を飲み、椅子に寄りかかっていたままの体を慌てて起こす。

さっきまで頑なに引っ付いていたまぶたが嘘のようだ。


立ち上がろうとして足下が真っ赤な事に気づき、ひぇっ! という情けない悲鳴と共に慌てて足をひっこめた。

回転椅子の上に縮こまって、背もたれを掴んで震えあがり、燃えないように体を小さくする。


しかし消火器を取りに行かなければ――いやこんな火が回っている状況で何が出来るものか――そもそも一体なんでこんな――そうだ消防車と救急車を呼ん――っ部下は!


ハッとして前を見るが、眼前は一面の赤が広がるばかり。

目の前にあった筈のデスクすら見えない。


まさかもう火の手にやられてしまったのか!?


さぁっと血の気が引いた時、私の目の端に変なものが映った。


「な、なんだこれは……!」


真っ赤な炎の中に、毛を生やしたローマ字が浮かんでいる。

いや、違う。

ローマ字だったら読める筈だ。1文字も読めん。


それはまるでミミズが各々好きなポーズをして、横一列に並んでいるような、珍妙な模様だ。

炎の中で燃える事無く綺麗に踊っている。どうやら天球儀の周囲にある輪っかのように、私を中心にくるくる回っているようだ。


どんどんとスピードを上げて回転するその模様を追いかけようと首を動かした途端に、ピキッと首すじが嫌な音を立て――困ったことに最近多い――痛みにバランスを崩した私は椅子から転げ落ちた。


顔面から床に激突した無様な体勢のまま、首すじを抑えた私は慌てて椅子にしがみ付く。


「っも、燃える! 誰か水を……っ!」


さっきまで早く迎えを寄越してくれなどと思っていたくせに、いざ死ぬとなれば怖い。

もがく私を見る淑子がアラアラとお気楽に苦笑しそうだが、仕方ない。


だって炎にまかれて死ぬなんて、苦しいし熱いし、怖いに決まっ――――……?


「……あ、れ」


あることに気づき、私は口を半開きにした。


……可笑しい。


「熱く……ないぞ」


そう、ちっとも熱くない。


真っ赤な床に激突し、今もその床に接触しているはずの私に、炎は襲って来ない。

こんな轟々と燃え盛る火の中に居る筈なのに、どういうことだ。


うろたえながら考え――……これはもしかして、火ではないのか。


恐る恐る、指先で目の前の赤色をつついてみる。

やはり熱くない。

火傷どころか、ふわりとした温かさがあるのみだ。


引っ込めた指先をこすり合わせながら、私は首を傾げる。

これは、命を奪おうと恐ろしく燃え盛る火事ではない。ならば何だとよくよく眼前の赤色に目を凝らして、私は目を見開いた。


「――光?」


私の萎びた灰色のスーツとテカテカ頭を照らすその赤色は、炎のように揺らめいているが燃えてはおらず、ただ……眩しい。

それに落ち着いてみるとなんだか――切ないような、寂しいような、そんな奇妙な気分をそっと引き連れてくる。

私は目を細めて眩しい赤色を眺め、その正体に思い至った。


「ああ、……――夕焼けだ」


自分には太陽に突っ込んだ記憶なんてないけれども。

例えば夕日に飛び込んだとしたら、こんな光景が見られるんじゃなかろうか。


火事より随分と非現実的なそれに、とうとう疲れすぎて私の頭が幻覚を見始めたのかと、口をぽけーっとあけて眼前を眺める。

あるいは起きようと頑張ったあれは勘違いで、結局私は疲れに負けて眠ってしまって、こんな訳の分からない夢に突入したのかもしれない。

どうせならもっと楽しい夢が見たいものだと思うが、……まぁ、夕焼けに包まれる夢なんていうのも、それほど悪くはない。


熱くないし、周囲でゆらゆら輝く赤色はほんのり柔らかいぬくもりがあって、何より綺麗だ。

寂しい気持ちは、きっと1日の終わりのシンボルだからだろう。

私の場合は仕事終わりでもなんでもないが、少なくとも夕焼けを見て、さぁ今日1日頑張るぞ、というような昼夜逆転生活は送っていないのだ。


痛みの治まった首と、掴んでいた椅子から手を離して立ち上がり、360度一面の赤色の中にボケッとしていたら、右側の鼻の穴から鼻水が垂れた。


スン、と啜り上げるが垂れてくるのが止まらない。

仕方なしに手の甲で拭ったら、それは赤かった。

夕焼けに染まったのではない。


……鼻血だ。


さっき床に激突したときに顔面をモロにぶつけたな、そういえば。


夢の中で何で鼻血を出さなきゃならんのだと不満に思いつつ、零れ行く血液を見てポケットにハンカチかちり紙が無いかと探る。


しかし鼻血が床にポタンと落ちたその瞬間、周囲の赤色がぱっと消え去った。


「あ?」


ポケットに手を突っ込んだまま、私は固まった。

まるでさっきの光景が嘘のように、辺りは薄暗い――――いや、ぽつぽつと明るいな。

私の小さなデスクの光ではない。

なんだあれは、と目を凝らす。


ゆらゆらする――――ロウソクの火?


ぼんやりと浮かぶのは、白いロウソクに灯った小さなオレンジ色の光が、てんてんと並んでいる光景。

数回瞬きをしたら、徐々に目が暗さに順応してくる。


ロウソクは床に直におかれ、軽く溶けてひしゃげたそれを繋ぐよう白のチョークで星形に線が引かれ、怪しげなミミズ文字が星を囲むようにぐるりと並んでいる。


悪魔召喚の儀式でも開いていたようだ。

ここは変な宗教団体の基地か何かなのだろうか……気味が悪い。


しかし、それにしては随分と金回りの悪そうな部屋だ。

壁も床も土がむき出しで、まるでショベルカーが準備運動に適当に地面を掘り返したらこんな部屋が出来ました、と言われても納得するような空間。

供物とか生贄とか、歓迎の印らしい飾りも無い。


お偉い悪魔を呼ぶには些かお粗末な舞台だが……しかしその呼ばれた悪魔が現れるであろう位置に、自分がいるのが大変笑えない。


……ゆ、夢だからな、これは夢だから致し方ない。


うん、と頷いて己を納得させれば、脳みそのお花畑具合に呆れざるを得なくなったが、それよりどんどん垂れて唇にかかってきた鼻血に、慌ててポケット探りを再開。


すると尻のポケットから駅前で配られていたちり紙を発見できたので1枚取り出した。

ねじってこよりを作って鼻に詰め込――――


「やったぁ!!」

「っ!?」


突如後方から叫ばれて驚いた結果、こよりを自分の意思より随分深く突っ込んでしまった。

予想外の進攻に鼻の奥にツンとしたダメージを喰らう。


一体誰だと振り返れば、そこには子供がいた。


ロウソクのわずかな明かりしかない薄暗い部屋の中に、ブカブカした黒色の服を着て、血走った緑色の瞳を輝かせる、小学生――学年は真ん中くらいの背丈をした、ちっちゃい子供だ。


「成功だ! やった! 出来た! 出来たんだ……! これで連中に復讐してやれる……!!」


1人で興奮しながら言葉をまくし立てる子供が、その場でぴょんぴょん跳ね飛んだ。

お陰で被っていた黒いフードが揺れて背中に落ち、隠れていたショートヘアが顕になる。


それはさっき見た夕焼けと同じ赤色だったが、随分傷んでいるようで、チリチリのボサボサにはじけ飛んでいた。

櫛を通したら歯が負けて折れそうだ。

酷い天然パーマだと思うが、目や髪の色を考えると、この子は多分外国の子供だ。

だとすると天然パーマではなく、巻き毛というべきか。


「目にもの見せてやる! アタシを馬鹿にしたやつら全員、むしゃむしゃ食わせてやる!」


外国の子供だが、英語ではなく物騒な日本語を流暢に喋っている。

最初は短い髪のせいで男の子かと思ったが、一人称がアタシだった事からしてこの子は女の子か。


やぼったい一重のまぶたから覗く緑色をギラギラ輝かせ、ぺちゃっとした団子っ鼻を興奮にピクピク動かし、八重歯の覗く口元を愉悦に歪ませている。


頬のそばかすは可愛らしいが、少々不細工な女の子は、私にちっちゃな切り傷付きの人差し指をビシッと向け、胸を張って言った。


「よしオーグラー! 今すぐクラスの連中を全員たべて来い!」

「…………」


予想外の命令に私は固まった。

さっきから恐ろしげなことばかり口にしていたとは思ったが、とんでもない事を私にやらせようとしているらしい。


しかし名前が微妙に違う。

突っ込みすぎたこよりの位置を調整しながら、私は訂正した。


「おじさんは、オーグラーじゃなくて、大倉だ」

「はあ? だからオーグラーだろ」

「いや、オーグラだ、オーグラーじゃなくて」


私の言葉に、女の子は不機嫌そうに毛虫みたいな眉毛をぎゅっと寄せる。


「アタシは人喰い鬼(Oger)をちゃんと召喚した! アンタは血の契約に応えた! 口ごたえするな!」

「……分かった、オーグラーで良い」


外国の子供相手にそこまで発音に真剣になる必要もないだろう。

その前に、夢の中で子供と言い争う必要もない。

そろそろ醒めてくれても良いものを、と思いながら私は尋ねた。


「夕焼け色のお嬢ちゃんは? なんて名前だ?」

「フン! 今まさに言った癖に!」


不機嫌そうな女の子は、大変嫌そうに口をへの字にして答えた。


「アタシは、ルボルカエリーウェスペルティーヌス!」


……なんだって?


「ボ……エリー? ――ぬす?」


駄目だ、長すぎて覚えられない以前に聞き取れん。


拾えた音をモゴモゴと口の中で転がしたら、女の子は嫌そうな顔から怒りの表情に変化した。


「っふざけているのか! アタシを舐めるな!」


今にも噛み付いてきそうな顔の女の子――何とかエリーちゃんに、私は慌てて両手を振った。


「い、いや、違う。おじさんは横文字の発音が苦手なんだ」

「……ふん、鬼は頭が悪いんだな」


何だかとんでもない名詞が出てきた気がするが、ファンタジーなのだ、うん、問題ない。

しかしそろそろ目覚めないと、朝になってしまいそうだ。

夢の中で夢と自覚したときは、一体どうやったら起きられただろうか。


確か頬を引っ張るんだったか、と小さく唸りながら思い出していると、何とかエリーちゃんは土の床に置いてあった本を拾い上げて、ペラペラとめくった。


「けど、変なの。人喰い鬼の姿はもっと恐ろしいって、書いてあったのに」

「……そうなのか」


人間の私をどうやら人喰い鬼だと思っているらしい彼女は、軽く口を尖らせて古びたハードカバー本の真ん中あたりを眺めている。


どれどれと一緒になって覗き込んでみると、その本には口裂け女ならぬ、口裂け男みたいなイラストがおどろおどろしくモノクロで描いてあった。

なるほど人間を食べやすそうである。


「オーグラー、お前、そんな小さな口で、どうやって人間食べんの?」


パチパチと緑色が瞬く。

純粋な子供の疑問に何と答えたものかと言葉に詰まった。


人間の食べ方という凄惨すぎる質問であるので、果てしなく無意味な葛藤である気はしつつも、私は頭を振り絞ってスマートな回答を考えた。


「……お、美味しく調理して、その、一口サイズにしてから食べる」


凄惨性を増した答えになってしまった事に、心の中で頭を抱えた。

女の子は想像通り、気持ち悪そうな顔をして、ベッと小さな舌を出した。


「うえっ、さいあく」

「あー……キミ……なんとかエリーちゃんだって、サイコロステーキくらい、食べるだろう?」

「何だよ、さい……ろこ? すてーきって? 鬼の食べもん?」


不思議そうに、ちょっと興味深そうに尋ねる何とかエリーちゃん。

思ったより貧乏な家の子だったらしい。


すまない、この何とかエリーちゃんの親御さん、さいろこすてーきって何? と子供に聞かれて財布を覗く日が近いかもしれない。


夢の中でも謝罪か、とウンザリしつつ、ステーキなど大したものではないという風を装って、私は適当に頷いた。


「まぁそうだ。鬼の食べ物だな、うん」

「へえ」


適当な相槌が返ってきた。

本を閉じて小脇に抱える何とかエリーちゃんは、私を見上げて確認するように言った。


「料理するのは良いけど、オーグラー、ちゃんと全員食べろよ?」


じろっと胡散臭げな瞳を向けられる。

私はごくりと唾を飲みこんで、口の端を引き攣らせた。


「……ええと、何とかエリーちゃ――」

「もうエリーで良い」


呆れ顔で言われ、私は頷いた。


「あぁ、うん、エリー。その……なんでクラスメイトを食べさせようとするんだ?」


私の質問に、ぴくっと片眉を動かして、エリーは唇を引き結んだ。

わなわなとふるえる身体には、はちきれんばかりの怒りがギュウギュウに詰まっているのが手に取るようにわかる。 


そうしてエリーは、決まってる、と歯ぎしりしながら答えた。


「アイツらはアタシを、役立たずでブスで人殺しだって、馬鹿にするんだ!」

「そりゃ……あー、随分ひどい友達――」

「友達なんかじゃない! 適当な事を言うな!」


私の声を遮って、エリーが憤怒の表情で叫ぶ。

怒気が空気を伝わってきそうだ。

相当なる恨みつらみが籠っているらしい。


だが夢の中の女の子の交友関係など、気にかけてやる余裕はない。

早い所目を覚まして自分の仕事を終えなければ、と私は自分の右頬を引っ張った。


……少し痛い。


目の前のエリーは消えない――要するに、目はさめない。


痛みが軽すぎるのだろうか。


けれど千切る程に引っ張れる勇気は無いので、みみっちく地味な痛みを与え続けていたら、エリーが首を傾げて私を見上げた。


「……何してんだ? ……鬼流のごめんなさいか?」


珍獣の行動を見つめるような瞳を見返して、私は少々考えてから頷いた。


「……そんな所だ。すまなかったな、よし、全力で私を蹴り飛ばして構わないぞ」

「ええ? そんなん痛いじゃん」


女の子に蹴られて目が覚めるならそれもアリだ。

自分で自分を思いっきり傷つけるなんて、小心者には難しい。


たじろぐエリーに、私は胸を張った。


「世の中のおじさんというのは、社会の荒波に揉まれた猛者だ。勿論、心はナイーブだから言葉には気を付ける必要がある。だが君のようなやせっぽちの子供に蹴られたところで、ハエが止まった程度にしか感じない」

「アタシはハエじゃない!」

「なら、やってみるといい」


ムッとした様子のエリーに向け、さぁ来いと両手を広げた。

エリーはよっしゃやってやる、と鼻の穴を膨らませ、数歩下がって助走をつける準備を整えた。


見る限り彼女はガリガリで肉の無い少女なので、大したダメージは受けなさそうだ。

弁慶の泣き所を蹴られたら丁度いい塩梅かもしれない。

彼女の足が当たる位置は丁度スネになるだろうと、腕を広げたまま余裕を見せて立つ。


すぅっと息を吸い込んだエリーが、でやーっという子供らしい掛け声と共に、私めがけて床を蹴った。



――それからわずか数秒の間に、事件は起きた。


私の足ばかり見ていたエリーは己の足元に気を払わなかったらしい。


あっと思った時には床に立てられていたロウソクに躓き――反動で脇に持っていた分厚い本がすっ飛び――エリーは床に顔面を打ち付け――本は勢いをつけて直線を進み――私の股間に角が激突。


予想外の衝撃と痛みに息が止まった。

心臓も多分、一瞬止まった。


そのまま床に倒れて無言で背中を丸めるように縮まって、歯を食いしばって悶える。


「~~~っ!」

「いったたた……あ、アタシの本!」


無言で苦しむおじさんより、床にべしゃりと落ちた本を心配して駆け寄り、拾い上げたエリー。

しかし文句を言える余裕も、立場もない。


無様に床で死に掛ける私に、鼻に泥をつけたエリーは得意げに言った。


「……ハエじゃなかったでしょ?」


頷くだけで精一杯だった。


何てことだと、私は涙目で縮まりながら絶望する。


こんな激痛、現実で味わった事だってそうそうない。

唯一、酔っぱらって財布を無くして帰宅した私に淑子がくれた一撃には及ばないが――――目が覚めない。


つまりここは、夢ではないらしい。



なら一体、何処だっていうんだ?




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