曖昧な空模様
シノノメさんは、最近猫見かけました?
窓から差し込む少し秋が混ざった光に照らされた観葉植物が、自分の影を作っている。店内にはコーヒーの淹れる匂いと煙草の匂いがする。
大通りから離れたこの喫茶店に、僕は三週間前からよく通うようになった。
「見たよ。白と黒のコ」
シノノメさんは、僕よりも前からこの店の常連のようで、マスターともよく話しているのを見かける。
彼女は僕の通う大学の先輩で、コーヒーが嫌いだということしか知らない。顔見知りと友達の中間くらいの仲だ。
今年の春から入学した大学は、私立だがそれなりに名も知れている。昨年卒業した兄と違って文系の僕は、周りの友達が行くからと言う理由で経済学部を受験した。
「君は見た? 猫」
いえ、僕は最近あまり見かけません。あ、白と黒のあの猫は近所の商店街に棲みついているらしいですね。古本屋の店主が教えてくれました。
「そうみたいね。」
季節の変わり目に空を見上げると、あいまいな表情を返してくる。夏の匂いが残る今日、また夕立に打たれないように傘を持ってこようとしたのだがやめた。
なぜなら雨宿りは楽しいし、雨のおかげでシノノメさんにもこの店にも出逢えたと、思い返したのだ。それにもうすぐ夏も終わる。
中学、高校と僕には友達が出来なかった。今、回りにいる友達は全員小学生からの付き合いだ。
別に暗いとか、極度に人付き合いが苦手だと言うわけではないのだが、友達は出来なかった。別に寂しいとかそういう訳ではないのだが、常に一人というのはめんどくさい。修学旅行の班はハブられるし、ペアを組めと言われればいつもトリオになった。
昔の偉人は「友のいない人生は、砂漠に一人で置き去りにされるようなものだ。」といったらしい。そんなことを中学の学年主任から教わった。
もう秋ですね。窓の外を眺めるシノノメさんに向かって発した言葉はまっすぐにぶつかった。
「少年は、当たり前のことをいうのね。」
まあ、そうですよね。季節は廻りますからね。でも今年の夏は今年きりなのですよ。来年くる夏は、知り合いのようでそうじゃない。毎年他人の全然知らない夏と出会って、友達になりかけたところで秋が来てしまう。そう思いませんか?
「私には、わからないわ。少年の言いたいことはわかるけど。」
僕の前にコーヒーが置かれた。
「学生さん、珈琲にも旬があることをご存知ですか?」
え、知らなかったです。いつなのですかそれは?マスターは僕のことを学生さんと呼ぶ。
「例えばこのグァテマラ産の豆の旬は、葉月からちょうど今くらいまでなのですよ。だから、この珈琲は夏の香りがするのですよ。少なくとも私はそう思います。」
なるほど、コーヒーは夏の香りか。シノノメさんも神妙な顔で僕のアイスコーヒーをのぞき込んでいる。
マスターの外見は五十代前半といったかんじで白髪交じりの髪の毛は丁寧に整えられ、シャツには皺ひとつない、そんなところからマスターの几帳面さが見て取れる。
「ごゆっくり。」
すごいですね。コーヒーに旬があるなんて知らなかったですよ。そう言われれば、南国の風が吹き抜ける気がしますよ。
「君は単純なのね。それでも私は珈琲を飲む気はしないわ。」
そういってシノノメさんは革のカバンから単行本を取り出すと、栞のところから読み始めた。商店街の古本屋のカバーがかかっていて、なんていう題名がついているのか判らない。「しおり」で思い出したが古本屋の店主の娘さんの名前は栞ちゃんだった気がする。
古本屋の山岡さんは娘さんを溺愛していて、暇つぶしに立ち寄るといつも、バレエ教室に通う栞ちゃんの話をしてくれる。最近、発表会があったらしい。そこで栞ちゃんは特別賞を貰ったと言って、山岡さんは大きな腹を揺すって嬉しそうに教えてくれた。
この商店街の中央には、この通りのシンボル的な公園がある。正確な名前は知らないけれど、小学生くらいの子が「どんぐり公園」と言っていた。たぶん、あそこでどんぐりがとれるからだろう。なんて安直なのだろう。