11-54 深淵
―1―
ガラスの壁を隔て、その向こう側に、葉月せらが黒い球体に手を置き立っている。俺の仕事先の小生意気な後輩――いつものように口元を皮肉気に歪め、立っている。
「目覚めてしまった……」
醜く爛れたフミチョーフ・コンスタンタンが、その溶け爛れた顔に絶望を乗せ、呟く。
葉月せらが笑う。口元を歪め、楽しそうに笑う。ガラスの壁を隔てているはずなのに、その笑い声がこちらまで響く。
「はははは、何? 何? もしかして、私を抑え込んでいた――封印でもしていたつもりだったの? おかしい、おかしいよね!」
葉月せらの周囲のガラスの壁が、一瞬にして黒い液体へと姿を変え、消える。
「ただ、利用価値があるから、話を合わせていただけなのにね! ただ、お前のやり方を学んでいただけなのにね!」
葉月せらは、黒い球体から手を離し、ゆっくりとフミチョーフ・コンスタンタンの元へと歩く。そして、その這いつくばった老人の前にかがみ込む。
「あ、あ……、な、何故……」
葉月せらが老人へと手を伸ばす。
「はいはい、もういいよ。もう飽きたからおしまい」
葉月せらがフミチョーフ・コンスタンタンの額に手を置く。その瞬間、フミチョーフ・コンスタンタンは黒い液体と化した。
フミチョーフ・コンスタンタンが消え、広がった黒い液体だけが、その場に残る。お、おい、な、何をしたんだ!?
そして、葉月せらがゆっくりと立ち上がり、俺たちの方を見る。
「ねぇ、あなたたちは誰なの? 困るんだよね、ここを破壊とかされたらさー」
俺たちは、動くことが出来ない。まるで蛇ににらまれたカエルのように、動くことが出来なかった。
「なんだか、おかしな格好をした集団だよね。最近はそういう格好が流行っているの?」
葉月せらは、こちらを馬鹿にしたように笑っている。
「お、おい」
俺は身動きの取れない、麻痺でもしているかのような体に力を入れ、何とか口を開く。
「お、おい。葉月――せら、だよな? 俺の言葉が聞こえるか?」
そこで、やっと俺のことに気付いたのか、葉月せらが俺の方を見る。
「うるさいなぁ、誰?」
「俺だ。葉月だよな?」
俺は体に力を入れ、もう一度話しかける。と、そこで、葉月せらは、表情を変える。凄く楽しいものを見つけたかのようにニヤニヤと笑う。
「あれ? あれ? あれれ? もしかして、先輩? なんだか、おかしい格好になっているけど、もしかして先輩? 楽しいねぇー」
「そうだよ、俺だ。何で、お前がここにいるんだよ!」
葉月せらが口元に指を当てる。
「こちらの方が聞きたいよ。何で先輩ごときがこんな場所に……てっきり、あっさり、モブみたいに死んだかと、あー、再生したのかな?」
葉月せらは独り言のように呟く。
「あー、しょぼい先輩の顔でも、見知った顔だっていうのは嬉しいですね」
葉月せらが俺の方へと歩いてくる。
「元気でした? 童貞先輩! あー、もう魔法使いになられたんですよね! おめでとうございます。土下座してお願いすれば、お相手してあげても良かったのに、残念ですぅー」
葉月せらは、顔を歪め、楽しそうに俺の顔を下からのぞき込む。
「お前が、何で、ここに居るんだ?」
「童貞先輩は、さっきから、そればかりですねー」
「お、おい、だ、誰が、ど、ど、童貞だ! それに女性が、そんな言葉を口にするなよ」
葉月せらは、こちらを馬鹿にしたようなため息を吐く。
「だから、先輩は童貞なんですよ」
「う、うるせぇよ!」
「それに、何でした? 相手は初めてじゃないと嫌――だったかな? それ、ただ、自分に自信が無いから、笑われたくないからですよねー」
葉月せらは笑っている。
「うるせぇよ! 今は俺のことじゃない、お前のことだ。何で、お前が、そこに居る!」
葉月せらは、俺をのそき込んでいた顔を上げ、こちらを見る。
「モブの癖に先輩面するなってのー。私がここにいる理由? 私が、この世界の神になったからに決まってるじゃないですかー」
「はぁ? お前は気が狂ったのか? 新世界の神にでもなるとか言い出しているのか? 漫画の読み過ぎじゃないか?」
「ははは、ぷぷ、先輩は、発想が、本当に、本当にモブですよね。私は! この世界の神になる――じゃないんですよ。神に『なった』んですよ」
「その神様が、何でここにいるんだよ!」
「本当に分かってないんですねー。まぁ、これも、世界の主人公たる私と、何故、ここにいるのか分からないモブの違いだよね」
「さっきから、人のことを、モブ、モブって。ここはお前が大好きなゲームの世界でも、物語でもないんだぞ」
「いいえ、違いますよ。ここはね、先輩の言うとおりの、私が主人公の、私の世界ですよ」
葉月の言葉とともに、その周囲に黒い液体が生まれる。そして、そのまま黒い液体は、周囲を飲み込むように、何故か身動きの取れない、そんな俺たちを拘束するかのように広がる。
黒い液体が、俺たちの足元から、俺たちを飲み込むように這い上がってくる。
「答えろ! お前が元凶なのか? この世界がおかしくなったのは、お前がッ!」
「元凶? まるで私が悪いみたいに……」
葉月が顔を歪める。
「私は、私が、好きなように!」
黒い液体は、俺たちを飲み込んでいく。巴を、優を、ゆらとを、無形を、円緋を、ユエインを、二夜子を、リッチを――皆を飲み込んでいく。
「これは、お前がやっているんだよな? お前の仕業なんだよな?」
「さっきから、何なんですかー? モブって意味が分かりますかー? 背景のくせにうるさいですよー」
「この黒い液体を止めろ」
「嫌ですぅ。モブはモブらしく、綺麗に作り替えてあげますよー」
葉月は楽しそうに笑っている。それはひどく邪悪で、ひどく滑稽なものに見えた。
「そうか、分かった」
「何が分かったんですかー?」
葉月は、こちらを馬鹿にしたように笑っている。俺は真紅妃を握った手に力を入れる。よし、動くな。気合いを入れれば動く。皆は身動きが取れなくなっているようだが、俺は――俺は、まだ動くことが出来る。
仕事先の後輩だったから、見知った顔だったから、だから、俺は躊躇してしまっていた。
でも、この状況。
俺の仲間たちが――ここまで一緒に来た仲間たちが、こんな状況で、この状況を引き起こした元凶が目の前に居て、そして、相手は、こちらを殺すつもりで……。
俺も覚悟を決める必要がある。
「葉月、何がお前を、そうさせているのか、俺には分からない」
「先輩、何を格好つけているんですか? 動けないでしょ? 身動きが出来ない状態にさー、拘束しているのに、何を格好つけているんですかー?」
こいつは油断している。何か不思議な力で、俺たちの身動きが取れないようにしたらしい。
でもなぁ。
それ、俺には――完全には効いてないんだよ。
「葉月、恨むなら、俺を恨め」
「だから、さっきから、何を格好つけて……」
俺は動く。真紅妃を持ち、動く。
突然、動くはずのない俺が動いたことに、葉月が驚きの表情を見せる。そして、その表情のまま、固まる。
その体を、
その胸を、
俺は――真紅妃で貫いた。