4.蜜吸い
◇
野生花の少年が幻だったのか否か。
その答えはその日のうちに分かった。彼が再び現れたからだ。他ならぬ月の城の庭にて、彼はしゃがみ込んでいた。
あたしがそれを三階辺りから見かけたのは、夜になったばかりの時だった。
彼は座り込んで部屋を眺めている。その部屋が何処なのか、すぐにあたしは思い出した。気付けばあたしは歩きだしていた。
心の中に生まれたこの感情は何だろう。
野生花の少年が見つめていたのは温室。
華に与えられ、今も華が寝ているはずの部屋だ。その硝子張りの壁のカーテンが閉められているかどうかは、さっきは確認できなかった。
でもなんとなくあたしは、カーテンは閉まっていない気がした。
あの少年があたしの名前を知っているのは何故だろう。
廊下を歩きながら、いつもなら怖いはずの暗闇を歩きながら、あたしは真っ直ぐ一階へ続く階段へと向かった。
あの少年が月の城までの道を頭に入れていたのはどうしてだろう。
階段を降り切って、長い廊下を見つめた。
その突き当たりに華の寝泊まりする温室がある。音を立てずに廊下の絨毯の上を歩きながら、あたしは真っ直ぐ温室を目指した。
あの少年があたしをつけていたのはどうしてだろう。
月の庭には様々な来訪者がいるものだ。その多くは気にとめる程のものではない。けれど、あの少年だけは気に留めずにはいられなかった。
助けてくれたからだろうか。
いや、違う。
助けてくれたのは確かに有難かった。彼の案内がなければ、あたしはきっと捕まっていただろう。蟷螂にもその自信があったはずだ。
――絶対に捕まえてやる。
その声が今も頭に甦ってくる。
どうしてあの女はあたしの名前を知っていたのだろう。
野生花の少年があたしの名を知っていた理由はたった今なんとなく分かったけれど、そちらは全く分からない。
考えているうちに、温室へと辿り着いた。
「華?」
扉の前から声をかけると中で微かに動く気配がした。
やはり起きているらしい。
扉を開けようとすると、内鍵がかかっていた。
いつもなら、内鍵をかけるような事はしない。毎朝、あたしが来ることを知っているから、鍵はかけずにいてくれるのだ。
じゃあ、何でかけているのだろう。
それを考えると不思議と笑みがこぼれそうになった。
けれど、その笑みは押し殺して、あたしは冷静に中へと声をかけた。
「ここを開けてくれる?」
その乞いに華が答えてくれるのには、少しだけ時間がかかった。
◇
朝焼けの美しさを見つめながら、あたしは華を抱きしめていた。
彼女は昨夜から一睡もしていなかったらしい。
不安にさせてしまったのだろうか。
蜜をそっと吸うと、彼女の瞼は段々と閉じていく。眠る事を許せば、安心してその目は閉じられた。時間を置かずに彼女は寝息を漏らす。
こうしてじっくりと見つめてみると、やはり華は美しい花だった。
華の身体をそっと抱きしめながら、あたしは昨日の事を思い出していた。
昨夜、華が内鍵を開けてくれた頃には、もう野生花の少年はいなかった。けれど、いたのは確かだ。あたしは目撃していたし、華は嘘を吐くのが苦手らしい。
決まりの悪い様子はどうしてだろう。
怒られるとでも思ったのだろうか。
眠る華から蜜を貰いながら、あたしはぼんやりと考えていた。
眠る前に華は教えてくれた。野生花の少年とはやはり会話をしていたらしい。花同士だけが通じ合える方法で、彼らは話をしていた。
野生花の少年が言っていたのはあたしの事らしい。
どの程度言ったのかは分からないけれど、蟷螂の事までは知らないだろう。
ただ、気になることがあった。
あたしを見ていたのが野生花の少年だけではないということだ。何を言おうとしていたのだろうか。あたしが気付いたのは野生花の気配だけだ。あの時は、蜜の香りしかついて来ていなかった。
あたしは華を抱きしめながら、ぼんやりと考えた。
蟷螂の事だろうか。あの女はもしかしてずっと襲う機会を窺っていたとか。いや、違う。もしそうならば、もっと早く襲う機会はあった。
雌花と戯れている時に襲う方が捕まえる確率が高い。
でも、蟷螂はその時には姿を現さなかった。
「――じゃあ、誰だろう」
あたしはふと温室の硝子張りの壁から森を眺めた。ここからは塀が邪魔で見えないけれど、その塀の向こうには確かに森が広がっている。
今日も森へ行くのかどうか、華は聞いてきた。
もしかしたら月も聞いて来るかも知れない。
昨夜は月とまともに会話が出来なかった。寝る時も、ただ黙って月に縋りついている事しか出来なかった。
そうしていないと、蟷螂に追われていた時の事を思い出してしまってとても怖かった。
それでも、あたしは森を見つめずにはいられない。
行けば、何かを思い出せそうな気がする。蟷螂はまだ諦めていないかもしれないけれど、あまり遠出をしなければきっと大丈夫だ。
自分に言い聞かせて、あたしは勇気を持った。
それに、野生花の蜜も吸わなくては。
そっと華を床に寝かせた。すっかり眠ってしまっている。
その頬をそっと撫でてみたけれど、全く反応がなかった。これ以上蜜を吸うのは止めておいた方がいい。相手の反応が見えない状態での蜜吸いは危険だ。限度を測るには相手の反応が一番分かりやすいからだ。
下手をすれば枯らしてしまうかもしれない。
そうしない為にも、やはりあたしは森に行かねばならない。
蜜はまだ足りないのだ。
◇
昼過ぎの正面玄関にて、あたしは立ち尽くしていた。
いつもなら、何も考えずに進むことが出来る正門までも道。開けっぱなしの門の向こうに広がる森の姿が目に映った途端、あたしの歩みは止められてしまったのだ。
昨日、ちょうど庭と森との境の辺りで、蟷螂の女は暴言を吐いた。
捕まっていたらどうなっていたかなんて考えたくもない。
彼女がどうしてあたしの事を知っていたのかなんて、命の危険を冒してまで知る価値のあるものだとは到底思えない。
知りたい事は別にある。
昨日、野生花の少年とは別にあたしを見つめていたのは誰なのだろう。
その答えは森の何処かにある。知りたければ、やはりあたしは森に行くしかない。
そよ風が音を立てて流れると、数枚の葉っぱが飛んでいくのが見えた。
色鮮やかな土と葉っぱは、本当に絵画のように美しくて、いかにも人間が好みそうな姿をしている。
その色を成り立たせるために、一日にたくさんの命がやり取りされている。
運が良い者は吸収する者とあり、運が悪い者は吸収される者となる。
――絶対に吸収される者となってはいけない。
あたしが勇気を出して足を踏み出そうとした時、背後に人の気配が加わった。女中、使用人、そんな気配ではない事が不思議と伝わってきた。
振り返ればそこには、月がいた。
「蝶……」
その声にはいつもの空虚さがない。
「今日も行くつもりか……」
あたしはその目から思わず視線を逸らしてしまった。
深みのある色の目は、いつもとは違って感情を隠し切れていない。本当は行って欲しくないという気持ちが、この時になって初めてあたしにも伝わってきた。
いつもはただ隠しているだけ。
薄々分かっていたはずなのに、あたしはやっぱり心が痛んだ。
「野生花を捕まえなくちゃ」
目を逸らしたままあたしは言った。
もう一度、視線を戻してみると、月の表情はあまり変わっていなかった。
動くわけでもない彼女の長い髪を、何処からか入りこむ風がさらりと撫でていく。それにも構わずに、月はただあたしを見つめていた。
「蜜ならばこちらでも用意できる。少しは私に甘えてくれ」
「……いいえ、自分で捕まえたいの」
あたしは答え返した。
「それに、記憶を取り戻したい」
「必要ない」
月は短く言った。
「命を賭ける必要はない」
「それは、あたしが決める」
あたしは必死に月に訴えた。
こんな事は初めてだった。でも、いつか来るとは思っていた。月はあたしが森に行くのを止めようとしている。いつだって静かにあたしの話を聞いていた彼女。けれど、今日ばかりは止めようとする。
何故か。蟷螂に追いかけられている所を見たせいなのだろうか。
「やめておきなさい」
月は言った。
命令するような口調。けれど、決して乱暴なわけではない。
「今日のお前は冷静じゃない」
月は真っ直ぐあたしを見つめた。
冷静じゃない。
どうしてそんな事を言うのか、まだ、あたしにはよく分からない。彼女が何をもってあたしを止めようとしているのか、さっぱりだった。
冷静じゃないのは、月の方じゃないのか。そうとさえ思った。けれど――。
「華から――」
月は言った。
「彼女から今朝、どれだけ蜜を吸った?」
問われた意味が分からず、あたしの時間が一瞬だけぴたりと止まる。
ゆっくりと月の言葉が解けていき、あたしは段々とその言葉の示唆する意味を導きだすことが出来た。
「どれだけって――」
華はどうしているだろう。
今朝の彼女は寝不足で蜜吸いの途中で寝てしまった。吸い過ぎないように気を付けながら、蜜吸いを続行したのは覚えている。
吸い過ぎているわけがない。
吸い過ぎているわけがない。
だって、あんなに気をつけていたのだもの。
「華が眠っているのは寝不足なんかじゃない」
けれど月は告げた。
事実をありのままに告げた。
「蜜を吸われ過ぎて気を失っている」
――蜜を吸い過ぎた。
そんな馬鹿な。
その事実に直面した瞬間、あたしは逃げ出したくなった。けれど、あたしが動く前に月は素早く近づいてきた。
「いや……」
手を掴まれて、あたしは身体を震わせた。
月の目を見ることが出来ない。月がどんな表情を宿していようが、あたしの意識が彼女と向きあうのを拒んでいた。
「――お前のせいじゃない」
月はあたしに言った。
やや感情を宿したその声が、あたしの耳を強く刺激する。
「私のせいだ。華だけでは足りない分をお前自身に補わせていた私のせいだ」
「違う、あたしのせいよ」
あたしは声を荒げた。
そう。昨日の蜜吸いは不完全だった。蜜の足りない状態で帰って来るしかなかった。その状態であたしは、今朝、華に接した。自分でもすっかり加減が分からないまま、加減出来ていると信じ込んで、華から蜜を吸いあげた。
気を失っても、しばらく。
「華は……華は……」
「大丈夫。命に別条は無い」
月はそう言ったけれど、全く安心出来なかった。
「お願い、放して」
あたしは月の顔を見上げた。月の表情は変わらない。腕を握るその力も、全く弱まりはしなかった。
「駄目だ」
月はついにその言葉を口にした。
「放さないし、行かせない」
多少の懇願では揺るぎそうにない雰囲気だった。あたしはそんな月を見つめながら、自分の状況を告白するしかなかった。
「――蜜が足りないの」
口に出たのはその言葉だった。
「これじゃ足りないの。野生花を捕まえなくては、足りないの」
「野生花は誰かに捕まえさせる。お前は城にいろ」
「駄目。それじゃあ、華が……」
「私の傍にいれば大丈夫だ。それに、危ない時は温室の外鍵をかける」
「華をまた閉じ込めるの?」
「それも仕方がない」
「お願い、行かせてよ」
「駄目だ」
「どうして?」
あたしの言葉に、月の表情に微かな変化が現れた。
怒っているわけではない。悲しんでいるわけでもない。ただ動揺している。怯えているようにも見えた。
「今のお前は注意力が足りない。もし何かに捕まったりしたら――」
「捕まったりしない。絶対に帰って来るから」
あたしは譲らなかった。
どんなに月が心配しても、森に行きたかった。
記憶のためなのだろうか。野生花のためなのだろうか。いや、もう一つ、大きな理由が生まれてしまった。
あたしは、今だけでも城から出たかった。
蜜を十分得るまでは、華と出来るだけ距離を置きたかった。
「お願い」
あたしは訴えた。
月の眼差しを怖がってはいけない。
「森に行かせて」
沈黙したまま時間が過ぎる。
あたしを見つめる月の瞳が揺らぎ始める。こんな事はあまり無い。月はやがてあたしから視線を逸らし、手を放した。小さな溜め息が聞こえてくる。その視線は真っ直ぐ城の外に広がっている森を見つめていた。
「――好きにしていい」
気だるそうに彼女は言った。
それ以上は何も言わない。あたしはそっと彼女から離れた。見送る月の視線は鋭くもなければ、弱々しくもない。
やがて彼女が去っていく気配を感じて、あたしは森へと駆けだした。
◇
森を歩きながら、あたしは気配を探った。
今日は野生花を取るに留めるべきかもしれない。記憶は舞い込んでくるのを待てばいい。機会はどこにでも転がっているものだ。
あまり時間をかけたくはなかった。
月の城から遠ざかれば遠ざかるほど、正面玄関での月とのやり取りを思い出して、心が痛んだ。
けれど、まだ帰る事は出来ない。
野生花を出来れば五人以上。それも、多ければ多い方がいい。とにかく蜜を沢山吸ってから帰りたかった。
そうでないと、華のいる城に足を踏み入れる自信が持てなかった。
そう。今のあたしは本当に加減が出来ないようだった。
それを今まさに目の当たりにしていた。
加減が出来ないと言う事実を自分で自覚できていない。昨日の逃亡が癒えたばかりの身体に響いてしまったのだろうか。
華が気を失うに留められたのは奇跡だったのかもしれない。
あたしには眠っているようにしか見えなかった。寝不足だから寝てしまったのだとしか思えなかった。
けれど、違う。違うのだと言うことが今になってよく分かる。
あたしはたった今、花を枯らした。
貴重な当ての一人ではなく、見知らぬ花を無理矢理捕え、悲鳴や懇願までを無視して、枯らすまで蜜を吸ってしまった。腕の中にて力尽きた野生花は、抜けがらのようになってしまっていた。蜜はもう無く、身体の瑞々しさも消え、人形のように冷たくて硬い。
美しいブロンドの髪がひらひらと揺れ、閉じられた両目からは涙が零れ落ちている。
「……あ」
花を枯らしてしまったのは羽化したばかりの頃だけ。
その時、あたしは花を枯らすのは野蛮なことだと思った。枯らしてもいいと開き直る胡蝶達のことが理解出来なかった。
そんなあたしが、再び花を枯らした。
野生花の娘。あたしと同じ年頃の外見をしている。美味しい蜜の誘惑に抗うことが出来ず、彼女の拒否の言葉すらあたしの耳には届かなかった。
今日、森で蜜を吸ったまさに一人目の雌花。
殺すつもりなんて勿論無かった。命まで奪って蜜を吸いたかったわけじゃない。けれどそれは綺麗事だ。建前であって、今となっては言い訳でしかない。
――変わらないのだ、あたしも。
どんなにいい子ぶったところで、あたしは花達にとっては害虫でしかない。
あたしはいつか華を殺すかもしれない。
たった今枯らしてしまったこの野生花の娘のように、華の命を吸い上げてしまうかもしれない。その恐怖が心身を揺さ振った。
――その上、蜜はまだ足りないのだ。
風向きが変わる。
蜜の匂いが漂ってきて、ハッと我に返った。枯れたばかりの野生花を手放す気にもなれず、座ったまま視線だけを動かした。
誰かがこちらを見ていた。
軽蔑するわけでもなく、面白がっているわけでもない。ただ、あたしの様子を見つめているだけだった。
野生花の大人だ。
美しい女だった。
月とは全く違う類の美しさだった。華やかで明るい色を湛えている。彼女はあたしと目が合うと微笑みを見せた。月の見せる空虚な笑みとは全く違うものだった。
毒々しいほどに美しい。
あたしは立ち上がった。枯れたばかりの花の娘が地面に落ちていく。罪悪感すら今は思い出せない。大人一人分ほどの蜜を吸った後で、あたしは再び蜜への欲求を感じていた。
それを助長するかのように、女が手招く。
濃い蜜の匂いが充満していた。あたしが野生花を枯らした事実を目撃していたはずなのに、彼女は怯えることなくあたしを引き寄せた。
あたしはそれに抗えなかった。
目の前に立つと、女はあたしを抱きとめた。甘い蜜の香りが毒のように思考を鈍らせる。今まで関わってきたどの花とも、華とも違う、酒のような匂いだった。
女の鮮やかな目がじっとあたしの目を見た。
何かを確認するような色が一瞬だけ広がり、すぐに引っ込んだ。
「おいで」
女が声を発した。
「怯えなくていいわ」
豊満な胸を押しつけるように、女はあたしを強く抱いた。その甘い香りに包まれてしまうと、もう抗えなかった。耐えられず、あたしは女の胸元に口をつけた。
その瞬間。
酒のような甘い蜜がどろりと口の中に流れ込んできた。
その味は一瞬にしてあたしの思考を奪った。吸えば吸うほど、離れられなかった。頭が溶かされていくようで、力が抜けていった。
華のものとは全く違う味。
濃すぎるその味は、あたしの身体に生まれるどうしようもないほど深い蜜への欲求を満たしてくれるものだった。
しかし、その蜜を吸っているうちに、鈍っていたあたしの脳裏にふと何かの情景が浮かんだ。失われていた記憶のようだった。
これは何だっただろう。
「いい子ね」
頬を触られて、あたしは口を離した。
じっと見降ろしてくる女の目が潤んでいる。そっと唇を重ねられて、あたしは目を閉じた。その唇から流しこまれたのは、もっと濃い味のする蜜だった。段々と考えることが出来なくなっていく。
けれど、疎らな思考の中で、あたしはまた、記憶の断片を拾ったような気がした。
この蜜の味をあたしは知っている。
この蜜の味を前にも味わったのを覚えている。
それは、月の城に訪れるよりも少し前の事だった気がした。逃げ出すよりも前。身体の痺れに震えつつも、快感を与えてくれる蜜にどっぷりと浸かった記憶。その相手は誰だっただろう。その相手は――。
急に目が覚めるような気分になった。
唇を重ねている女の顔に見覚えがあった。思い出した。大変な事を思い出した。もう少し早く思い出さなくてはならなかった事を、今になって思い出した。
すぐさま女から離れようとした時、女はぐっとあたしを強く抱きしめた。
唇を離し、女はじっとあたしの目を見つめた。
「もう思い出したの?」
笑っている。
その笑みにも見覚えがあった。身体が震え、立っているのもやっとだった。蜜のせいだろうか。蜜のせいかもしれない。美味しいだけでは済まないこの蜜を、あたしは浴びるように飲んでしまった。
知っている。この味も、この恐怖も知っていることだった。
あたしは女の目を見つめたまま、朦朧としてきた意識の中で、どうにかその女の呼び名を記憶の海から探り出した。
「食虫花……?」
女の笑みが一層深まった。