3.野生花
◇
月の森を歩きながら、あたしは思うままに見つめた光景を頭に記憶する。
記憶の海を漂いながら、緑の命がひしめく木漏れ日の下を歩き回る事は、さほど大した感想を与えてはくれないものだった。
何故ならここはあたしの生まれ故郷であって、いい思い出よりも怖かった思い出の方が多い残酷な世界だったからだ。
どんなに綺麗に見えても、この森の何処かで今も生き物が悲鳴をあげている。
誰かが生き延びる限り、誰かが犠牲にならなくてはならない。
あたしがかつて仲良くしていた胡蝶達も、その多くが今は生きてはいないだろう。生きていれば奇跡だ。でも、会える事なんてきっとない。
卵を残せた者がどれだけいるのだろう。
あたしの年齢ならば、そろそろ胡蝶の中には卵を産む者がいる。或いは産ませる者が。多くはその卵すら残せないまま誰かに殺される。
あたしは卵を産んだことがない。
卵を産むどころか相手を探す暇もなかった。
目まぐるしく状況の変わる森の中で、その日、生きていくために蜜をかき集めることだけで精一杯だった。
――そうだ。
あたしは同じ胡蝶との出会いにあまり縁がなかったのだ。
あったとしても、気の合わなそうな者ばかり。
羽化して暫くは女郎蜘蛛に騙されて同居し、逃げ出した後も、胡蝶の仲間に会う前に誰か別の種族の者といた気がする。
「――誰だったかしら……」
ふと、呟いた時、あたしは別の気配を感じた。
動かぬ植物や鳥や虫、獣といった当り前の生き物ではなく、もっと違う生き物。妖精の類、もしくは足の生えた動く花。
風向きが変わり漂ってきた甘い蜜の香りが答えを教えてくれた。
野生花の一種だろう。
茂みの向こうから、あたしを見つめているらしい。
「誰?」
あたしは声をかけた。返答は無い。
「出ておいで」
出来るだけ優しく、誘いだすように声をかけてみる。
けれど、その者は出てこようとしない。もしも引っ掛かれば大抵一声、二声で出てきてしまうのだけれど。もしかしたら、怯えているのかもしれない。それなら、無理強いはしない。無理に襲ってもつまらないからだ。
それが楽しいと言う胡蝶もいたけれど、あたしには理解が出来ない。
無理に捕まえなくてはならない時は、極限の時だけだと思っている。
茂みに背を向けて歩きだすと、その者もついてきていたのが分かった。
胡蝶をつけるなんて野生花にしては随分と怖いもの知らずだと思う。まだ若いのだろうか。それとも、あたしがこの森の中で月の妾と呼ばれている事を分かっていて、興味を持っているのだろうか。
どちらでも別に良かった。
蜜を吸わせてくれない野生花になんか興味は無い。
それに気をつけなくてはならないことがあった。
それは、雄花や両性花を誘いこまないことだ。
理由は簡単な事だ。城の中で待っている華が少女だからというだけのこと。気をつけようと思ってはいるけれど、雄花などの蜜を吸った後に、万が一、間違いがあっては困ったことになる。
ついて来ている者がどちらかは分からないけれど、それだけはしっかりと頭に入れてあたしは再び周囲を見渡した。
記憶は別に運に任せて見つかればいいというだけだけれど、野生花は絶対に見つけなくてはならない。
それも、雌花を。
歩き続けて、あたしはふと水辺に辿り着いた。
川が流れている。その川は町まで続いているらしいけれど、その光景を見た事は無い。森の中を流れる川はとても綺麗だけれど、町を流れている川は濁っているらしいとだけ聞いたことがある。
――さて、これは誰が言っていたのだろう。
きっと月の城に拾われる前に聞かされた話だった気がする。
けれど、思い出す事が出来ない。
今は思い出そうとしてはいけない。こうしている間にも、誰かがあたしに近づいているかもしれないからだ。
神経を研ぎ澄ませてみても、あたしの近くにいるのは、あの野生花の気配だけだった。ずっとつけているらしい。
何者なのだろう。何をしているのだろう。
蜜を吸われたいのだろうか。でも、あたしが視線をやると、その野生花は息を殺して身を潜める。あたしに気付かれて欲しくないようだ。
蜜をくれないのなら、そんな香りをさせてついて来ないで欲しい。
溜め息を吐いて、水辺を見渡した。
野生花はいないだろうか。雌花でないといけない。野生花の血統は混雑したものだ。実を結ばないということを知らないものだからとても厄介なものだ。
虫が蜜を吸うことで野生花達は増える。れを野生花達は望んでいるわけではないけれど、溜めこんだ蜜をいつも吸われたがっているものだ。
そのせいで一度でも蜜吸いを味わってしまった野生花は、あたし達の誘いを断り切れなくなってしまう。一度関わりさえすれば、後は見つけるだけでいい。無理強いではない。ただ断られないから誘いこむだけ。
あたしに蜜を吸われるということを知っている人は何処かにいないか。
そんな一人をあたしはようやく見つけた。
水辺に足をつけて、その雌花は空を見上げていた。まだ若いけれど、あたしよりもは少し年上だと思う。
あたしはそっと彼女の背後に忍び寄った。漂う蜜の香りは、まだ薄れていない。有難いことに、どうやら今日は先客もいなかったらしい。
「何を見ているの?」
声をかけて初めて彼女はあたしに気付いた。
驚きを宿したその澄んだ目が、あたしの目とぶつかり合う。彼女はうろたえていた。会うのは初めてではない。もう何度も関わってきた。
名前も持たないこの雌花は、少しばかり呑気だからすぐに捕まえることが出来るのだ。
「別に何でもない」
彼女は戸惑いつつ答え、立ち上がろうとした。
「ただ鳥を見ていただけ」
やけに早口だ。
逃げるつもりかもしれない。
けれど、拒絶の言葉をはっきりと口にしない限り、あたしはそれを無理強いだとは思わずに迫る。そうでもしなければ、あたしだって生きていけない。
立ち上がる前にあたしは傍に寄り、その頬に触れた。
その瞬間、雌花の目が見開かれた。
触れば触るほど、彼女の足からは力が抜ける。立ち上がる事は結局出来ず、彼女は座り込んでしまった。
怯えを隠そうとしない彼女をあたしは覗き込んだ。
「大丈夫。あたしは枯らしたりしない。知っているでしょう?」
彼女は眼を合わせてくれない。そこが華とは違う。
どんなに肌と肌が触れ合っても、飽く迄もこの雌花とあたしは、蜜を吸われる者と吸う者でしかない。
彼女の額に唇をつけると、まだ今日は誰にも吸われていなかった蜜が少しだけあたしの中に流れ込んできた。
自然な味だ。ただ華の蜜を知った後では物足りない。
唇を離すと、雌花はもう逃げ出そうともしなかった。
もっと濃い蜜が欲しい。抵抗出来なくなっていく雌花の衣服をそっとずらし、身体を触りながら、あたしは彼女の胸元に流れる蜜を吸いだしていく。
華には絶対にしない少々乱暴な蜜吸いだ。
野生花は案外丈夫なものだからこんな事では死にやしない。
けれど、胡蝶の抱える欲もまたどうしようもなく深いものであるのも確かな事だ。
「お願い……もう……」
雌花がついに声をあげて、あたしは仕方なく唇を離した。
それと同時に倒れ込む雌花の姿から、あたしは目を逸らした。弱々しく悩ましいこの姿をじっと見つめていると、理性を失って続けてしまいそうだったからだ。
だが、これ以上吸えば本当に雌花は枯れてしまう。
枯れてしまえば、あたしの蜜吸い相手の当てが減ってしまう。
倒れ伏したままの雌花を置いて、あたしは立ち上がった。
雌花は胸元を抑えながら息を整えている。苦しそうなその姿を見てしまうのは怖かった。罪悪感ではない。ここまでしても、まだ蜜が足りないからだ。
「また吸わせてね、お姉さん」
そう短く言い残して、あたしは動けない雌花から逃げるように離れた。
◇
謎の野生花はまだあたしをつけているらしい。
けれど、あたしに蜜を吸われたいとは全く思っていなさそうだ。それもそうだろう。あたしはもうすでに二人ほどの雌花を捕まえた。
その二人ともから、悲鳴に近い懇願の声をあげるまで、蜜を頂いた。
そんな光景を見て、誰があたしに蜜を吸われたいと思うだろうか。
もうとっくに自分の事は分かっていた。あたしは、華を大切にするためならば、他の野生花なんてどうでもよかった。
命を奪わないのも、後々になって吸う当てが減るのが困るからだ。
新しい雌花を探すのも大変な事だ。
例えば、幸運に恵まれて誰にも蜜を吸わせたことのない花を見つける事はたまにあっても、その花が生き延びるとは限らない。
別の虫に喰い荒されたり、蜜を吸われ過ぎて枯れてしまったりすることがある。
だから、せめて自分の手でその当てを潰す様な真似はしてはならない。だから、相手が少しでも苦しいと告げれば、あたしはすぐに蜜吸いを止める。
それでも、放っておけば当ては減っていく。
馬鹿な他人が減らしてしまうからだ。
――特に、胡蝶の仲間は厄介だ。
あたしの仲間の中には、今の事しか考えられない哀れな者がいる。彼らは欲望のままに花を襲い、相手がどんなに苦しんでも蜜を吸うのを止めない。やがて、限度が過ぎて花を殺してしまったとしても、彼らは反省なんてしない。
――君だっていい子ぶってはいるけれど。
ふと、頭の中で記憶が巡ってきた。
――俺に負けず劣らず残酷な胡蝶だね。
あれは誰だっただろう。あたしは考える。胡蝶の仲間。顔立ちだけが整った、全く気の合わない、話していて面白くもない青年だった。数少ない胡蝶との出会いであり、それでいて何ももたらさなかった縁。
ふと、思い出そうとしていた事に気付き、そこで思考を止めた。
こんな場所で考え込むのは危険だ。
あたしはふらりと辺りを見渡した。見れば見るほど綺麗な景色だけれど、この森のあちらこちらで胡蝶は命を落とす。
神経を尖らせて、あたしは周囲の気配を窺った。
まだあの野生花はついてきているらしい。
よくもまあ誰かに襲われないものだ。
と、ふと、横から物音が聞こえた。何だろうと振り返ろうとした時、あたしの耳に大声が届いた。
「しゃがんで!」
その声にとっさに反応した。
少年のような声だった。いや、声に気を取られている場合ではなかった。あたしの頭上を誰かの手が迫る。その手は虚しく宙を掴んで、止まった。
人間のように見えるけれど、人間ではない。
あたしと同じように人間のような姿をしているだけの存在。
虫の妖精の女だ。そう、あたしを含め、虫の妖精は女が多い。その理由なんて学者でもないので知らない。
問題は、そこではない。
手の主の女がしゃがんだあたしを見降ろす。
その目に怯んでしまう前に、あたしはその女から離れた。
あれは、蟷螂だ。一度捕まれば最期。先程の少年のような声が響かなければ、命の猶予がどの程度であろうと、あたしは月の城に帰れなかっただろう。
だが、まだ気を抜けない。
一度の失敗で諦めるような者は、この森にはいない。
蟷螂から距離を置き、あたしはじっとその女の動きを警戒した。下手に動けば裏をかかれる。諦めてくれない以上、絶対に気は抜けない。
「全く」
蟷螂は忌々しそうに溜め息を吐いた。
「誰だ、一体……」
恨めしそうにその声を周囲に響かせる。
相手は先程声を発した者に対してだろう。
だが、視線はあたしを見つめたままだ。動くのはどちらだろう。出来れば蟷螂の方が先に動いて欲しかった。けれど、蟷螂もこのまま動かないつもりのようだ。
どうしよう。
けれど、焦ってはいけない。
「お前、月の妾だな」
蟷螂があたしに向かって声をかけてきた。
「名前は確か蝶と言ったかな」
あたしの事を知っているのだろうか。けれど、相手が胡蝶を食べる者である以上、あまり気を取られてはいけない。
「そうだよ」
あたしは答えた。
「だから、あたしを食べたら月が怒るよ」
蟷螂は笑みを浮かべた。全く動じていない。
「怒ったとしても女神は死なない」
彼女は言った。
「その脅しは無意味だ。私がお前を諦める理由にはならない」
平然と、冷徹に、嘲笑うように、蟷螂はあたしをまじまじと見つめる。
見つめられている以上、あたしは動けなかった。背を向けることも、横に逃げることも、勢いだけでしてはならないと感じた。
腹を空かせた蟷螂は恐ろしい。
捕まればすぐにあたしは衣服を剥ぎ取られて喰い殺されてしまうだろう。しかも、彼らは大抵、止めなんてさしてくれないのだ。
あたしはそっと気付かれないようにほんの少しだけ後退りをした。
「どうしてあたしの名前を知っているの?」
誤魔化しに近い質問だったけれど、知りたい事でもあった。
だが、蟷螂は冷静で聡明だった。
「それは後でゆっくり教えてあげる」
一歩近づいて彼女は言う。
あたしが怯えているのが面白いのだろうか。蟷螂は随分と楽しそうだった。
「安心しなよ」
蟷螂は笑みを深める。
「すぐに喰ったりはしない」
一歩、また近寄って来る。
「数日間、存分に可愛がってあげるよ。もう思い残すことがないってくらい可愛がって、何も分からなくなるくらい狂わせてから食べてやるよ」
駄目だ。この恐怖と緊張にもう堪え切れなかった。
あたしが逃げ出すと同時に、蟷螂も走り出した。もう止まる事は出来ない。止まればすぐに捕まる。捕まればもう逃げ出す事は困難だ。
でも、何処へ逃げればいいのだろう。
一心不乱に走り出したけれど、逃げ道なんてあたしには分からない。
捕まれば死ぬ。殺されてしまう。何だろう。前にもこんな事があった。追いかけていたのは誰だろう。思い出せない。いや、今は思い出している場合じゃない。
「蝶!」
何処からかあたしの名前を呼ぶ声がした。
逃げている先だ。誰かいる。虫ではない。白い髪の少年。甘い香りがしてくる。それが何者なのか、すぐに分かった。野生花だ。
どうしてあたしの名前を知っているかなんてこの際どうだっていい。
「こっち!」
野生花の少年は手招いた。
逃げ道を教えてくれるようだ。どうして。そんな事もどうでもいい。ただ逃げているだけでは、いつか捕まってしまう。
それなら、あたしの名を知っている彼を信じてみるのも一つの手だ。
そうだ。気付いた事がある。彼の声についてだ。彼の声に聞き覚えがある。蟷螂に襲われそうになった時に、あたしに「しゃがんで」と言った声だ。
野生花の少年を追いかけながら、あたしはとにかく走った。
転ばないように気をつけて。転べば、もうおしまいだ。蟷螂に捕まって逃げ出せる胡蝶なんて殆ど居ない。そのくらいの力差がある。
野生花が何処に向かっているのかは分からない。
何処をどう走っているのかも分からない。
ただ、蟷螂に捕まりたくない一心で、あたしは野生花の少年について行った。と、突然、彼が木々から飛び出していった。
開けた道が見える。
切り開かれた土の道は人間のためのものだ。その道がどこに続いているのか、あたしは知っている。道に出た少年は、真っ直ぐある方向に向かって走っていた。追手の足が速まる。蟷螂もまたあたし達が何処に向かっているのか察したらしい。
あたしは急いだ。
夕暮れはまだ遠いけれど、もう戻らなくては。
やがて見えてきたのは立派な城。その門もまた見えてきた。あと少しだ。少年の後を追いながら、あたしは全力で走り続けた。
覚えている。
この感覚。前にもあった。
月の城に初めて来た時の事だ。あの時に追ってきていたのが蟷螂ではなかったということだけは思い出せた。
駄目だ。今は思い出している場合じゃない。
少年が先に月の城についた。こちらを振り返っている。
門は閉まっていない。開けっぱなしだ。飛び込めばいい。庭に飛び込めば、並大抵の蟷螂は怯むはずだ。
――辿り着いた。
あたしは開きっぱなしの門を越えて、月の城の庭へと駆けこんだ。蟷螂は森と月の城の敷地との境で止まり、恨めしそうにこちらを見ていた。
「――くそったれ」
息を切らせながら、彼女は言う。
いつの間にか、野生花の少年はいなくなっていた。
「次に会った時は、絶対に捕まえてやる」
そんな台詞を吐いて、彼女は座り込んだ。
さすがの彼女も月の膝元であたしを捕まえる度胸はないらしい。あたしは息を整えながら、城へと戻った。
途中くるりと見渡したけれど、あの少年の姿はどこにもなかった。
――蝶。
あの少年の声が頭に響く。
恐ろしい蟷螂から逃げるのを手伝ってくれたあの少年は何者だったのだろう。本当に実在したのだろうか。
そんな疑問もすぐに薄れてしまった。
城に入ってすぐに月に出迎えられたからだ。
あたしが蟷螂に追いかけられていた事を、月は知っていた。たまたま窓辺から見えたのだと言う。逃げ込むあたしと、門の傍で息を切らす蟷螂の女を。
「――蝶」
声をかけられて、思わずあたしは怯んだ。
バツが悪いことだった。今度こそ初めて彼女に怒られるかもしれないとも思った。空虚な視線が怖かった。
月はそっと近寄るとあたしと目を合わせた。
目と目が合っても、彼女が何を考えているのかよく分からない。怒っているのか、悲しんでいるのか、全然分からない。
ただ月は笑みも浮かべず、無表情のままこう言った。
「おかえり」
その温かな声を聞いた途端、涙が溢れだした。