2.女主人
◇
夜空の月明かりが乏しい日も、この城の主は窓辺で森を眺めている。
あたしが先に寝台に入っていても、彼女はすぐには追ってこない。隣に移動したとしても、さほどこちらを気にしないだろう。
ただ、月はあたしの話をちゃんと聞いてくれた。
話を聞いて反応もしてくれた。
一緒に寝る事を拒絶せず、仮に抱きついたとしても嫌がる素振りさえせずに、あたしをそっと抱き返してくれた。
そのさり気ない反応は、あたしを心から安心させてくれるものだった。
「今日は何か見た?」
月に訊ねられ、あたしは答える。
「蜘蛛に会った。女郎蜘蛛の魔女」
ちらりと月が振り返る。
何も言わずあたしを一瞥すると、再び窓の外へと視線を戻した。
隠し事はなしだ。
昔、月はそう言った。あたしはその約束に肯いた。
それから数カ月は経っているのだろうか。一度口にしてしまったことに関して、あたしはその約束を守る。月が知りたいと思う事はやはり隠せなかった。
「とても綺麗な人だった。蜘蛛だって気付かなかった」
「その女と話したのか?」
「彼女はあたしの事を知っていた。あたしの名前と昔の事を口にして、もう少しであたし、彼女の家に足を踏み入れる所だった」
「話したんだな……」
月はそう呟くと、窓辺にて頬杖をついた。
その姿と声からは怒っているような感情は現れない。ただ、あたしの話を聞きながら想像しているだけのようだった。
「手を握られそうになって思い出したの」
あたしの脳裏にその記憶が浮かぶ。
「彼女は年頃になって羽化したあたしを騙した人。羽化したばかりの頃、数日間、あたしはその人の家にいたの。騙されたと知って、食べられる前に逃げ出したの」
「――そうか」
月は空虚な呟きにみに止め、森を見つめ続けた。
彼女はいつだってあたしの話を黙って聞く。コメントがあるとしても、当たり障りのない自分の感想ばかりだ。あたしの行動を否定するわけでもなく、肯定するわけでもない。そこがよかった。そこが心地よかった。
そんな月の背中を見つめながら、あたしは記憶を辿った。
「蜘蛛はあたしが記憶を失っているって知っていた。どうしてだろう?」
「その女がずっと前から蝶に起こっている事を知っていたとしたら……」
月は呟いた。
彼女はある可能性を示唆している、あたしは息を飲んだ。
「――いいえ」
あたしは首を傾げた。
記憶を辿ろうとすればいつも頭が痛くなる。
思い出せるのは疎らな記憶の欠片ばかり。けれど、それでも、あたしには自信があった。あの女郎蜘蛛はあたしを傷つけた犯人ではない。
「違うと思う」
あの日、月に拾われた夜、あたしは誰から逃げていたのだろう。
同時に、今日の昼に森の中で遭遇した女郎蜘蛛の色気のある姿を思い出す。
笑った顔。まるで本当にあたしに親しみを感じているかのようなその表情。嘘が得意な彼女。かつて数日間、共に暮らしていた偽りの日常の記憶を出来るだけ思い出してみる。
やっぱり違う。
彼女ではない。あの日、あたしが逃げようとしていた相手は彼女ではなかった。
「あの人に会ったのはその時以来だったと思う」
「そっか。それなら、違うのだろうな」
月は素っ気なく言って夜空を見つめ続ける。
その横顔はとても美しかった。垂れさがる長い髪は月の光が地上に降り立っているところを表現しているかのようだ。
けれど、その顔が浮かべている表情は何処までも空っぽのようだった。
「華はどうしていたの?」
沈黙が急に心細くなって、あたしは訊ねた。
急に話を変えたけれど、月は動じることなく答えてくれた。
「今日も蝶が森に行く所を見つめていたよ」
月はそっとこちらを振り返った。
やはり彼女の笑みは空っぽなものに見えてしまう。どうしてだろう。孤独のせいなのだろうか。それとも生まれつきこんな人物だったのだろうか。
月は窓を閉めて、こちらへと寄ってきた。
「蝶の事を心配していた。それと不安を抱いていた」
「――不安?」
訊ね返すと同時に、月はあたしの頭に手を置いた。
とても温かく、とても柔らかい。
「蝶がいつか帰って来なくなるのではないかって」
その言葉を耳にして、何か胸元に重たいものが乗るような感覚を抱いた。
「まさか」
笑って誤魔化そうとしたけれど、うまく笑えなかった。
あたしが月の城を去るとしたらどういう理由だろう。
記憶を取り戻して自ら去るという可能性もあるけれど、それよりももっと高いのは、今日のように危ない目に遭って命を落とすということだ。
華がどういうつもりで不安に思っていたかは分からない。ただ、月が不安に思っているとすれば、多分、そちらだろう。
月の眼差しから笑みがすっと消えていた。
寝台に座りこみ、彼女はあたしの身体をそっと抱き寄せてきた。
「無事でよかった」
彼女はぽつりと零した。
「蜘蛛なんかに囚われてしまわなくて――」
それは、独り言だった。
あたしはただ黙ったまま月の背中に手をまわした。
◇
――御主人様は勝手すぎる。
それはこの城に長年仕える使用人たちが度々口にする溜め息だった。
月が横柄な態度を取っているわけではない。ただ、何かあればすぐに自ら外に出ようとする彼女に対する不満だった。
彼女が外に出される事は無い。
代々この城に伝わるらしいしっかりとした武器を携えたとしても、誰も彼女の外出を認めようとしない。
――引きこもっていればそれでいいのに……。
決して月の耳には直接的に入らないけれど、その感想はどんな形であれ必ず月の耳に入ることだろう。
彼らの多くはあたしの姿を見ると慌てて口を噤む。
だが、年配の執事と女中頭は違う。
彼らは女神である月を制御したがっている。月が生まれるより前からこの城に仕えているらしい彼らは、度々、先代の女神である、月の母親の話をしているらしい。
――まだ若いくせに。
――若いのだから。
長くここに仕えてきた彼らにとって、月はまだ子供のままらしかった。
しかし、そうでない者も多い。
特に若い使用人や女中なんかは月の事を崇拝している者ばかりだ。そういった者がこの城を頼り、仕える。彼らは前の女神なんて知らない。時間が経てば、月の母親の話をするような者もいなくなるだろう。
しかし、時間が経つのは怖いことだとあたしは知っていた。
月は自分の母親の事を知らない。
母親は月を生み落とすと同時に命までも落としてしまった。
母親の母親もまた同じようにこの世を去った。
月もまたそうなるだろうと囁かれている。その時は月の残した娘に月という名前が付けられ、この城の主として周囲の者達に育てられる。
それがいつの事なのか、あたしは知らない。
月がいつか子供を生み落として死ぬなんて思いたくもなかった。
誰の子を宿し産み落とすのだろう。
誰も月の父親の話をしない。月の祖父の話もしない。月について語られるのはいつだって母系のみで、父系の話なんてあまりされない。
月の父親は実体のない神であると言われている。
或いは月にはそもそも父親なんていないとも言われている。
あたしにはそのどちらが正しいかなんて分からない。ただその伝承には恐怖だけを覚えた。避けられないのだとしても、月には死んで欲しくない。死んでしまうのならば、子供なんて産まないで欲しい。
けれど、ここに仕える者達はそれを希望し、信じている。
月はいつか、いつの間にか、子を宿し、産み落とし、そして死ぬだろうと。
生まれる子供は月の娘であると同時に、月の生まれ変わりでもあるのだそうだ。おかしな話だと思った。胎内にいる間、魂はどうなっているのだろう。
けれど、ここに仕える者達はそれを信じている。
月は子を生み落として死に、新しい月がこの大地を治める。
新たな月もこの城に住まい、また子を宿し産み落とすと同時に死ぬかもしれない。
そうやってこの大地は守られてきたのだと。
それはあたしの生まれ育ったはずの森にも伝わる古い言い伝えだ。
辛うじて覚えていた、以前は聞き流していたと思われるその神話が、今はとても恐ろしかった。
だから、たまたま月の城にやってきた客人の有識者に月が子を生んだとしても必ずしも死ぬわけではないと聞かされた時、あたしは涙が出そうなほど安心できた。
死ななかった場合、月は月のままだ。普通の人間や胡蝶のように生き長らえ、通常の人間のように寿命で死ぬ。
その時代の月が生きたまま産み落とされた子は月の姫と呼ばれて育つらしい。
月の姫は愛されて育つ。母の愛を受けることが出来る幸せな女神となる。月の姫がいる時代はとても穏やかで素晴らしい時代らしい。
月の城にはその記録が残っている。あたしはたまにその本を読む。文字を習ったのは遠い昔だけれど、だいたいは読むことが出来た。
文字だけで記される月の姫は、想像するととても可憐な天使だった。
あたしは月の姫を見たい。
月が子供を産むのなら、彼女の生まれ変わりではなく、月の姫であって欲しい。
けれど、ここに仕える者たちは別にそれを願ってはいない。
つつがなく時が過ぎるのならば、別に素晴らしい時代が訪れなくたっていいと思っている者ばかりだ。
子を産む前に死ななければそれでいい、と。
やはり月は孤独な人だった。
薄っすらとした夜空の光を感じながら、あたしは隣で眠る月を眺めた。眠気が何故だか去ってしまったけれど、月が傍にいてくれれば不安にもならない。
此処へ来たばかりの時、あたしは悪夢ばかり見ていた。
定まらない記憶の中で、誰かに傷つけられる夢。その壮絶な痛みと自分の血の味の中で、どうにか走り、一心不乱に此処を目指してきた夢。
誰から逃げて、何のために此処に来たのだっただろう。
助けを求めたくて来たのだっただろうか。
いや、何か違う。もっと何か大切な事を忘れている気がした。
この城に向かおうと思ったのは何故だっただろう。死んでもおかしくない状況で、記憶を落としながら走り続けたのは何故だっただろう。
――伝えなくちゃ。
その言葉はあたしの口から漏れだした。
――けれど、何を? 誰に?
「やっぱり、思い出せない……」
「無理するな」
ふと、月の声が聞こえてきた。
「もう遅いから何も考えずに寝なさい」
目を閉じたまま、彼女はそんな事を言う。
あたしは小さく肯いて、その言葉に従った。
◇
数日後のある日の昼前頃に、あたしはいつも通り城を出た。
森への散歩はこの城でももはや通例となっていて、普通は誰もあたしに何処へ行くのかわざわざ訊いてきたりしない。
訊いて来るとすれば、あたしをからかうつもりでいる若くて恐れ知らずの使用人の青年くらいのものだ。
けれどそれも最近はあまりない。
いつも同じやりとりが交わされる事実に飽きたのかもしれない。いつも同じ言葉を返すあたしの方も既に飽きているので有難いことだった。
結局、今日は誰にも邪魔されることなく城の敷地を抜け、森へと入ることが出来た。
森へ足を踏み入れた瞬間、ぞわっとした風が出迎えてくれる。
高い塀と立派な門の隔たりが、世界そのものの隔たりであるかのようだ。
月の城の敷地を抜けた向こう側は、一瞬たりとも気を抜けない魔境のような世界しか広がっていない。
ここであたしは生まれ育った。
卵として生まれ落ち、孵り、育ち、蛹となって、羽化して、そして今がある。
幼生の頃は勿論、蛹から羽化したばかりのあたしは本当に世間知らずだった。運の良さだけで生き延び、段々と長生きするコツを掴んでいく。
あたしもまた運の良さと多少のコツで生き延びてきた。
けれど本来ならばあたしはもうとっくに命を落としていただろう。
大怪我をした理由が何であれ、もしも月に助けてもらえなければ、この門の前で何者かに喰われて死んでいただろう。
ここはそういう場所だ。
美しい世界に見えても、混沌としていて常に皆が何かに命を狙われている。
運が良ければ生き延びられる。生き延びるコツなんて、その運の良さを出来るだけ引き寄せる気休めに過ぎない。
それでも、ここには来なくてはならない。
ここで野生花を数名誘い込まなくては、華の負担が増えてしまう。それに、記憶の欠片も探さなくてはならない。
幼い頃に過ごした場所ならば、何らかのきっかけが落ちているはずだ。
どうしてもそれを拾わなくてはならない。
何故ならその記憶が、月に関する事であると思っていたからだ。
「甘い香り……」
あたしはそっと風の匂いを嗅いで、思うままに歩きだした。