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蜜吸い  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第二部
6/15

1.人工花


 月があたしにくれたのは美しい銀色の人工花だった。

 少女の形をしたその花は、深紅の目を輝かせて不思議そうにあたしの姿を見つめてくる。

 人の姿をした花と関わるのは初めての事ではないし、その蜜を吸うことにも何の躊躇いも感じなかったけれど、彼女ばかりは大切にしなければという思いが生まれた。


 華。姿そのままの名前。


 でも、あたしだって蝶という名前しか持っていないから同じことだ。あたしも華もこの城にとっての立場は変わらない。

 全ては月の善意の上に成り立っている。

 それを忘れてはならない。

 その恩以上に、あたしには月の事が必要だった。


「華はどうしているの?」


 あたしは毎夜のように月に訊ねた。

 同じ寝台で眠る月。月が一緒に寝ているのではない。あたしが一緒に寝ているのだ。彼女の傍にいなければ、あたしは眠ることが出来なかった。

 月は開けっぱなしの窓辺で外を眺めながら答えた。


「昨日とあまり変わらない。体調が整うまでにはあと少しかかりそうだ」


 素っ気ない後ろ姿にあたしは見惚れていた。

 女神と称される人にこんなにも近づけるなんて、記憶を失う前のあたしは思ったのだろうか。どちらにせよ、記憶が戻らない限り分からないことではあった。

 あたしはそんな月の後姿を見つめながら、ぼんやりと硝子張りの温室に閉じ込められている華のことを想った。


 花売りが華を連れてきた日から、すでに五日は経っている。

 その日からずっと彼女はあの部屋に閉じ込められている。体調が安定しないからだ。長旅の疲れのせいもあるかもしれない。

 ともかく、そんな状態で城をうろつかれては困る。

 主にあたしが困ってしまう。

 初めて会った日の匂いは忘れようにも忘れられない。濃厚で、誘惑的な甘い蜜の香りは、しっかりと自分の理性を捉えておかないと、狂わされてしまいそうだった。

 人間によって血統を管理された人工花であるせいだろうか。

 彼女は野生花とは全く違う存在だ。こちらもよく気をつけないと、簡単に溺れてしまうかもしれない。

 早くその味を知りたい気もしたけれど、知るのは怖い気もした。


「蝶はどうだった?」


 ふと月が振り返って問う。


「今日は何か思い出せた?」


 その深みのある色の目に見つめられ、あたしは静かに頷いた。


「胡蝶の子供を見かけて、自分が子供の頃の事を思いだした」


 あたしは答えた。

 森で見たものと記憶の事だ。毎日、あたしは月に報告をする。そうすることで、記憶を共有できる気がしている。

 実際、こうやって月に話していると、記憶がきちんと整理されるものだった。


「小さい頃にね、あたしは水辺で転んで怪我をしたの」


 あたしは月に語った。


「血が止まらなくて泣いていたら、大人の花のように綺麗だけど、全く蜜の香りがしない不思議な女の人が手を差し延ばしてくれた」


 話しているうちに、記憶は色を取り戻し、あたしの脳裏で鮮明に蘇る。


「その人は手当てをしてくれて、あたしの話を少しだけ聞くと、すぐに立ち去ってしまった。後で知ったの。彼女は花蟷螂。あたし達胡蝶を食べる種族の人だって」

「何だか怪談のような、ぞっとする話だな」


 月は微笑みながら言った。

 あたしもまた目元に笑みを浮かべた。


「うん。それを知った時、ぞっとしたのも覚えている。多分、その人はその時、お腹が空いてなかったのでしょうね。それか、子供の胡蝶なんて食べる気にもならなかったのかも」


 それか、成長するのを待って後で食べるつもりだったのだろうか。

 彼女を見たのはその時だけである気がしたので、その真意はもう分からない。


「ともあれ、今、蝶がこうしてここにいるのも奇跡だと言う事は分かったよ」


 月は面白そうにそう言うと、開けっぱなしの窓を閉めた。


「そろそろ寝ようか。明日も華の様子を確認するからさ」


 月はそう言うと寝台に横たわった。

 あたしはその横でそっと月の身体に寄り添ってみた。月は動きもしないけれど、拒否したりもしなかった。

 あたしは安心して目を閉じた。

 それから更に目まぐるしく時は経った。



 初めて華を見た時の感動を何と表現すればいいだろう。

 月が最初に良血統の人工花の購入を提案しはじめた時、あたしは実を言うとその事にしっくりきていなかった。

 人工花というものを見たことがなかったし、その実体を想像できていなかった。

 血統の管理等でそんなに変わるものなのだろうか。

 そもそもその血統とは、人間が人間の美的価値観のためだけに設定し、守ってきたようなものであって、あたしのような虫けらが蜜を楽しむためのものではないと思っていた。

 けれど、月のあたしに対する善意であったのは確かだったので、あたしはあまり迷わずに頷いた。


 ――それが、つい三カ月ほど前の話……。


 注文してから華が届けられるまでの間、あたしは大して期待もしていなかった。

 期待していたとすれば、月があたしに贈り物をしてくれるという事実に対してだけだった。

 月に保護されてから、あたしの目には月しか映っていなかった。

 女神だから、恩人だからなのだろうか、いや、そもそも、自分の意識や感覚が魔法にでもかかったように月に惹きつけられるこの現象を、詳しく解析しようなんて無粋な事なのかもしれない。


 あたしはきっとあの美しい女神に恋をしてしまったのだ。

 そう思うことにした。


 そして、離れるのも恋しい人からの贈り物は、想像していたよりもずっと素晴らしいものだった。

 外より施錠された温室の前で、女中が鍵を開けているのを見つめながらあたしは少しだけ自分の胸に期待と不安が浮かんでいるのを感じていた。


「この部屋には内鍵もあります」


 鍵に手をかけながら、その若い女中は言った。


「必要ならばかけてくださいませ」


 感情を抑えに抑えた声で、彼女は鍵を開ける。

 鍵が開き、扉が開かれる。

 硝子張りの壁と温かみのある床。広すぎることはないが、決して狭いわけではないその部屋の真ん中で、やや久しぶりに見る少女の顔がこちらを向いていた。


「終わりましたら、御主人様にお会いください」

「分かった」

「では、私はこれで」

「ありがとう」


 扉を丁寧に閉めて、女中は去っていった。

 その足音を耳にしながら、あたしは扉の内鍵を閉めた。

 そしてあたしは初めて華の蜜を吸ったのだ。それはあたしの日常が大きく変わった出来事でもあった。

 華の蜜はとても濃くて、一日に一度で済ませようと心に決めなくては、いつまでも離れられなくなってしまいそうなくらいだ。

 そんな事になれば、華は弱まり枯れてしまう。

 華に触れれば触れるほど、見つめれば見つめるほど、彼女には枯れて欲しくないと強く思うようになった。

 大切にしなければ。

 それは、敬愛する月からの贈り物であるからというだけではない。


「顔色がいいようだ」


 月の声にあたしはハッとした。

 今いるのは月の部屋だ。特に何も無い日は、一日の大半を彼女はここで過ごしている。彼女が自分の城の庭園に少し足を運ぶのでさえ、この城の者達はいい顔をしない。

 特に、女中頭と執事の叱責はけたたましいものだ。

 あたしが保護された時も、女神であるはずの彼女は随分と叱られていたのを知っている。そして、その叱責に動じることなく、周囲にあたしの手当てを頼んでいた事も。

 月の深みのある目があたしの顔を見つめて細められる。


「あの子の蜜は口に合ったようだね」

「分かるの?」

「私にも匂いがしてくるから。蝶には濃すぎるのではないかと心配したのだけれど」

「大丈夫だったわ」


 あたしは即答した。

 即答したけれど、実は月の心配はあながち間違っていない。


 初めて味わう人工花の蜜の味は、舌が蕩けてしまうのではないかと思うほど美味しいものだった。

 蜜の味だけではない。

 柔らかな華の肌も、可愛らしい顔立ちも、透けるように綺麗な色をした髪も、蜜を吸われる度に生まれてくる感情を押し殺す声も、全てが愛おしく感じられた。

 そして、その雰囲気はやや刺激的すぎて、少しでも気を抜けば簡単に理性を失ってしまいそうなくらい危険なものだった。

 月はまっすぐあたしの目を見つめていた。

 あたしの危惧など見透かしているだろう。

 けれど、彼女は特に何も言わず、小さく「そうか」と頷いただけだった。

 彼女は空虚な微笑みを浮かべてあたしから目を逸らし、窓辺に近寄った。


「今日も森には行くつもりか?」


 こちらを見ることもなく、月は問いかけてきた。


「そうする」


 ややあって月は頷いた。


「それなら気をつけて。何度も言っている事だけど、その傷をつけた相手はまだ森に潜んでいるかもしれないことを忘れてはいけないよ」


 こちらを見ることもなく、月はそう言った。

 あたしは頷きつつ、衣服の下に隠れる傷の一つに触れた。


 この傷が出来た時の事は、やはり思い出せない。

 あたしが思い出せるのは、体中に残るこれらの傷より血が溢れ、意識が朦朧とする中でこの城の門に辿り着いた時の事だけだ。いつから彷徨っていたのか、どうしてここを目指したのか、その全てが思い出せない。

 五体がそろっているのが奇跡的なほど、傷は深く、ところどころ肉も抉れていたらしい。

 痛みなどもうとっくに忘れてしまったけれど、焦りと恐怖だけは思い出せた。

 生きて逃げなくてはならなかった。

 生きてここに辿りつかなくてはならないと思っていたのだ。

 けれど、それは何故だったのだろう。この傷を与えた相手と何か関係があるのだろうか。そこまでは思い出せないのだ。


「――蝶」


 ふと気付けば、月は再び振り返っていた。


「森の中にいる時は、記憶を深追いしてはいけないよ」


 月は言った。


「断片だけを拾って、後は城に帰って来てから私の傍で整理するんだ」


 その優しい言葉にあたしはただ肯いた。



 華の蜜を吸うようになってからも、あたしと月の会話はさほど変わらなかった。


 あたしは毎夜、森で起こったことの話をして、月は毎夜あたしがいない間の華の様子を教えてくれた。

 華は自分の境遇をどう思っているのだろう。

 蜜を吸われるのを嫌がったりはしない。

 もしかしたらそれは、嫌がってはいけないという教育を受けているからかもしれない。どうやら人工花というものは、花売りに様々な教育もなされているらしい。

 特に、華は月の城からの注文があって以来、念入りに教え込まれていたようだった。


 それだけ花売りにとって思い入れのある人工花だったのかもしれない。

 あたしは彼の姿を思い出した。

 明らかにあたしの事を警戒していた。表情には決して出さなかったけれど、あたしの事はあまりよく思わなかっただろう。

 それもそのはず。

 花売りにとって胡蝶は天敵だ。大切な商品である人工花を枯らしてしまうことがあるからだ。それは一部の性質の悪い胡蝶達のせいなのだけれど、花売りにとっては全ての胡蝶がそんな存在に見える事だろう。


 あたしもまた人間は怖かった。

 迂闊に近づけば何をされるか分からない。また、害虫駆除として胡蝶を生け捕りにし、胡蝶を食べる者達に食用として生きたまま売り捌くという恐ろしい事をする者もいるらしいから、人間に近づくなんて馬鹿な真似は辞めた方がいいと思っていた。

 彼らにとってあたし達なんて害虫に過ぎない。

 こんな害虫に自分の育てた花を渡すなんて彼はどんな気持ちだっただろう。

 結局は月より高い金を受け取って華を置いて行った彼だけれど、内心穏やかではなかったはずだ。


「でもそんな事も今となってはあたしには関係ない……」


 ぼんやりと呟いて、あたしはその朝も華の寝泊まりする温室の扉をそっと開けた。

 華はいつも起きて出迎えてくれる。

 あたしの訪れと共に起きることもあるが、殆どはその直前に起きあがっている。


「おはよう、華」


 あたしが問いかけると、華は答える。


「おはよう、蝶」


 その声は何処か拙いけれど、堪らないほど愛おしいものだ。

 あたしが近寄ると、華は緊張する。それでも逃げ出しはせずに、じっとあたしに抱きしめられるのを待つ。

 可愛らしい肢体を見るだけでも、食指が動く。

 彼女の蜜を口にすればするほど、理性が失われていく気がして少しだけ怖い気もした。それでも、彼女の蜜を吸う事はやめられない。

 一日に最低でも一回はこの子の蜜を吸わなければ、あたしはきっと森で野生花を数名ほど枯らしてしまうことになる。

 それだけの蜜が必要だった。

 きっと身体がまだ癒えていないのだと思う。

 華を抱きしめると、とてもいい香りがする。いつも嗅いでいる香りだけれど、嗅ぐ度に心を奪われてしまう。


「よく眠れた?」

「うん」


 適当な話題で問いかけても、華はきちんと反応してくれる。

 その姿は可愛らしくて、あたしはよく華に話しかけた。けれど、話しかけるのは彼女が可愛いからだけではない。何か話していないと、限度を間違える気がしていた。


 この子は生きている。


 蜜を吸うことは危険な事だ。

 あまりにも攻め過ぎれば、この子の身体は限界を迎えて枯れ果ててしまう。あたしは、この手で花を枯らしたことがある。

 胡蝶ならば誰もが通る道だと言われている。

 甘い蜜を求め過ぎて、この手の中で命が失われる瞬間をも味わってしまうのだ。若い胡蝶の誰もが経験し、各々の脳裏に各々の感情と価値観を生む通過儀礼。


 ある者はそれで吹っ切れて手当たり次第に花を襲う。

 ある者はそれに怯えて野生花を目にすることを厭う。

 残りの多くはその中間で、花の命を奪わずとも、花を拒絶ことも出来ないまま大人になり、死ぬまで蜜吸いを繰り返す。


 あたしはどうだっただろう。

 初めてこの手で花を枯らした日の事を覚えている。

 傷が癒えて初めて森へと戻った時に思い出した記憶だ。

 けれど、その時に芽生えたあたしの価値観までは思い出せなかった。あたしはあの傷を負う前、どんな自意識を持って、どんな暮らしをしていたのだろう。


 ただ、こうやって華を抱きしめて身体に触れると、恐れのような感情が浮かんだ。

 彼女の蜜は甘すぎる。

 それはとても素晴らしい味で、残酷な味でもあった。

 枯らしてしまうなんて言葉で誤魔化してはいけない。あたしは華を殺してしまうのではないかという恐怖に怯えていた。


「いつも森で何をしているの?」


 ふと、華が訊ねてきた。

 彼女には初めてここに来た頃の緊張はもうない。あたしに対しても、月に対しても、最初に見せたような何処か隔たりのあるお人形のような態度はとらなくなっていた。

 最近のあたしが聞くのは無邪気で可愛らしい少女の声。

 ただ今だけはその声も震えている。あたしが触れば触るほど、彼女の身体からは力が失われていくようだ。


「別に何も」


 あたしは質問に答え、華の身体に指を這わせた。


「ただ散歩しているだけよ」

「その時も、他の花の蜜を……吸ったりもするの?」


 目を潤ませながら華は聞いてきた。

 蜜を吸われれば、花というものは抵抗を失う。

 胡蝶にとって花の蜜を吸うことが快楽であるように、花にとっても蜜を吸われることは快楽であるらしい。

 それでも華はいつも身体に渦巻く感覚を堪えようとする。その姿を見る度に、あたしは更に攻めたくなってしまう。


「するよ」


 あたしは正直に答えた。

 服をずらして素肌を触ると、華は俯いた。声が漏れだすのを堪えているらしい。別に我慢なんてしなくたっていいのに。そう思ってもあたしは口にしない。

 必死に堪える彼女の姿はとても可愛らしい。


「他の花の蜜も、美味しいの?」


 俯いたまま、華は訊いてきた。

 快感に声が漏れそうな状況を言葉で誤魔化しているらしい。


「そうね。どの花の蜜も夢中にはなれるわ。でも――」


 柔らかな首筋は白くて軟い、美味しそうな色をしている。


「貴女の蜜が一番美味しい」


 あたしはそう言って、華の首筋に唇を押しつけた。

 それだけでも蜜は流れ込んでくる。

 このまま思いっきり吸えば、華の意識は飛んでしまうかもしれない。残酷な事だけれど、一度だけあたしの腕の中で意識を失うこの子を見てみたい気もした。

 勿論、今はそんな事もしない。


 少しだけ華の口から声が漏れだした。

 たったこれだけの関わりで、この子の意識は混濁していく。言葉を紡ぐこともできないまま、ただ愛らしい声だけが温室にぽつりと零されていくばかりだ。

 華はとても繊細な人工花だ。

 もしもこれが野生花だったら、まだ平然としているだろう。

 勿論、これで足りるわけではない。

 華を生かしておくためには、この程度で我慢して、後は森で籠絡した野生花にでも補ってもらうしかないのだ。

 せっかくの月の贈り物だからというだけではない。

 あたしは純粋に、華の命を守りたかった。

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