5.現
◇
野生花の少年は毎晩のように現れた。
硝子張りの壁に付けられたカーテンは常に開けていた。
少年の事が好きなわけではなかったけれど、彼が訪れる事は日課になっていて、いつの間にかわたしも彼の訪れを待っている事に気付いた。
月も、蝶も、まだこの事を知らない。
知ったらどうなるのだろうと考えるだけで少し怖かった。
硝子越しに手を合わせる事があっても、直接触れられない同じ花の友人の存在は、彼女達の目にどう映るだろう。
『考え事をしているね』
ふと声をかけられて、わたしはハッと我に返った。
いつの間にか目の前に少年がきている。
『蝶の事かい?』
彼は迷うことなく訊ねてきた。
相変わらず、遠慮するつもりはないらしい。彼とこうして会うようになって何日経ったのか分からないけれど、彼の態度はあまり変わらない。
でも、最初に感じたような苛立ちや違和感はもうなく、そういう人なのだとありのままに受け止めることが出来るようになってきた。
『別に蝶だけの事じゃないわ』
わたしが答えると、少年は首を傾げた。
だが、それ以上わたしが何も告げないのを確認すると、彼は何かを考えだし、硝子の向こう側で小さく何かを呟いてから、わたしに声を届けてきた。
『今日は森で蝶を見たんだ』
『蝶を?』
『そう。ひと目見て、彼女だってすぐに分かった。胡蝶の中でも目立つからね。何か確認しながら森を彷徨っていたから、なんとなくついていったのさ』
少年は悪びれた様子もなくそう言った。
わたしは思わず喰いつきそうになった。
蝶が森で何をしているのか。具体的に知りたくなったからだ。けれど、その問いが漏れだす既のところで、わたしはどうにか堪えた。幾らなんでもそれは節操がない。蝶が何をしているのか勝手に聞くなんてはしたない事に思えた。
けれど、少年は聞いてもいないのに語り続けるのだ。
『野生花を二、三人誘いこんだ後、倒れる花たちを置いて、平然とその場を立ち去って、また彷徨っていた。危ない目にもあっていたよ』
わたしは少年から目を逸らした。
『……蝶が森で何をしていようと勝手よ』
嘘だった。
本当は、わたし以外の花と関わりを持って欲しくないと思っている。それに、危ない目に遭っているなんて恐ろしくて仕方がなかった。わたしの知らない所で蝶が何をしているのか興味がないはずもない。
でも、その事を口に出す事は躊躇われた。
結局わたしはまるで何も感じていないかのように振る舞うことしか出来ない。
『――あのね、華』
少年の窺うような声にわたしはふと視線を戻した。
月の光を浴びて首を傾げている少年は、天使か何かのように可愛らしいものだった。
『蝶をずっと見ていたのは僕だけではなかったんだ』
少年がそっとその事を告げようとした時、ふと、わたしは誰かの足音が近づいて来る気配を感じた。
『待って、誰か来る……』
少年にその事実のみを告げたとほぼ同時に、扉の向こうから声があがった。
「華?」
『蝶だわ……』
少年が立ち上がった。
こんな時間に来る事なんてなかったのにどうしたというのだろう。
内鍵の閉めてある扉のノブが動き、開かない事を教えられていた。
しばらくしてから、冷静に蝶は言った。
「ここを開けてくれる?」
いつもとは何かが違う声でもあった。
わたしが起きている事も承知済みのはずだ。
まさか、少年がいる事を察しているのだろうか。もしも何処かの部屋の窓から覗いていたらあり得ない事でもない。
「今、開けるから……」
わたしは口で返答し、硝子の向こうにいる少年に告げた。
『蝶を入れるわ。貴方は何処かに隠れて』
『もう気付かれていそうだけれどね』
少年は落ち着き払ってそう言うと、のんびりと去っていった。
彼が遠ざかるのを見てから、わたしは扉の鍵を開けた。
扉はすぐに開き、その不思議と美しい姿がすぐに現れた。鍵を開けたわたしには目もくれずに、蝶はまっすぐ硝子張りの壁へと向かった。
じっと見つめている先に、少年はいない。
けれど、蝶はその去っていった方向から目を放さなかった。
「あの子と何を話していたの?」
「……何のこと?」
「とぼけないで」
蝶は振り返り、わたしに真っ直ぐ視線を送る。
その短い叱責の言葉にわたしは俯くしかなかった。蝶はそんなわたしをしばしじっと見つめていたけれど、やがて、深い溜め息を吐いてわたしの傍へと近寄ってきた。
その手に触れられて、わたしは息を飲んだ。
見つめてくる視線と目を合わすことが出来なかった。
「嘘が下手なのね、貴女」
蝶は呆れたように言うと、そっと唇を奪っていった。
蜜を吸ったわけではない。ただ、軽くキスをしただけに留まった。
「あの子がまた来たら伝えてちょうだい」
唇を離すと蝶は平然と言った。
「野花のくせに胡蝶の後をつけるなんて自殺行為よって」
何もかもを見透かしたような目でそう言うと、蝶はあっさりと立ち去ってしまった。
一人残されたわたしは、扉を閉めることも忘れて、ただじっと蝶の去った廊下を見つめている事しか出来なかった。
◇
怒っていたのだろうか。
それとも何も感じていなかったのだろうか。
わたしは目に見えない蝶の心をただひたすら考え続けていた。いつも繊細な蝶の心が昨夜は更に全く分からなかった。
そうしているうちに、夜の時間はあっという間に過ぎて、いつの間にか朝日は昇っていた。部屋に寝転ぶわたしを温かな朝日が差してくる頃、部屋の扉は音もなく開かれた。
現れたのはいつも通りの蝶だった。
「おはよう、華」
「おはよう……」
普通に返そうと思ったのだけれど、やはり少しだけぎこちなくなってしまった。
けれど、蝶は気に止めることもなく扉を閉め、内鍵をかけた。
昨夜見た時とは違う服が、朝の陽ざしに照らされている。その服もきっと月が彼女に与えたものなのだろう。
蝶は黙ったまま座り込むわたしに近づいた。
いつものように目を合わせることもなく、彼女はその手をわたしの頭にぽんと乗せる。
「あの子と何を話していたの?」
夜中の続きだ。
「あたしには教えられないような事?」
その目に見つめられると、逆らうことが出来なかった。
堪らなくなってわたしは正直に答えた。
「昨日、森で蝶がしていた事を、あの少年は言っていた。蝶が危ない目にも遭っていたって教えてくれたわ」
「そうなんだ」
興味無さげに蝶は言った。
「それで、貴女はなんて?」
「蝶が何をしていようが勝手よ、って」
「そっか」
蝶はようやくしゃがみ込んだ。
見降ろされるよりも安心する行為のはずだった。
けれど、今だけは緊張が増しただけだった。全てを見透かす様な綺麗な瞳が目の前に来ると、身体が震えるような気がした。
この時、わたしは初めて蝶の事が心の底から怖いと思ってしまった。
「その他には何か言っていた?」
抱き寄せられながら、わたしはそっと思い出してみた。
蝶の匂いに包まれていると、寝不足の瞼が閉じてしまいそうになる。
「……蝶をずっと見ていたのは僕だけではなかったんだ」
わたしは少年の言葉を思い出して、そっくりそのまま復唱した。
誰かと居たという事だろうか。野生花でもなく、もっと別の何かを少年は見たと言うことだろうとわたしは受け止めていた。
けれど、それが何なのか彼には言う時間がなかった。
「彼がそう言いかけた時に、貴女が来たの」
「あの子だけじゃない……」
わたしを抱き寄せてまま、蝶はその言葉を呟いた。
「彼は何を見たのかしら?」
本当に不思議そうに蝶は言った。
その様子だと、誰かと歩いていたというわけではないらしい。
「あたしをつけていたのは、あの子だけじゃなかったってこと――」
独り言を呟きながら、蝶はそっとわたしの衣服をずらした。
その手に誘われながら、わたしはゆっくりと蝶に身を委ねた。昨夜のキスとは違う唇の感触が、わたしの唇を塞いだ。
一気に鼓動が早まり、吐息が荒くなった。
身体が震え、体内の蜜もまた震えているのが分かる。蝶の好きなように任せて、わたしは身体の力を解いていった。
唇を離し、蝶はわたしをもう一度抱き寄せた。
抱きしめられているだけで、蜜が吸い取られているようだった。身体をぴったりとくっつけていると、蝶の鼓動もまた早くなっているのが分かった。
「今日も森に行くの……?」
そっとわたしは訊ねてみた。
蝶はわたしの背中を撫でながら答える。
「多分」
その手がずらされた衣服から中に入りこんできた。素肌を触るすべすべとした手の感触に、体中の蜜が歓喜しているようだった。
「昨日、あの野生花の男の子が見たのと同じような事をする」
蝶は言った。
「そして、記憶の欠片を探すの」
「危ない事はしない?」
そう訊ねた瞬間、泣き出しそうになった。
蜜を吸われているせいではない。ただ彼女の事が心配でならなかった。
「しないように気をつけている」
やや確信を持てない返答を蝶は寄こした。
「夕暮れ前には帰るから安心しなさいな」
そう言って、蝶はわたしを床に寝かせた。
倒れこんでくる彼女の重みは全く感じられず、その手先は幽霊のように冷たい。けれど、密着するとその胸元はとても温かくて、仄かな安心感がわたしに伝わってきた。
同時に眠気が込み上げてきた。
「少し眠ってもいいよ」
蝶はわたしの身体を撫でながら言った。
「あたしはもう少し、貴女の蜜を貰うから」
彼女の手に抱かれながら、わたしはゆっくりと眠りに就いた。
◇
目が覚めた時には、辺りはもうすっかり日が傾いていた。
一体どれだけ眠っていたのだろう。硝子の向こうで世界を覆っているオレンジ色は、朝焼けなんかではなくて夕焼けに違いなかった。
わたしは茫然と今日の事を思い出していた。
何も思い出せない。
それもそうだ。わたしが覚えているのは明け方のことだけなのだ。蝶に抱かれて蜜を吸われながら目を閉じて以来、わたしはずっと眠っていた。
その間に蝶は森へと入り、今はそろそろ戻るかという頃だろう。
わたしは立ち上がった。今日一日満足に動いていなかった為、立ち眩みがした。気付けば、わたしの衣服は変えられている。寝ている間に着替えさせられたのだろうか。
扉を開けてみると、城の中はしんと静まり返っていた。
静かなのはいつも同じだ。
来客があれば、ここからは遠いはずの応接間の声が微かに聞こえてくるくらい、他の部屋では物音がしない。
わたしはそっと廊下に出てみた。
誰も居ないようだ。いや、そんな事はないだろう。女中や使用人は休憩でもしているのだろうか。
歩いているうちに夕暮れは過ぎ去り、辺りは暗くなってきた。
普段ならば部屋に戻る時間だ。しかし、今日ばかりはもう少し城をうろつかせて貰おうと思った。
それにしても、皆は何処にいるのだろう。
そんな疑問をぼんやりと浮かべていると、廊下の向こう側から誰かが歩いて来るのを感じた。絨毯の敷かれた廊下ではあまり足音しないはずだ。それでも、コツコツとしっかりとした音が響いている。
この城でそんな風に歩くのは、蝶か月の二人だけだ。
そして、その姿は間違いなくその二人の内の一人だった。
「月……?」
わたしが部屋から出ているのを確認すると、月はまっすぐ近づいてきた。
一人だけだった。女中も使用人も誰も居ない。月はわたしの傍で止まると、じっと見降ろしてきた。
その表情を見上げて気付いた。
彼女の目がいつになく揺らいでいる。
「華。理由は聞かないで欲しい。部屋に戻って、しっかりと施錠していて欲しい」
「何があったの?」
「何でもない。ただ、私は出掛けなくてはならなくなった」
「出掛ける?」
その言葉に驚きを隠せなかった。
月が出掛けるなんて信じられなかった。女中頭や執事をどう説得したというのだろう。ただ、月は焦っているようだった。
「ともかく、すぐに行かなきゃならないんだ。お前は朝になるまで部屋から出るな。使用人たちに何か聞かれても、分からないで通せ」
「でも、月……」
じっと見つめられて、わたしは口籠った。
正式な主人である彼女の無言の圧力には逆らえない。結局、それ以上の事を聞き出せることもなく、わたしは静かに肯いた。
「すまない、華。後で必ず話すから」
月はそう言うと、立ち去ってしまった。
その声が震えているのがとても気になった。
◇
部屋に戻り、月に言われた通りに内鍵をかけた。
『華』
その瞬間声がかかって、わたしは驚いた。
振り返れば、硝子張りの壁の向こうで少年が息を切らしていた。
『華、もう知っているかい……?』
『知っているって何を?』
その様子に驚きつつ問い返すと、少年は硝子の向こうで短く何かを呟いた。そして、息を整えつつ、再び声を届けてくれた。
『大変な事が起こった。月様がいまこの城に代々伝わる聖剣を携えて独りきりで城を出て行ったのだけど――』
少年の顔は青ざめている。
慌ててわたしの元に走ってきたのは明確だった。
『それでは奴の思うつぼだ。多分、奴の本当の狙いは月様の命なんだ』
『何があったの? 奴って誰?』
少年の息が整ってきた。
だが、彼もまた混乱しているらしい。彼はゆっくりと息を整えつつ、硝子越しにわたしの目をしっかりと見つめてきた。
『蝶が……』
少年の言葉がわたしの頭に響く。
『蝶が虫を食らう魔女に捕まってしまったんだ……』
一瞬、何を言われているかさっぱり分からなかった。
――蝶が捕まった? 虫を食らう魔女に?
その意味を分かりたくもなかった。