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蜜吸い  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
4/15

4.夢


 外の世界を夜の風が覆う頃、わたしはぼんやりと硝子張りの壁を見つめていた。

 空を照らすのは本物の月。

 この城に縛られる月よりもずっと明るくて、何の悩みも苦しみも感じていないかのように夜の世界を見守っていた。


 今宵の月の明かりは強すぎて、星の輝きがあまりよく見えない。

 それでもわたしは硝子の壁にくっついて、その空の様子をじっと眺めていた。此処に来るまで、こうして星空をじっくりと眺められる事はあまりなかった。

 花売りの青年の家に居候している時は、窓は小さくて格子があったため、十分に空を眺める事が出来なかったのだ。


 初めてじっくりと星空の素晴らしさを味わえたのは、この城に連れてこられる時の事だ。

 それも花売りの青年がもしも車代をケチらなければ、もしもいつも安い賃金で乗せてくれる知り合いの御者の馬が不調でなければ、味わうことの出来なかった経験だ。


 硝子越しに見える夜空は、それでも十分に美しかった。

 この城のあちこちに飾られている絵画のようだ。画家が見れば、この美しい景色を永遠に留めようと全身全霊を込めることだろう。

 そのくらい綺麗な夜だった。

 あとどのくらいか時が経てば、夜は終わり朝日が昇る。その頃になれば蝶はやってくる。それまでに少しは寝た方がいいかもしれない。

 そんな考えが浮かび、わたしは硝子の壁に背を向けた。


 と、そんな時だった。


 くすりと笑う声が聞こえて、わたしの背筋が凍った。その声は背後から聞こえてきた気がした。けれど、そんなわけがない。この硝子はとても厚く、外の音は聞こえてこないものだからだ。

 では、気のせいだろうか。

 振り返ってみて、わたしは惚けてしまった。


 短い銀髪と目の輝きが一瞬にしてわたしの視界に飛び込んできたのだ。


 庭に少年がいる。それも、わたしの部屋の前で座り込んでこちらを見ている。

 ついさっきまではいなかったのに、いつの間にここに来たのだろう。

 いやそれよりも彼は何者だろう。彼の髪は同じ銀であるし、持つ目の色は、わたしが鏡を覗き込んだ時に確認出来る色に少し似ている気がした。いや、それよりも少し滲んだ薄紅色。

 たまに通りすがる妖精の子供とも何処か違う彼。

 音を通さないはずの硝子の向こうにいる彼の声が、こちらまで聞こえてくる気がするのはどうしてだろう。


『簡単な事だよ』


 彼の声だろうか。

 純粋そうな少年の声がわたしの耳に届いた。

 間違いなく、その声が発信されているのは少年のいる場所だろう。けれど、それにしてはクリア過ぎる。しかも、わたしは気付いてしまった。少年の口が動かなかったのだ。

 どうしてこんな事が出来るのか、わたしが思い当たることは一つしかない。


『初めまして』


 少年は相変わらず口を閉じたまま丁寧に頭を下げた。

 皮肉っているわけでもなければ、別に敬っているわけでもなさそうだった。


『僕は野生花。君と同じ始祖を持つ、月の森の花だよ』


 野生花。

 ああ、ではやはりそうなのだ。少年はわたしと同じ花。花同士であれば、口を介さずとも意思疎通が可能なのだ。

 わたしが口を遣わねばならないのは、花の血を引かぬ者と会話する時だけ。

 久しぶりのその能力を前に、戸惑いを隠せなかった。


『ねえ』


 少年はそんなわたしの戸惑いを全く意に介さずに声を発信し続けた。


『君はここで飼われているのでしょう?』


 訊ねられて、わたしはようやく頷くことが出来た。

 少年はわたしの反応を見て笑みを深めた。


『なんて名前なの?』

『華……』


 ようやくわたしはこの話し方を思い出した。

 長く使っていなくても、思い出してしまえば容易い。


『へえ、華か。そのままなんだね』


 遠慮のない反応にわたしは少しだけムッとした。


『貴方の名前は?』


 その苛立ちを隠して質問を返すと、少年はまた面白そうに笑った。

 妙に突っかかるような笑みに感じる。悪戯っぽいと言えばいいのかもしれないけれど、わたしの兄弟姉妹の中に、こんな笑い方をする子供はいなかった。


『僕には名前なんてないよ』


 彼は驚くほどあっさりと答えた。


『――名前がないの?』


 その驚きがさっきまでの苛立ちを吹き飛ばしてしまった。

 不思議な事だった。

 てっきり、名前を与えられないのは自分が売り物だからだと思っていた。買い手がつけば主人が名前を付けてくれる。

 生みの母などは、わたし達の事を好き勝手に呼んでいたのだが。


『呼び名とか、あだ名とか、そういうものもないの?』


 ないよ、と少年は即答する。


『だって、必要ないもの。他者のことは知り合いかそうでないかが分かればいい。僕が僕であることをいちいち主張することなんて、野生花の世界にはないからね』

『そうなの。結構寂しいのね』

『寂しいっていう感覚もあまり分からないや。世界は面白い事だらけだからね。君も外に出てみれば分かるよ』


 無邪気に笑顔を見せる少年から、わたしは目を逸らした。

 つい相手をしてしまったけれど、これは許される事なのだろうかとふと気になったからだ。月も、蝶も、虫には気をつけろといったけれど、彼は虫ではない。

 けれど、だからと言って許される事なのかどうか自信がなかったのだ。


「蝶は怒ったりするのかしら……」

『え? なんか言った?』


 透かさず少年に訊ねられてわたしは慌てて首を横に振った。


『――ごめんなさい、なんでもないの。外に出るのは怖いからいや』

『怖くなんかないさ。そりゃあ虫がいて危ないかもしれないけれど、からかうくらいの気持ちでいれば怖い事なんてないよ』

『そうだとしても、買われた身だから無理よ。それに、別に外に行かなくたって、このお城の中にも色んな発見があって楽しいのよ』

『ふうん。女神様って怒ったりするの?』

『月は怒らないわ。怒った所を見たこともない』

『じゃあ、君が怯えているのは、蝶とかいう胡蝶の事?』


 少年に無邪気に訊ねられて、ふとわたしは言葉に詰まった。

 蝶を恐れているわけではない。恐れているとしても、それは愛くるしい魅惑に対してだけであって、蝶そのものを怖がっているつもりはなかった。

 けれど、怖い事はあった。

 それは蝶を傷つけてしまうのではないかという事だった。


『もしかして、図星なの?』


 少年の問いに、わたしは再び首を横に振った。


『違う。蝶に怯えているわけじゃない。彼女は繊細で壊れやすいの。だからわたしは、蝶を傷つけたり、心配させたりしたくないの』

『へえ』


 少年は不思議そうにわたしを見やる。


『君はそんな風にあの胡蝶を見ているんだ』


 からかうようなその態度は、やはり好きになれないものだった。

 ただ、彼に悪気がないらしいことも察する事が出来た。元々そういう性格なのだろうか。無邪気に見える彼の心は複雑すぎる色をしていてよく分からなかった。


『じゃあ、君は知らないんだね。胡蝶が森でいつも何をしているのか』

『――え?』

『野生花達は恐れているのさ。恐ろしいほど魅惑的な容姿をした胡蝶のことを。彼らに目を付けられただけで、もう逃げられない。蜜を生みだす者はすべて、愛らしい胡蝶の誘いに抗えないまま、時にその命までも奪われてしまう』

『蝶はそこまで酷い事をしない』

『どうだろうね。彼女だって胡蝶の一人だ』


 少年は目を細めたまま身を乗り出した。

 動かない口からは白い歯が覗いている。


『胡蝶は蜜に飢えればいつだって残酷になれる。生きていくためには花の蜜を吸わなくてはならないからね。知っているかい、華? あの胡蝶がここに保護されて暫くの間、森からは数名の野生花が行方知れずになったんだよ』


 彼が何を言おうとしているのかを察して、わたしは奥歯を噛みしめた。

 動揺しているのは自分でも分かった。

 ここに来た時、蝶は血だらけだったと月は言っていた。その身体が癒えたのは奇跡だと。では、どうやって傷を癒したのだろう。傷を癒している間、蜜はどうやって与えていたのだろう。あまり考えたくない可能性がぼんやりと頭に浮かんできたけれど、わたしは首を振ってかき消した。


『仕方ないのよ』


 わたしは言った。

 明日にでも蝶によって食べられてしまうかもしれないその野生花の一人に向かって、その言葉を声に乗せて放った。


『だって、蝶は死にかけていたのだもの』


 別にこの少年に嫌われたっていい。

 そうしてでもわたしは蝶の肩を持ちたかった。


『そうだね』


 けれど、少年は思いの外あっさりとわたしに同意した。


『僕も仕方ないんだと思うよ』


 硝子越しに見てみれば、少年の表情はあまり変わっていなかった。


『だから、蝶がいつか胡蝶を食べてしまうような虫に捕まったとしても、それもまた仕方ない事なんだろうね』

『それは違う。……そんな事はあって欲しくない!』


 思わずわたしは声を荒げた。

 この能力を使って声を荒げるのは初めてだった。

 そんなわたしの声に驚くわけでもなく、少年はただじっとわたしの目を見つめていた。


『やっぱり、君はあの蝶の事が大好きなんだね』

『ええ、大好きよ』


 その答えはあっさりと発信された。

 喉から小さな吐息が音となって漏れだす。

 蝶が出かける度に、わたしはいつも不安になる。もしも夕暮れの頃に彼女が戻って来ない日があったらどうしよう。

 何故、そんな恐ろしい森に彼女が向かうのか理解が出来なかった。

 蜜ならばわたしが幾らでもあげられる。

 記憶だって無理に取り戻そうとせずに、一緒にいたらいいじゃないか。

 そんな気持ちが溢れそうになって、わたしはぐっと堪えるしかなかった。蝶に直接伝えることの出来ない言葉だった。


『――そっか』


 少年の顔から笑みが引っ込んでいく。


『気分が悪くなったのなら、ごめんね。大好きな人と一緒のここが好きなのなら、それもいいのかもしれないね』


 そう言って少年は、今度は少し変わった笑みを浮かべた。

 具体的に何が違うだろう。

 ともかく、先ほどとは違って、気を遣うような部分が含まれている。無邪気そうな彼にも他人に気を遣うという価値観はあるらしい。


『明日も此処に来てもいい?』


 少年はわたしを見つめたまま窺ってきた。

 その薄紅色の目が、わたしの持つ深紅の目に反射しているようだ。

 どこか懐かしい気がしてしまうのは、やはり、同じ始祖を持つかもしれないと彼が言ったからだろうか。


『別にいいよ。でも、寝ていたらごめんね』

『有難う。いいさ、寝ていた時はそっと帰るから』


 少年は安心したように笑みを深めた。

 その時やっと、彼の本当の笑みを見た気がした。



 目を覚ますと、蝶はもう傍にいた。

 朝焼けに空が染められているのが見える。オレンジ色の光に包まれる彼女の姿は、夕方に森から帰って来る姿を思い出した。

 扉を開けて入って来る音にも気付かなかった。

 起きあがったわたしは、ふと自分が涙を流していたのに気付いた。


「嫌な夢でも見た?」


 蝶に問われて、わたしは首を傾げた。

 夢の内容は全く思い出せなかった。けれど、泣いているということはそういうことなのかもしれない。


「覚えていないの」


 正直に答えると、蝶はそっとしゃがんでわたしと視線を合わせてきた。


「今の気分はどう?」


 オレンジ色の光を全身に浴びながら、蝶はわたしを見つめている。

 その姿は朝焼けにだけ現れる精霊か何かのようだ。


「何ともない。大丈夫」


 蜜を吸う前に蝶はいつも訊ねてくる。

 彼女は常にわたしの体調を気にしているようだった。わたしを枯らしてしまわないか恐れているのだろうか。

 けれど、蝶にどんなに蜜を吸われた所で、枯れてしまうなんてことは想像も出来ない。


「そう。それならよかった」


 蝶は安心したように笑みを浮かべた。

 その笑みはいつ見ても心を奪われてしまう。

 彼女の虜になった花は一体どれだけいるのだろう。

 わたしはじっと蝶の匂いに包まれながら、ぼんやりと浮かんできた疑問を口にしてみた。


「ねえ、蝶。今日も森に行くの?」


 わたしの衣服にかかっていた蝶の手が止まる。

 蝶に抱きしめられたまま、わたしは彼女の返答を待っていた。彼女はしばらくそのままじっと動かずにいたけれど、やがて、溜め息と共にわたしの髪をそっと撫でた。

 月がするのとは全く違うその手つき。


「多分ね」

「どうして行くの? 蜜ならわたしのものを吸えばいいじゃない」

「貴女だけに負担はかけられない」

「負担になんてならないわ」

「どうだろうね。貴女が思っているよりも、胡蝶って言うのは恐ろしいし、虫の抱く蜜への欲求は何処までも深いものなのよ」


 蝶はそっと首筋に唇をつける。

 肌を直接触られると、動くこともままならなくなっていく。


「でも……森には胡蝶を食べてしまう怖い虫がいるのでしょう?」


 辛うじて出る声で訊ねると、蝶は唇を放した。


「そうよ。罠をかけていたり、美しい姿をしたりして、あたし達を惑わすの」

「蝶も惑わされるの?」

「惑わされそうになる事もある。でも、どうにか思い出すの。あれは胡蝶を食べる虫。かつてあたしの友達を目の前で食べてしまった人の仲間だっていう具合に」


 蝶の手がわたしの衣服をずらした。

 顕わになる肌をその手が直接撫でていく。その手に従って、全身に流れている蜜がかき乱されているようだった。


「そうやって少しずつ昔の事を思い出すの」


 蝶はか細い声で呟いた。


「だから、あたしは森に行くの」

「記憶を取り戻すために?」

「そうよ」

「どうして記憶が必要なの? 蝶はもう月に拾われてこのお城の人になったのでしょう?」


 思わず声が荒くなってしまった。

 その瞬間、蝶の手がわたしの背筋を強くなぞり、再び刺激が走った。いつもとは違う力の加減に、わたしは少し怖くなった。


「確かに、あたしはもう森に帰る必要なんてないわね」


 蝶はわたしの背中を触りながらぼんやりと言った。


「でもね、忘れたままではいけないことがある気がするの。月の事は好きだし、貴女の事も大好きよ。だけど、どうしても思い出さなくてはならない事があって、じっとしていられないのよ」


 ――思い出さなくてはいけないことって何?


 聞き返そうとしたその問いは、言葉にならなかった。蝶の唇が再び触れた時、全身の蜜がゆっくりと吸い取られていくのを感じたからだ。

 同時に現れてくるのは、苦しくて蕩けそうな甘い感覚。

 快楽。その二文字が頭に浮かぶ。

 声が漏れだしそうなのを必死に堪えながら、蝶に身体を委ね、わたしはじっとその感触を味わい続けた。

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