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蜜吸い  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
3/15

3.蝶


 ――蝶。


 その名を持つ妖精の娘の姿に、わたしは心を奪われていた。

 一週間以上ぶりに間近で見る蝶は、前にも増して美しく見えた。

 硝子張りの壁から遠くを歩いているのとは全く違う。目の前にいるだけで夢か幻かのように思えてしまう。

 蝶を連れてきたのは月ではなく、女中の一人だった。

 一言、二言、蝶に何かを言うとその女中はすんなりと引きさがり、扉を閉めて何処かへと行ってしまった。


 部屋に残されたのはわたしと蝶の二人だけ。

 彼女の足音が遠ざかるのを聞いてから、蝶は扉の内鍵を閉めてしまった。


「久しぶりね、華」


 その声は耳を蕩けさせるほど魅惑的だった。


「月からいつも話を聞いていたわ」


 目を細める蝶は、妖精と言われてすぐに信じられるほど可愛らしいものだった。

 彼女が近づいて来るのを、わたしは床に座ったままじっと見つめていた。立ち上がろうと想ったけれど、立ち上がる前に蝶はわたしに視線を合わせてきた。

 そっと蝶に頭を撫でられて、わたしは惚けてしまった。


「綺麗な髪。森にいる野生花とはやっぱり違うのね」

「野生花って……」

「森に住んでいる花達の事よ」


 蝶は優しく教えてくれた。

 その手がそっとわたしの頬を触った。その瞬間、何か不思議な感覚がわたしの肌を刺激した気がした。

 まるで何かを吸い取られているかのように、わたしの身体から力が抜ける。


「あたしはいつもその子たちと戯れて帰るの。彼らの蜜の味は薄い。いつも他の虫に誘われるから、あたしが森に行く頃には、大抵もう濃い味は残っていないの」


 そう言いながら蝶はそっと顔を近づけてくる。

 わたしには、蝶の話がぼんやりとしか頭に入って来なかった。触れられ、その吐息が身体にかかるだけで、胸が揺さ振られるような気持ちになる。


「だから、月はあたしに花を買ってくれた。それが貴女」

「どうして、この城にいるの?」


 森に住めば誰よりも先に花の誰かを見つけられそうなのに。

 ふと頭に浮かんだ疑問を口にすると、蝶は少しだけ沈黙した。

 わたしを抱きしめたまま何かを考えているらしい。

 ややあって、彼女はようやく答えてくれた。


「月に拾われたから」


 その吐息が耳にかかり、身体がびくりと震えた。


「あたしはね、ここへ来る前の事を覚えていないの」


 蝶は不可思議な眼差しで、あっさりと自分の身の上を語った。

 淡々と、事実を書かれた文章でも読んでいるかのように。


「気付けば、傷だらけでこの城の門に座りこんでいたの。お城の窓からそれを見た月が、使用人の目を盗んでこっそりとお城を抜けだして助けてくれた。それからずっと、あたしは月の傍にいるの」


 蝶の手がわたしの背中を撫でていく。

 彼女に触れられれば触れられるほど、わたしの身体に痺れが生まれた。ただ、その痺れは、決して不快なものではなかった。

 蝶の唇がわたしの首筋に触れた気がした。


「――力を抜いて。あたしに寄りかかりなさい」


 その言葉が耳に入ると、すんなりと力が抜けてしまった。自分の意思に反してなのかどうかは分からない。それはどうでもよかった。ただ、力を失ったわたしの身体を蝶はしっかりと抱きとめてくれた。

 蝶の唇の感触が身体を侵食していくのが分かる。


「貴女の味は野生花と違う」


 蝶は小さな声で言った。


「深くて濃密で、絶対に森では生きていけない味」

「森では生きていけない?」


 訊ね返す言葉にすら力が入らなくなってきた。

 蝶に寄りかかったまま、わたしはじっと身体に生まれる火照りを感じていた。既に蜜は吸われているらしい。けれどまだ、口をつけた程度なのだと本能的に分かった。

 蝶は手がわたしの服の中に入りこむ。

 その手に直に触れられると、小さな声が漏れだした。苦しいような、苦しくないような、奇妙な感覚だった。

 ただ、嫌ではない。むしろ、心地が良かった。


「一人で森をふらつけば、五分もしないうちに貴女は攫われてしまうでしょうね」


 くすりと笑って蝶はわたしの背中に口をつけた。

 その途端、心臓が跳ね返るような刺激が加わった。

 刺激に押されて、わたしの中から何かが溢れだしていく。目に見えず、触る事も出来ない蜜と呼ばれるものが、わたしに触れている蝶の身体へと流れ込んでいくのが分かった。

 蝶の力が強まる。

 きつく抱きしめられているうちに、意識が遠ざかっていきそうになった。その前に、蝶はわたしの背中から口を放した。


「この蜜……」


 蝶は潤んだ目をしていた。

 うっとりとしたその表情は、可愛らしさだけではなく色気を存分に含んでいた。


「森に住まう虫の理性を一瞬で吹き飛ばしてしまう毒薬のようだわ」


 その独り言に反応する事も出来ない。

 蝶に身体を支えられていないと、このまま床に倒れ込んでしまいそうだった。


「花売りがあたしを快く思わなかったのも頷けるものね」


 空虚な面持ちでそう言うと、蝶はわたしの目をじっと見つめた。


「どう? 怖かった?」


 優しいその問いかけに、わたしは首を横に振った。

 きっとわたしの目にも恍惚のようなものが浮かんでいる事だろう。それを隠す余裕すら今のわたしには残されていなかった。


「そう。それならよかった」


 蝶は小さく笑み、もう一度しっかりと抱きしめてくれた。


「でも、蜜を吸われることに慣れ過ぎてはいけないことなの。あたし以外の虫を簡単に信用しては駄目よ」


 彼女の声は耳元で聞こえる。


「虫の中には花を消耗品だと思っている人がいる。その人は一度花を捕まえたら、死ぬまで蜜を吸ってもいいんだと信じて疑わないの」

「そんな人がいるの?」


 辛うじてその声は出た。


「ええ。だから、あなたの蜜を吸えるのはあたしだけ。それ以外の虫の誘いを受けては駄目。もしも余所の虫がこの城に入りこんでいるのを見つけたら、すぐに何処かへ隠れなさいね」


 蝶に言い聞かせられて、わたしは小さく肯いた。

 花売りや月から教えられたこと以外の事をわたしは知らない。新しいわたしの女主人からは、まずは蝶に従うように命じられている。

 だから、蝶の言葉はよく聞いておくべきだ。

 それは買われたというわたしの立場を考えてのことだけではなく、他ならぬ自分の命を守るためにも必要な事に思えた。


「今日から扉は解放される。貴女はこの部屋を出て、月の城を好きに歩くことが出来るわ。誰も咎めないし、誰も邪魔をしない」


 蝶の愛らしい笑い声は小鳥のさえずりにも似ている。

 聞いているだけでも飽きの来ない声だと思った。


「今まで退屈だったでしょう? それも今日で終わりよ」


 彼女の存在そのものが幻のようだった。

 これこそが人間達に妖精と呼ばれる存在の本性なのかもしれない。


「――でも」


 蝶はそっと甘い声を漏らした。

 その手に全身を撫でられると、頭の中が蕩けてしまいそうな気分になった。身体だけではなく、わたしの意識から命まで、全てを蝶に委ねてもいいような気持ちになる。

 それは多分、彼女が本当に優しく繊細に蜜を吸ってくれるからなのだろう。


「――もう少しだけ」


 蝶の柔らかな唇がわたしの唇に重なった。

 蜜が吸い取られていく感覚だけがわたしの身体を巡っていく。



 初めて蜜を吸われた感覚は、どれだけ月日が経っても、忘れられそうにないものだった。

 その後どんなに蜜を吸われても、初めての感覚は忘れられない。


 蝶が訪ねてくるのはいつも早朝だった。

 どうやら蝶はわたしの蜜を吸った後もまた森へと出かけているらしい。その出かけた先でも花を誘いだして蜜を吸うのだろうか。

 その光景を想像するとやはり胸がちくりと痛んだ。

 わたしの知らない世界に赴き、日が暮れる前に帰って来る蝶。

 森は怖い所だと彼女は教えてくれた。花だけではなく、虫である彼女にとっても危険な場所であるらしい。


 ――森には虫を食べる虫もいるのよ。


 蝶は平然とそう言ってのけた。

 散歩がてら食べられてしまっている仲間を何人も見たと。

 そして、自分もそんな虫に捕まりそうになったことがあると。

 それならば出来ればいかないで欲しいくらいなのだが、彼女とわたしが厳密には対等ではない以上、その気持ちを伝えるなど簡単な事ではない。

 わたしどころか月さえも、森へ向かう彼女を止める事は出来ないらしいのだから尚更だ。


「きっと蝶は森で生まれたのだと思う」


 そう教えてくれたのは月だった。

 今いるのはわたしの部屋ではなく、城の三階にある長廊下の途中だった。赤い絨毯と暗い沈黙とがわたし達を包み込んでいる。

 窓から差し込む明かりを感じながら、わたしは月の話を聞いていた。

 蝶と会えるようになってからも、月は城でわたしを見つける度に話しかけてくれた。


「何も覚えていないらしいが、初めて会った時に身に付けていた服は森に住まう虫達に伝わる刺繍が入っていた。随分と破かれていたけれどね」

「破かれていた?」

「ああ。服だけじゃない。蝶は血だらけの状態で城の門に現れた。ひと目見ただけでも放っておけない状況だったから、城の者達の叱責を覚悟して迎えに行ったってわけだ」


 月は淡々と語った。

 まるで他人事のように聞こえる。


「すぐに手当てをしたから、身体の傷は奇跡的に癒えた。けれど、心の傷が癒えていない。蜘蛛か何かに襲われたのか、それ以外の何かのせいなのかは分からないけれど、蝶は夜を怖がるようになった。私が一緒でないと眠る事も出来ない。だから、彼女の事は放っておけないんだ」

「――森に行くのはいいの?」


 わたしはそっと月を窺った。

 月は廊下の窓辺から森を眺めている。その深みのある色の目は、今も森にて彷徨っているはずの蝶へと向いているのだろう。


「それは止められない」


 月は溜め息混じりに言った。

 本心から認めているわけではないように思わせる態度だった。


「蝶は記憶を取り戻そうとしている。生まれ故郷に赴き、記憶の断片を探ろうとしている。彼女のしたいようにさせる事だけが私に出来ることだ」


 月の眼差しは何処か遠くに向かおうとしていた。

 いつも気だるそうなのは、どうしてだろう。月は恐ろしくこの城から出ない。出る事を禁じるのは女中や使用人だ。特に、執事や女中頭が城主であるはずの彼女に対して厳しいのはわたしにも薄々感じられた。

 この城の者達は月を畏怖しているようだけれど、それ以上に月が外に出ようとすることを恐れているように思えた。


「もし記憶が戻ったら、蝶はこのお城を出て行っちゃったりするかな……?」

「さあね。そうだとしても、私には止められない事だ」


 あっさりとその言葉を口にする月だけれど、何だかその言葉の裏には悲しそうな涙が見えた気がした。

 彼女は孤独なのだ。

 自由を許されてしばらく。わたしはもう気付いていた。

 この城の者達は月に寄り添おうとしない。ただ、月がこの城にいることだけを求めており、その為だけに仕えているように見える。

 月が蝶に託しているのは何だろう。自分には無い自由を蝶へと代わりに託しているのだろうか。少なくともわたしにはそんな風に見えてしまう。


「ねえ、月」


 わたしはそっと月を窺った。

 花売りに注文をつけてわたしを買い取ってくれた女主人の姿は、いつ見てもぶれることのない美しさを秘めている。


「蝶がいなくなってもわたしはずっと此処にいたいな」


 憐れみではなかった。同情でもない。

 買われてから一体どのくらいの月日が経っただろう。蝶と同じくらい、或いはそれ以上に、わたしは月の事も好きだった。

 恐らくそれは、彼女がわたしの正式な主人であるからというだけではない。

 女神だからという理由で片づけるのも何か違う。

 月はふと笑みを浮かべた。やはり空っぽな笑みに思えた。その中に含まれている感情もまた、多分、驚くほど薄くて微量なものなのだろう。


「そうして貰うよ」


 月の深みのある眼差しがわたしを見つめた。


「高い金を払って買ったのだからね」


 からかうように、もしくは、そっけなく言う彼女だったけれど、それはあまり気にならない。

 ただ、その声には何か繊細で空気に触れるのを拒むような類の心が含まれているような気がして、そこがとても気になった。

 黙ったまま見つめていると、月の表情から笑みは消えた。

 そっとわたしの頭を撫でると、あっさりと立ち去ってしまった。

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