2.月
◇
わたしが与えられたのは、城の一階の端にある妙に広い硝子張りの部屋だった。
透明な硝子の向こうには美しく手入れされた庭が広がっていて、たまに小鳥たちが遊んでいるのが見える。
庭師や女中が歩いているのも見えるけれど、誰もわたしの方を見つめ返したりはしない。
まるで向こう側からはこちらが見えていないかのようだ。
でも、見えてないわけではないと分かる時がある。
小鳥や獣がわたしの姿に多少なりとも反応を示すし、時折忍びこむ妖精の子供がわたしの姿を見て不思議そうに首を傾げるからだ。
きっとこの城の者はわたしに無駄に関わらぬようにと言いつけられているのだろう。
もしくは言われずとも、各々が遠慮しているのかもしれない。
月は決して暴言を吐いたり、乱暴な態度をとったりすることはなかったけれど、常に周りの者達に恐れられているようだった。
わたしもまた、月と会うのは緊張した。
月は時折、わたしの部屋を訪れた。わたしの様子を毎日窺い、二、三言会話をしてから新しい服をくれる。
月はいつ見ても美しく、その手に触れられると緊張のほかに嬉しさも感じた。
購入を決めたのは蝶だけれど、金を払い、責任を負っているのは月である。わたしの命運を左右しているのが月である以上、わたしはこの女神に逆らう事は出来ない。
そんなわたしがたじろぐのを見ても、月は何も言わなかった。
「しばらく慣れるまではこの生活が続くと思う」
月はそう言いながら、硝子張りの壁から外を見つめた。
ここに引き取られてから三日ほど経っていた。
「鍵を閉めているのは、別に嫌がらせのつもりではない。ただ、万が一のことに備えているだけさ。盗人や……その他諸々の事態にね」
女神の城にてそんな不届き者が入るなんて天地が引っ繰り返ってもなさそうに思えるけれど、言っている意味はよく分かった。
花売りの青年もそんな理由でわたしの部屋の扉を南京錠で閉じたものだった。
「それ以外のことで不満があったら女中にでも言えばいい。すぐに考慮してやるから」
「御主人様」
「私の事は月でいい。様もいらないし、敬語もいらない。お前は女中ではないのだから、この城の娘として振る舞えばいい」
月は表情一つ変えることなくそう言った。
その流し眼に見つめられて、わたしは戸惑った。
花売りの青年に教えられた事と違う。彼が教えてくれたのは、町に住まう金持ちに貰われた時の振る舞いについてだ。
きっと売られていった兄弟姉妹たちも、その振る舞いを活かして今も買われた家で暮らしているだろうことと思う。
王侯貴族となれば更に上の礼儀を期待されると花売りは言っていた。
この場所はその王侯貴族よりも更に格式高い所であるはずなのだけれど、蝶も、そして他ならぬ主人である月も、どうやら花売りの想定していた類の人物ではないらしい。
躊躇いつつも、わたしは彼女の名を呼んだ。
「――月」
「何?」
それでいいと言わんばかりに、彼女は反応を示してくれた。
「蝶には会えないの?」
素朴な疑問だった。
そして、切実な質問でもあった。
初めてここに来た日以来、わたしは蝶に会っていない。その内会えるだろうと思っていたけれど、三日経っても蝶の姿すら見ることが出来なかった。
そもそもわたしは、まだこの月の城について、与えられたこの部屋と最初に通された応接間以外の場所を知らないままだった。
「蝶に会うのはもう少し待って」
月は淡々と答えた。
「今はまだ会わせられない。でも大丈夫、その内に嫌でも毎日会うことになるから」
「毎日?」
首を傾げるわたしを、月は見つめてきた。
その目に浮かんでいる感情が何物なのか、わたしにはよく分からなかった。
「お前は蝶が何者か分からないようだね」
質問ではなく、確認のような声。
わたしは沈黙したまま頷いた。
「それに、花売りはずいぶんとお前を甘やかしていたな。華、という名前も彼が?」
「……ええ。市場でわたしだけが売れ残ったその夜に貰ったものなの」
その事実を告げるのは、人工花としてとても恥ずかしいことだった。
けれど、月は目の色も顔の表情も一切変えることなく、ただ澄んだ瞳にわたしの姿を映したまま溜め息を漏らす様に呟いた。
「――そうか」
月が歩み出し、わたしは尻込みしそうになった。
とても失礼な事だと分かっていたけれど、神々しい雰囲気の月に近づかれると、萎れてしまいそうだった。
「市場に足を運んでいるのは、ステータス・シンボルとして人工花を迎え入れる金持ちばかりだ」
月は言った。
真っ白な手がわたしの髪をそっと撫でる。
「古くからの貴族や、私のように土地に縛られているような者は、市場で残ってしまったような、前よりも少し成長した花からゆっくりと選ぶ。……何故だか分かるか?」
静かに首を横に振ると、月はそっと笑みを浮かべた。
中身のない笑みだ。
どうしても、空虚で物寂しいものを感じ取ってしまう。
「市場で売れ残るのが、大抵、値段の高過ぎる人工花だからだよ」
じっとわたしの顔を見つめながら、月は言った。
いまいち、ピンと来ないことだった。
早く売れてしまうがいいと母は言っていた。自分のように売れ残ってしまうのは惨めなことだと。だから、わたしもずっとそう思ってきたのだ。
「華」
月はわたしの名前を口にした。
すべすべとした柔肌のような声だ。
「心配せずとも、お前は十分美しい。蝶に選ばれたのだから、もっと自信を持てばいい」
わたしの不安を見透かす様に、彼女はそう言った。
その深みのある目の色が、わたしの脳裏に焼きつけられる。
人工花には決して宿らない類の美しさは、女神と称されることをすんなりと納得出来るほど完璧なものだった。
しばらくして、月は瞼を動かし、わたしから離れた。
「甘い香りだ」
月は、単純な感想を告げた。
「私にさえ分かるのだから、蝶には少し刺激が強いかもしれない」
「何の話?」
わたしが再び首を傾げると、月もまた気だるそうに首を傾げた。
「花売りはお前に何か教えていないのか?」
「わたし達の家系と、引き取られた先での礼儀作法以外は何も……」
「なるほど。じゃあ、彼もこれは想定外だったのだろうな」
月が何の話をしているのか、わたしにはさっぱり分からなかった。
ただ、花売りが蝶の事を警戒していたことを思い出すと、身体が妙に強張った。
「怖がらなくていい」
月はそんなわたしを見て言った。
「蝶は優しい娘だ。それにいざとなれば、私がついている」
「――蝶は、何者なの?」
やっとわたしはその質問を口に出来た。
三日前に見ただけの蝶の姿を思い出す。
人間のように見えるけれど、人間ではない彼女。花であるわたしとも違えば、生き神と讃えられる月ほどの絶対性もない。
ただ、人々に優しく寄り添うそよ風のような不可思議な魅力を秘めた娘。
どう見ても警戒を抱くような相手ではないのに、どうして花売りは緊張していたのか。
「……あれは、胡蝶という種族の娘だ」
「胡蝶?」
「人間達の世界で妖精と分類されている種族の一つだ。彼女はその名の通り、花の生み出す甘い蜜を好む蝶の妖精なのだよ」
胡蝶。蜜を好む蝶の妖精。
それを知った途端、蝶の背中に美しい翅が生えていたような気がしてしまった。同時に、どうして花売りが警戒していたのかも、理解出来た。
――花の蜜を好む。
つまりわたしが買われたのは、蜜のせいだ。
「華、お前はしばらくこの部屋から出るな」
月はやや強めの口調でそんな事を言った。
ちらりとその視線が硝子張りの壁の向こうに広がる庭を見つめた。ここからは見えないけれど、庭の向こうにある高い塀の向こうには、わたしが花売りと共に歩いてきた森が広がっている。
「私の名を持つ森には、沢山の生き物がいる。特に虫の妖精はお前のような可憐な花の娘を攫ってしまうことがある」
「どうして?」
「お前の生み出す蜜のせいだ。私にさえ感じられるその香りは、虫にとって強すぎる刺激となる。ここに来るまでに、誰かにつけられたりはしなかったか?」
月に問われ、わたしはふと花売りに手を引かれていた時の事を思い出した。
彼は絶対に手を離さず、野宿する時は絶対にわたしを不思議な匂いのする布で覆っていた。
移動中ずっと周囲を気にしていたのは、ただ単に盗人を恐れてのことだと思っていたのだけれど――。
「世に暮らす虫は、蝶のように大人しい娘ばかりではない」
月はわたしの答えを待たずに、静かに告げた。
「欲望に身を任せて花の蜜を貪り、枯らしてしまうような乱暴な者もいる」
枯らしてしまう。
それがどんなに乱暴で、残酷な事なのか、具体的には想像出来なかった。
けれど、枯れてしまうことは怖いことだ。枯れてしまえばどんなに周りが手を尽くしても、命が戻ることがないからだ。
市場に売られる前に枯れてしまった兄弟姉妹の事を想うと今でも恐ろしくなる。その度に目撃した花売りの青年の焦った姿は今でも忘れられない。
「そんなに恐ろしい人達なの?」
「ああ、そうだ。花にとって虫は怖い。どんなに優しい性格の虫でも、理性を失えばお前を枯らしてしまうかもしれない。そのくらい、虫は蜜に対して盲目になる可能性がある。でも、蝶の事は怖がらないでやってくれ」
蝶。花の蜜を吸う妖精の娘。
下手をすればわたしは殺されてしまうことがあるのだろうか。それでも、わたしは、月に念を押されずとも、蝶の事を嫌いにはなれなかった。
愛らしい姿のせいだろうか。
もしかすると彼女には花というものを魅了してしまう力があるのだろうか。
三日前に少し会っただけなのに、わたしはすでにその魅了の虜になってしまっているようだった。
「お前を買ったのは蝶のためだ」
月は言った。
今度は感情を押し殺しているかのような声に聞こえた。
「お前の身体に流れる蜜は、蝶にとって癒しとなる。お前の花としての役目は、蝶に蜜を与えることと、蝶以外の虫に心を許さないことの二つだ」
「――二つ」
「それさえ守ってくれればいい。後はお前の体調次第だ。お前の体調が安定してきたら、この部屋から出てもいい。何か質問は?」
月に問われ、わたしはふと浮かび上がった疑問をそっと告げてみた。
「どうして、閉じこもっていなくちゃいけないの?」
盗人を警戒するだけなら、施錠は夜でもよさそうなのに。
「お前の体調がまだ不安定だからだよ」
「わたし、どこも具合悪くないよ?」
「自覚できていなくても、問題がないわけではない。その体調で蝶に鉢合わせすることは好ましくない。蝶は大人しく心優しい子だが、お前の生み出す甘い蜜はその蝶の持って生まれた性格を揺るがしてしまうほどのものだ」
その言葉の意味を理解して、わたしは黙るしかなかった。
わたしが閉じ込められているのは、逃げ出すのを防止するわけではなくて、蝶が入り込まないようにするためなのだ。
「大丈夫だと判断出来たら、まずは蝶に会わせる。それまでは暇かもしれないけれど、ここでじっとしていて欲しい」
月の眼差しに、やや申し訳なさそうな色が浮かんだ。
その色に偽りのない素直なものを感じて、わたしはすんなりと頷くことが出来た。
◇
生き神。女神。
この近辺でそう讃えられていると花売りが教えてくれた月という女のことをわたしはよく知らなかった。
頻繁にわたしの部屋に顔を出してくれる月は、ただの優しい女にも見えたし、見る者を惹きつける力のある魔女にも見えた。
わたしの世話をする女中達は、月の事を心から崇拝しているように感じられたし、誰も月の不満を漏らすものはいなかった。
月は普段何をしているのだろう。
硝子張りのこの部屋に訪れない限り、わたしは正式な主人であるはずの月の姿すら感じることが出来なかった。
まず、彼女は外出をしないらしい。
硝子張りの壁から、この城の正門が見えるのでそれはよく分かった。
門があの一か所だけなのかは分からないけれど、時折あの門を出入りするのは、この城に仕える女中や使用人であったり、来訪者であったりするばかりで、月がそこを歩いているということは一度もなかった。
来訪者の見送りも女中や使用人がしている。
月の姿を見るのは、この部屋に訪ねてきた時だけだ。
その代わり、退屈しのぎに毎日門を見つめるわたしは、一日に一度ほど、月ではない魅力的な人物を目にした。
蝶だ。
ここへ来た日以外、まだ会話をしていない胡蝶の娘。
わたしに見られている事なんて気付かない彼女は、ただ真っ直ぐ門を出て森へと歩きだしていく。そして数時間後、日が暮れるか暮れないかの内に、彼女は再び戻って来る。
何をしにいっているのかは誰も教えてくれない。
けれど、何処へ行っているかは分かった。
蝶はいつも同じ時刻に森へと向かっているようだった。
わたしは蝶を見かける度に、少しだけ心配を募らせた。
ちゃんと戻って来るだろうか。森で何かに襲われたりしないのだろうか。奇妙なことだけれど、わたしは蝶の身が心配だった。
彼女が蜜を吸うために森へ向かっているだろうことはわたしでも容易に想像出来た。胡蝶は蜜を吸わねば生きていけないと月が言っていたからだ。
彼女に蜜を吸われた花はどんな思いだろう。
まだ誰にも自分の蜜を吸われた事のないわたしは、それがどんな状況なのかもよく分からなかった。
蜜を吸われるとはどんな気持ちなのだろう。
月はそれを教えてはくれない。
虫でも花でもない彼女に教えられるわけがないのだけれど、もしかしたら彼女ならば分かるのではないかという妙な期待があったりもしたのは確かだ。
月が訪れるのはいつも、蝶が出かけている間のことだった。
一日に一回は会いに来てくれる。
月が訪れることは嬉しかった。
外に出られない日々は続き、もう七日目になっている。退屈は積み重なり、月の訪れと、硝子張りの壁から見える風景の変化しか楽しみがないのだ。
けれど、そんな日々も終わりが近づいている事を月は教えてくれた。
「顔色がよくなってきたね」
わたしの髪を撫でながら、月は言った。
「そろそろ大丈夫そうだ」
その言葉はわたしにとって心躍ることだった。
退屈な生活も終わり、自由が手に入る。どうやら城からは出して貰えないようだけれど、それでもいい。この部屋は広いけれど、ずっと閉じこもるには狭すぎた。
「明日の朝、蝶を連れてくる。相手をするんだよ」
「分かった」
「戸惑うことがあっても蝶に任せればいい。彼女は慣れているから」
「うん」
慣れている。
蜜を吸うことに。
そのことを考えると何故だか胸がちくりと痛んだ。その痛みが何なのか、その正体がわたしには分からなかった。
「蝶はお前に会うのをとても楽しみにしている」
わたしを撫でながら、月は微笑を浮かべた。
その神秘的な笑みが温かい。
「蜜を吸われるってどんな気持ちなの?」
わたしはふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
月は手を止めて小さく「さあ」と首を傾げた。
「私は虫でも花でもないからね」
かねがね、わたしが思っていた通りの事を彼女は言った。
「私が知っているのは、花は虫を寄せて蜜を吸わせ、虫は花を見つけ蜜を吸うということだけだ。蜜吸いは自然界でもお互いにとって大事な儀式で、ただ単に虫の抱える欲望を満たすためだけのものではないということだ」
月の言っている意味はよく分からなかった。
花売りもあまりきちんとは教えてくれなかった。蜜吸いの真意について詳しく知るのは、もっと大人になってからか、わたしが母のような立場になってからのことだと彼は言っていた。
今頃余所に買われた兄弟姉妹たちはどうしているのだろう。もう誰かに蜜を吸われたりしたのだろうか。
「ともかく、お前が心配するようなことではないよ」
月はそうとだけ言って、再びわたしの髪を手で解いた。