5.救出
◇
しんとした冷たい空気が荒れた広間に漂っている。
私が感じるのはその埃っぽい空気と、全身を流れる汗と、思考を鈍らせるほどの痛みばかりだった。
食虫花の鋭い視線を背中に浴びながら、私は床に視線を落とした。
あと少しだった。あと少しで蝶だけでも逃がせたかもしれない。鍵の解除された扉はまだ閉められたままだ。その手前で蝶は床を突き破って生える蔓に捕まって震えていた。
蝶はよく頑張ったと思う。
あの身体で無理をさせたというのは自覚している。
食虫花がただの人間だったら、難なくこの部屋から逃げられただろう。けれど、彼女はただの人間ではない。野生花であり、怪しげな術を駆使する魔女と呼ばれる者。
ここは魔女のテリトリーだ。
始めから戦況の利はあちらにある。
くすりと笑う声が聞こえ、痛みが再び増大した。右肩を突き刺していた蔓が抜かれ、大量の血と共に力が抜けだしていく。
膝より下の感覚が鈍り、私はそのまま崩れ落ちた。
「月!」
蝶のかすれた悲鳴が聞こえた。
――せめて、彼女だけでも。
そう思った時に、食虫花の手に負傷している方の肩を掴まれた。その痛みに顔を歪める間もなく、強い力によって振り返らされた。向き合えば、食虫花がその美しい目に猛獣のような光を宿しているのが分かった。
「――二十年よ」
食虫花は言った。
「私がどんな思いでいたか貴女に分かる?」
その人間のような綺麗な手が左胸付近に触れてきて、私はぞっとした。
「どんなに美しく瑞々しい虫の身体も私の欲を満たしてくれない。数多の虫の少女の血肉を味わいながら、私の頭に巡っていたのは常に幼い頃の貴女の姿。貴女に触れた時に感じた、柔らかく美味しそうな血と肉の感覚。あれからずっと食べても、食べても、満たされない二十年を過ごしてきたの。その気持ちが貴女に分かる?」
狂っている。
その目を見た時に、確信した。冷静な仮面の下にくすぶっていたのは、深い混沌と欲望に思考を染めてしまった魔女の感情。
荒々しい花の眼差しは、私の心を突き刺すようだった。
先程までの余裕さはなくなり、美しい顔からは笑みも消えている。興奮が彼女の身体を支配しているのが分かった。
「貴女さえ手に入れれば、この欲望は満たされる」
その切実な姿は、まるで追い詰められているようにも見えた。
「貴女さえ食べてしまえば――」
食虫花の力に抗えなかった。時間が経てばたつほど、身体の力が抜けていくような気がした。痛みはとうに感じなくなってきていた。ただ、どくどくとした鼓動の感覚だけが、私の負傷した肩を震わせている。
床に抑えつけられて、私はただじっと追い詰められたような表情の魔女を見上げているしかなかった。
どうして食虫花の方が怯えているのだろう。
「全てが解決するの」
落ち着きを取り戻した声で、食虫花は私を見降ろした。
もう駄目だ。
力が出ない身体を引きずっていては、逃れる術は残されていなかった。私の代で月の大地は枯れてしまうだろう。時間もあまり残されていない。せめて、蝶の前ではこんな事になりたくなかった。けれど、それを願う暇もないようだ。
蝶の声が聞こえた。
悲鳴を上げて、私の名前を呼んでいる。その声に答えたかったけれど、食虫花の鋭い視線に睨みを返すことしか出来なかった。
精神だけでも屈服はしたくない。
それは女神として生まれた虚しい意地だった。
痛みに声を漏らさぬように覚悟を決め、私は死の訪れを待った。
そんな時だった。
「月、蝶!」
力一杯扉を開ける音と共に、この場で聞くはずのない声が響き、私は呆気にとられた。私だけではない。食虫花も、そして、こちらからは見えないが、恐らく蝶も驚いている事だろう。
足音は二人分。
驚愕する私達には構わずに、その二人は真っ直ぐ部屋に駆け込んできた。そして、まだ茫然としている食虫花に向かって飛びかかる者が私の目にも見えた。
私と食虫花との間に割り込む白い影。
それは、私が幼い頃にこの目でみたはずの、記憶の奥に眠っていた光景によく似ているような気がした。
私を庇い食虫花に敵意を向ける人工花。
食虫花に必死に掴みかかっている銀髪の少女。
「華……」
どうにかその名を口にし、私はハッと後ろを見た。
蝶の傍に華によく似た姿の少年がいる。手に持っているのは小刀。蝶を拘束していた蔓はとうに切られていた。
――助けだ。
やっと私はそれを理解した。
どうして華が城の外にいるのか、だいたいは予想が出来る。あの少年がこっそりと連れだしたのだろう。
一人よりも二人。
森の中でも弱い立場にあるはずの花の子供達は、あらゆる危険を顧みずに此処まで辿り着いた。そして、私と蝶の危機を救った。
食虫花の苛立った声が聞こえた。
華に邪魔されてかなり怒っている。呪詛のこめられた声と、華の短い悲鳴とが聞こえた。その声につられて振り返る前に、私は床に落ちる聖剣を拾った。
そっと振り返ると、食虫花と華が掴みあっていた。
野生花である食虫花と、生まれつき人の手で守られてきた華。
力差は歴然だ。
けれど、華の表情はしっかりとしていた。どんなに強い力で床に抑えつけられていても、彼女は諦めずに食虫花に抗っていた。
「華……」
今まで彼女に感じてきた印象とは全く違った。まるで、何者かが乗り移ったように見える。私はかつて、あの表情をした人工花を毎日見ていたのだ。記憶は薄まり、殆ど覚えていない。だが、確実に彼女はいた。
今はもう肖像画でしか知らない彼女。
母の愛した人工花。
「忌々しい人工花が……」
息を荒げながら食虫花は華を見降ろした。
「金で取引される愛玩奴隷のくせに生意気なのよ……」
その鋭い爪が華を傷つける前に、私は立ち上がった。
左手で持つ聖剣には違和感があった。だが、全く扱えないわけではない。そう、ただ切りつけるだけならば、使い慣れていない左手でも十分だった。
聖剣を持って迫る私に気付いて、食虫花は華の身体を乱暴に引き寄せた。
盾にするつもりかもしれない。だが、惑わされなかった。
――大丈夫だ。
華には当たらない。
引き寄せられた華は激しく抵抗し、遂には食虫花の手を逃れ、離れていく。細くて白い身体の何処にそんな力があるのかと不思議なくらいだった。だが、その不思議さを噛みしめるより先に、私の持つ聖剣の矛先が、食虫花の身体を貫いていた。
弱々しい悲鳴と共に食虫花の身体が震える。
その感覚が聖剣を介して私の手にも伝わってきた。血が流れ出すのが見えて、私はさらに聖剣を押しこんだ。
絶大な痛みに震える食虫花だったが、その目が恨みを込めて私を見つめてきた。彼女の手が上がり、私へと伸ばされる。
「諦めるものか……」
だが、その手は私には届かない。
食虫花の身体より力が抜けていくのを感じて、私は聖剣を引きぬいた。食虫花の身体がただの物のように崩れ落ち、その血が床を汚す。やがて、荒い息遣いと共に、彼女の身体は塵のように崩れていく。
枯れはしなかった。
まだ生きているのかどうかも分からない。ただ、食虫花の身体は塵となり、何処へともなく攫われていってしまった。
その末路をどう受け止めればいいのだろう。
私は聖剣を持ったまま暫く食虫花の残した血だまりを見つめていた。あれだけ深く突き刺せば、普通の生き物ならば死ぬだろう。しかし、あれはただの生き物ではない。
食虫花は去った。
けれど、消滅はしていない。
その事実をどう受け止めればいいのだろう。
と、そこまで考えた時に、血の気が失せるのを感じた。肩より血は流れ、着ている服の半分を赤黒く染めている。趣味の悪い模様が広がっているのが見えて、私は床にしゃがみ込んだ。
「月……」
蝶が立ち上がった。
振り返れば、華も、蝶も、そして野生花の少年も、私をじっと見つめていた。
静寂と共に三人の視線を確認し、私はようやく状況の変化を実感する事が出来た。
危険は去った。
私達は助かったのだ。
◇
どうにか城に帰ってみれば、大変な騒ぎになっていた。
帰ってきた私達を見て、城の者達はさらに面倒なほどの騒ぎを起こした。特に、女中頭は、蝶と華が見ているのに構わず、負傷した私を見るなり甲高い声で取り乱した。
これで暫くは彼女の小言を黙って聞き流す機会が増えることだろう。
もしかすれば部屋を出るだけで何処へ行くのかしつこく訊ねられるような日々はこれから先数年ほど続くかもしれない。けれど、ややヒステリックな彼女の小言をまた生きて聞けるのは逆に有難い事なのかも知れないと思う事にした。
執事もまた私達の有様を見るなり、老いた顔を真っ赤にした。
彼の方は蝶や華の前で怒声をあげるような感情的な事はしなかったが、彼女達がそれぞれ私の傍を離れていれば、すぐにぐちぐちと文句を口にした。
私は二人の叱責を黙って聞いた。
口答えは許されないくらい危ない事をしたという自覚はあった。
食虫花の蔓にやられた肩の傷は深く、しばらくは右手を使うのも困難なようだった。だが、私は人間のようで厳密には人間ではないから、そのうち動くだろうと城の者たちには言われた。
蝶の様子は深刻だった。
傷も深く、せっかく塞がっていた傷だけでは飽き足らず、身体のあらゆる所が深く傷つけられていた。それでも、こちらは花の蜜を吸えばいつか癒えるかもしれない。
問題なのは、心の方だった。
「ごめんなさい」
私の目の前で、もしくは、私のいないところで、彼女は震えながら己の行動を悔やんでいた。記憶が戻ったという彼女は、今度は城の外に出られなくなった。森に行くどころか、庭に出ることもしない。
身体の傷のせいで常に蜜が足らない癖に、毎朝華より少しだけ吸うだけに留め、野生花を求めに行かなくなってしまった。
傷を癒すために必要な蜜の事は私の方で何とか出来るだろう。
けれど、閉じこもり気味な心の方は、私の働きかけではどうにもならなかった。
蝶は度々怯えながら謝る。
「ごめんなさい」
震える蝶を抱きしめ、私はその度に囁いた。
「謝る事は無いよ。無事で帰って来られたのだから」
蝶はその度に頷き、涙を拭う。
記憶を取り戻した彼女は、私の城に居座る事を決めていた。刺青を入れる日はもう間もなくのことだった。
華の方は食虫花の件以来、城の者たちにも一目置かれるようになっていた。既に刺青も入った彼女は、殆ど自由に振る舞う事を許されていた。
彼女の役目は毎朝蝶に蜜を与える事だ。吸われるのではなく、最近は華の方が蝶に呑ませているようにすら思えるらしい。それ以外の時は、庭であの野生花の少年と直接会っているらしい。
時々、城の者の目を盗んで森まで行っているのが窓辺より見えたが、私は黙認した。庭ならまだしも森だなんて、他の者にばれたら大目玉だろう。特に、女中頭と執事にばれたら大変だ。彼らは強い口調で忠告するだろう。何かあった時はどうするのだと私を責めるだろう。
けれど、その何かを恐れて華の自由を奪うという気にはなれなかった。
少年の誘いに乗り、自由に振る舞った華のお陰で、私も蝶も助かったのだから。
あの日の事を、華は精一杯の言葉で教えてくれた。少年に誘いだされて、思い切って城を抜けだした後、彼女はただひたすら蝶と私を助けることだけを考えていたらしい。
少年だけだったら、助かっただろうか。
いや、華が食虫花を阻んでくれなければ、蝶か私のどちらかしか助からなかっただろう。その結末が容易に想像できた。
あれ以来、食虫花の気配はしない。
蝶が引きこもっている限り、胡蝶に伝わる噂も聞けず、果してあの女が生きているかどうかも分からなかった。
もしかしたら、この危険は本当の意味で去っていないのかもしれない。
けれど、だからと言って、今が比較的平穏な状況であるという事実は覆りそうにもないことも確かな事であった。
大人しく部屋に籠る蝶を慰めながら、私はふと窓辺より見える森の色を目に映した。
月と名のつく大地は枯れないまま、何事もなかったように広がっていた。