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蜜吸い  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
13/15

3.少年


 昼下がり、蝶が森から逃げかえるのをたまたま目撃してしまったのはそれから数日と経たない時の事だった。

 彼女を誘導するように走っていたのは、毎晩のように我が城の庭に忍び込む野生花の少年だった。いつも華の寝泊まりする部屋を眺めているあの少年に間違いなかった。

 最初は、蝶が彼を追いかけているのだと思った。

 しかし、そうではないと分かったのは、蝶が少年を追い越して必死に我が城の庭へと飛び込んだからだ。

 次いで現れた女を見た時、私はもうじっとしていられなかった。


 ――蟷螂。


 その種族の名前はすぐに頭を過ぎった。多くは幼生のまま死んでしまうが、大人へとなれた者は活発で乱暴な事が多く、獲物に慈悲をもたらさない。

 そんな女に蝶は追われていた。

 ただ追われていたなんて思う訳がない。蟷螂の女は間違いなく、蝶を食べるために追いかけていたのだろう。

 まさか、我が城に入りこんでまで蝶を襲う事はないはずだ。

 だが、私は庭へと向かわずにはいられなかった。

 階段を降りると、開けっぱなしの玄関扉の向こうで、蟷螂の女が何やら暴言を吐いているのが見えた。

 城の敷地内には一歩も入れないらしい。

 私が見ている事に気付いたのか、蟷螂はややうろたえつつその場に座り込んだ。だが、蝶のことを諦めた様子は見せない。


 無事ならそれでいい。

 だが、恐ろしいことだ。


 あの蟷螂は蝶が私の城の者であることを思い知らされたはずだ。私の膝元で蝶を襲ったりしないという分別まである。それなのに、蝶を諦める様子を見せていないのは何故か。

 つまり、彼女は私が見ていない時を狙って、蝶を殺すつもりなのだ。

 月の紋章が意味を成さない相手は厄介だ。

 大方、月と呼ばれる女の命さえ守られていればいいという考えのものだろう。

 蟷螂に睨まれたまま、蝶はとぼとぼと城の中へと入ってきた。入ってすぐに私とまともに目が合い、蝶の目が大きく見開かれた。


「――月」


 茫然としたように彼女は呟く。

 私は静かに頷いた。


「窓辺から見ていた。蟷螂に追われていたね」


 蝶は固まったまま口を閉ざした。

 私の事すら怖がっているのだろうか。緊張から解放されないまま、彼女は立ち尽くしてしまった。


「――蝶」


 声をかけると、彼女はぴくりと震えた。

 私は静かに、蝶の目を見つめた。美しく、瑞々しい姿を持つ蝶。その目に光が宿ったまま、彼女は帰りつくことが出来た。

 それは私にとっても、大変有難いことであった。


「おかえり」


 その言葉を口にした途端、蝶の目から涙が零れ落ちた。

 近づいても、彼女は逃げない。

 そっと抱き寄せると、蝶の身体は目に見えていた以上に大きく震えていた事が分かった。私は蝶を抱き寄せたまま、庭の向こうを見た。

 森へと続く門の境には、まだ蟷螂がいる。

 私に気付きながらも、なおも彼女は立ち去ろうとしてない。蟷螂の姿を睨みながら、私は正面玄関の扉をゆっくりと閉めてしまった。

 光が弱まり、蝶の震えが少し止まった。

 彼女を襲っていた恐怖が、少しだけ緩和されたのかもしれない。


「少し休むといい」


 私の声に、蝶は黙って頷いた。



 それから間もなく、寝室にて蝶は泣きながら眠ってしまった。

 完全に寝付くまで、彼女は私が離れる事を怖がった。私の身体に縋りつき、震えながら涙を流す彼女を、私は放っておくことが出来なかった。

 下手をすれば殺されていた。

 残酷な方法で命を奪われていた。

 その事実が彼女の繊細な心と体を蝕んでいるようだ。

 やっと寝付いた蝶の柔らかな身体を静かに撫でながら、私は窓辺より目にした光景を思い出していた。


 蝶より先に走ってきた野生花の少年。

 蟷螂が追いつく頃には、気付けば彼は何処かへ消えていた。

 彼が、蟷螂に追われて混乱する蝶をどうにか誘導したのは間違いない。彼がいなければ、蝶はどうなっていただろう。

 森に住まう虫の妖精たちの生態について書かれた本の内容を思い出す。

 彼らの世界はとても殺伐としていて、うっかり気を抜けば肉食者だって他の肉食者に喰われてしまうかもしれないほど辛辣なものらしい。

 肉食者の獲物の喰い方はどれも残忍なものに見えたが、蟷螂もその一人だった。

 彼らは止めを刺さずに捕まえた獲物を喰い始める。

 獲物の衣服を剥ぎ、存分に辱めてから、すぐには命を奪わない場所より喰い始めるのだ。あの女も蝶にそうするつもりだったのかもしれない。

 だとすれば、とんでもない悪魔だ。

 必要以上の苦痛を他ならぬ蝶に与えようとしていたと思うだけでもぞっとする。


 今になって、私にもまた恐怖が鮮明になってきた。

 これまでは蝶の言葉のみで知ることが出来た事実だった。けれど、今日は初めて現場を見てしまった。誤魔化しようもない直接的な光景を、この目に収めてしまったことは、少しずつ、けれど確実に、私の心を揺さ振るほどのものだった。

 疲れて眠る蝶の身体に、私はそっと触れてみた。

 温かく、吐息も感じられる。

 衣服の間より顕わになる肌の所々には、傷痕が消えずに残されている。もしかして、この傷をつけたのは蟷螂だろうか。

 いや、それは分からない。

 胡蝶にこんな傷を負わせる生き物なんて、あの森には溢れすぎていて一つには絞りきれないことだろう。


 私はそっと蝶から離れ、窓辺に近づいた。

 城の外に広がる森は見た目こそは絵画のように美しい。いや、絵画があれを真似しているだけだと私は知っている。

 幼い頃からあの森の色だけは見ることが出来た。


 外への憧れそのものを表しているかのような景色だ。そのことだけは、幼い頃から変わりそうもない。

 これでも、記憶にすら残っていないような幼子の頃は、私も城の者の同伴付きでなら庭より少しだけ森に出ることが許されていたらしい。

 それすらも禁止されてしまった理由は、何者かが私を直接攫おうとしたからだと聞いている。右も左も分からない私を庇い、しっかりと守ってくれたのは、当時はまだ生きていた、かつて母に愛された人工花。

 数日後、彼女は蝙蝠に惨殺された。

 犯人は、私の事を月であることが分からなかったわけではない。


 あの森には、この大地を枯らしてもいいと思っている者がいる。その者が母の遺した人工花を散らしてしまったのだと城の者は言った。

 私の記憶に残らないほど昔の事だ。

 蝙蝠の精霊が私を攫ったのかといえば、そういうわけでもないらしい。

 ともかく、あの森はいかに私の名を持つとはいえ、迂闊に近寄るべき所ではない。もしも城に仕える者の誰かが森に住まう者に囚われたとしても、その犯人の要求は呑んではならないと強く教えられてきた。

 そんな危険な場所。

 今の安全は、私が死ねばこの大地が枯れてしまうという事実と、女神に対する脆い信仰心の上にのみ成り立っているに過ぎない。

 そんな当り前の現実が、今になって私の心を揺さ振った。


 ――蝶を外に出すか否か……。


 と、その時、ふと私は庭へと目をやった。

 華によく似た白い髪を持つ子供の彷徨っている姿が見えたからだ。


 ――野生花……。


 毎晩のように華の温室を覗いている少年の容姿はすっかり覚えてしまった。

 彼はまさか自分が私に見られているなんて思いもしないだろう。だが、それはどうでもよかった。

 私は蝶がぐっすり寝ているのを確認すると、音を立てずに寝室を後にした。

 私の方も城の者達に見つからないようにそっと階段を下り、正面玄関の扉を開けた。

 野生花の少年は庭の片隅で何かを見つめていた。

 それなりの音がしたはずなのだが、扉が開いたことに気付いていない。城の者たちが誰も来ない事を確認してから、私はそっと彼に近寄った。


「華なら別の所にいる」


 出来るだけ穏やかな声を意識して、彼に声をかけた。

 彼は驚いて私を振り返った。薄紅色の目が印象的だった。仄かに香るのは蜜の匂い。華よりもずっと弱いのは森で暮らしているからなのかもしれない。

 少年は驚きから立ち直れないまま私を見上げた。


「……月……様?」


 私は視線で肯いた。

 少年の幼い顔立ちに驚きの表情が広がっていく。


「多分、日が落ちないと温室には戻らないだろうね」


 少年は目を泳がせた。

 咎められると思ったのかもしれない。だが、私はそれには構わずに、言いたかった事を早々と口にした。


「蝶を助けてくれたようだな」


 のんびりしていると、城の者に見つかってしまうかもしれない。


「礼を言う」


 私の言葉に少年はまた驚いたような色の目で私の顔を見つめた。

 自分がどういう表情をしていたか分からないけれど、彼は彼で私が咎める気などない事を悟ったようで少しだけ緊張を解いた。


「たまたま見ちゃったから……」


 少年はあどけなさの残る声で答えた。


「城への道はよく覚えていたし……」

「有難う」


 心からの感謝の言葉でもあった。

 少年がいなければ、蝶は辿りつけなかっただろうことは容易に想像できるからだ。

 当の本人は惚けたように私の礼を受け止めていたが、しばらくして、その目の色がふとあからさまに変化した。


「月様」


 少年は言った。


「貴女の胡蝶が森で僕以外の何者かにつけられていました」


 子供らしく、だが、とても丁寧な言葉で彼は頭を下げた。


「何者かって……?」


 問い返すと、少年は頷く。


「追ってきた蟷螂とは別の女です。彼女は虫の妖精ではなく、僕達のような野生花に見えました。……でも、様子がおかしいのです」


 少年は不穏そうに言った。


「僕達の仲間なら、大抵は胡蝶に見惚れます。胡蝶の魅力に敵わず、目で追ってしまうのは分かります。でも、彼女は違った。胡蝶に見惚れているわけではなく、彼女の行動をただ冷たい眼差しで見つめていたんです」


 胡蝶を見張る野生花の女。

 あまり想像が出来ない。普通、野生花といえば胡蝶に見惚れて現れてしまうか、見つめたままじっと動かないかの二つだと聞いている。

 ただ冷たい眼差しで胡蝶を見つめる野生花なんているのだろうか。

 いるとして、それはもはや野生花と言っていいのだろうか。

 もしやその野生花は、蝶の身元を分かった上で、何かよからぬことを企んでいる者なのではないだろうか。

 私はふと少年に訊ねた。


「その野生花の女は――」


 と、その途中だった。


「月様!」


 開けっぱなしの正面玄関より執事の大声が響き、庭にいたらしい小鳥たちが驚いて逃げていった。

 野生花の少年も驚いて身体をぴくりと言わせた。

 何も答えずに振り返ると、顔を真っ赤にした初老の男がこちらを真っ直ぐ見ていた。


 ――見つかってしまったか。


 彼から視線を変えずに、私は野生花の少年に言った。


「何か変わった者を見た時は、また教えに来て欲しい」


 少年が肯くのを感じ、私は彼から離れ、大人しく執事の待っている正面玄関へと歩いた。



 ――ご自分の立場をお忘れになられぬよう。


 少年と別れた後は、執事による小言の嵐の相手に追われた。

 執事から話を聞いたらしい女中頭までが私を責め立て始めるものだから、特に用事もない日であったのに、すっかり疲れてしまった。

 翌日になって、子供の頃より使用している自室にてじっとしていても、雑用で訪れた女中頭が何かしら一言残して去るので堪ったものではないのだが、それも覚悟の上だったと思いなおし、私は努めて心を落ち着かせた。


 誰も居なくなってほっとしながら、私はぼんやりと部屋の壁にずっとかけてある美しい剣を眺める。

 顔も覚えていない母より譲り受けた聖剣。

 私は子供の頃よりこの剣の扱い方を教わってきた。この剣の持ち主である限り、すなわち、命を落としてしまうまで、剣は私の言う事をよく聞いて鋭い切れ味を約束してくれるのだそうだ。

 これまでの女神たちは、この聖剣を携えて自分の統治する大地を歩き回ることが出来た、という事実は、長らく誰も私に教えてくれなかった。

 私は許されていないし、これからも許されることはないのだろう。


 この剣を使うのは、万が一、この城に不届き者が忍び込んだ時だけだと師範すらも幼い頃から度々言うのだ。

 そのくらい、私は信用されていない。

 執事や女中頭に嫌われているからというわけではない。幼い頃に何者かが私を攫おうとして以来、誰もがぴりぴりとしているようだった。

 だからと言って、自分の城の庭に出ただけであれほど叱責されるのは正直辛かった。


「何が女神だ……」


 誰もいない部屋で、私は苛立ちをそのまま吐き捨てた。

 あの剣を使えば、私だって外に出られるはずだ。でも、それは許されないし、私自身も望んではいない。

 万が一、剣で身を守れなかった時の罪が重すぎるからだ。


 名ばかりの聖剣の美しい鞘を見つめながら、私はぼんやりと今日の昼前にあった事を思い出していた。

 昨日、あんな目に遭ったにも関わらず、蝶はまた森へ行こうとしていた。彼女の姿をたまたま見かけて、私は慌てて呼び止めた。

 その数時間前に、女中の一人の報告を聞いていたからだ。


 ――華の様子がおかしい。


 恐れていた事は的中した。ぐっすり眠っているように見える華だが、ただ眠っているのではなく、昏睡してしまっていたのだ。

 蜜の匂いは薄く、いつもよりも血色がだいぶ薄い。

 可憐な人工花の少女がどうしてそうなったのかは考えるまでもなかった。


 ――蝶だ。


 蜜吸いが濃厚すぎて、まだ不完全な少女の肉体には重たすぎた。それを蝶は全く自覚していなかった。

 私に言われてから自分のしたことを知り、怯え始めたのだ。

 このまま森へと行かせてはならない。

 強く思ったのはその時だった。乱暴に引き寄せようとしたけれど、いつもは軽いはずの胡蝶の身体がその時ばかりは強張っていて、非常に強い抵抗を受けるはめになった。

 そこまでして森に行きたがっている。

 記憶を取り戻す事と自分で蜜を集める事にばかり囚われて冷静でいられないその娘は、私の視線を強く跳ね返した。


 私は迷った。

 このまま彼女を離さないでいることも出来たはずだった。その方がよかったはずだ。それなのに、澄んだ胡蝶の目に見つめられているうちに、私はすっと手を放し、彼女が森へ向かう事を許可してしまったのだ。


 ――あれで本当によかったのか。


 夕暮れが近づく今になっても、私はまだ思い悩んでいた。

 奇妙な不安が渦を巻いて私の心をかき乱していた。

 そして、夕暮れが訪れるよりも先に、その不安は的中してしまった。

 それは、日の傾きと共に野生花の少年が正式にこの城を訪ねてくるという形で舞い込んだ、私が絶対に望むことのない知らせだった。

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