2.妖精
◇
人工花の購入は、蝶にとってあまりピンとくるものではなかったらしい。
それもそうだろうとは思った。彼女は野生花を上手く誘いこみ、存分に蜜を吸って帰ってきているようだったからだ。
それでも彼女は私の贈り物に期待してくれているようだった。
ついでに言えば、女中頭の気も静めることが出来た。
執事にも手短に、町で売れ残っている月下美人のような人工花を買いたいとだけ申し出て、後はもう任せてしまった。
それだけで、彼らは満足したようだった。
月下美人のような人工花という存在は、長らく、先代の女神の象徴でもあった。同じ花を持つ事を決めた私の決意に、彼らは何を抱いただろう。
何でもいい。
それはどうせ私には関係のないことだ。
ともかく、私はこの城に相応しく、蝶の蜜吸いを緩和できるような花が欲しかった。娘であろうと、青年であろうとどちらでもいい。
数週間かけて、よい返事は返ってきた。
執事が当てにしたのは、月下美人に近い血筋を長らく守ってきた花売りの家だった。この年の市場で一人だけ余った少女がいるという。決して悪い特徴があったわけではなく、高価すぎて誰も手を出せなかったのだと。
――少女。
私はふと肖像画を思い出した。
私が幼い頃に蝙蝠に襲われて枯れてしまった花の女性。かつて、母に愛されて、この城を彩っていた美しい花。
月の光のように白い髪と、血潮そのものの赤を秘める目。
その姿が深く脳裏に焼きついた。
町とこの城との距離はそう短くない。
決してあっという間ではない待ち時間を、私は蝶と共に過ごした。彼女はきっと人工花の事など半信半疑だろう。
それでも、楽しみにはしているようだった。
私も楽しみだった。
母の愛した種族の人工花とは、どんな生き物なのだろう。
そして、その答えが辿り着いた時、私は内心驚いていた。
――似ている。
この城に仕える誰もが思ったかもしれない。
真っ白な髪に真っ赤な目。怯えるように花売りの青年に付き従うその人工花の少女は、肖像画の中で微笑む十二歳の少女にそっくりだった。
他人の空似とでも言うのだろうか。
いや、彼らは同じ始祖を持つ者同士だ。そもそも、似ているのが当り前なのかもしれない。それにしても、似ていた。肖像画の少女の末路が悲惨だった事実が怖くなるくらい、彼女はよく似ていた。
蝶を呼び寄せてみれば、彼女は途端に惚けてしまった。
勿論、惚けたのは花売りも一緒だ。
彼は明らかに緊張していた。自分の連れてきた人工花の目利きをする者が、常日頃目の敵にしている胡蝶とあれば当然かもしれない。
だが、彼も商売人だ。
内に秘める警戒を決して言葉には出さずに、蝶の言葉をじっと待っていた。
そして、決断は下った。
安いわけではないその人工花の少女を購入する事になったのだ。花売りはホッとしているようだった。
「華、という名前は仮の名前です」
帰り際、花売りの青年は言った。
「もしお気に召さなければよい名前をお付けくださいませ」
丁寧に礼をして、彼は言う。
「では、あの子をよろしくお願いします」
「遥々、有難う」
私が言うと、彼はちらりと澄んだ眼をこちらに向けた。だが、それも束の間、若い使用人に連れられて、彼は城を後にした。
その背を軽く見送ると、私はゆっくりと華と蝶が二人きりで待っているはずの温室へと向かった。
高価すぎて売れなかった人工花がどうなるのか、本で読んだことがある。
まだ幼さの残る彼女には猶予があっただろうけれど、それでも、十七、八までに売れなければその花は次世代に血を繋ぐための道具となってしまう。
彼女には既に名前が付けられていた。
名前が付けられるのは、半分ほどそのような運命が決まりかけていた証拠なのだろう。
――華。
そのままの名前を、私はこれからも使うことにした。
さて、温室に辿りついて、私は開けるのを少し躊躇った。華からは私にも分かるほどの匂いが漂ってきていた。
蝶は理性を保てているだろうか。
その心配を余所に、私がノブに手をかける前に扉はいきなり開いた。
「月――」
出てきたのは蝶だった。足音でも耳にしたのだろう。
華は窓辺で外を眺めている。その姿が見えたのは一瞬で、蝶はすぐに外に出て、華を中に残したまま扉を閉めてしまった。
私が何か問う前に、蝶は私に抱きついてきた。
ふわりとした温もりが、私の身体に沁み込んだ。夜、眠っている時に、よく伝わってくる温もりとあまり変わりない。
「ありがとう」
蝶は言った。
「嬉しい」
見上げてくる蝶の眼は潤んでいた。
けれど、まだ蜜は吸っていないようだ。蝶からはまだ濃い蜜の匂いは漂ってこなかった。
それでいい。この子は随分と理性的な胡蝶だ。
長旅を終えたばかりの人工花、それも、可憐な少女である華が、胡蝶との蜜吸いに耐えられるとは思えなかった。蝶もそれを考慮したのだろうか。ともかく彼女はまだ口をつけずに挨拶に留めたらしかった。
――本当は蜜を吸いたくて堪らないはずなのに。
私はそっと蝶を見つめ訊ねた。
「華の事は好きになれそう?」
「とっても」
蝶は答えた。
とても愛くるしい表情だった。
「だから、大切にするわ」
鈴を転がすような声が私の耳を優しく撫でる。
胡蝶はいつもこうやって野生花を魅了しているのだろうか。その力はどうやら女神である私にも通用するらしい。
私は静かに蝶の愛くるしさを受け止めていた。
「しばらくは会わせられないと思う」
私は蝶にその事実を告げた。
蝶は黙って肯いた。それも承知済みの事らしい。
「ここの環境に慣れるまで、我慢できるか?」
「出来るわ」
蝶はしっかりと肯いた。
「その間、華の様子を教えてね」
微笑みつつ願ってくる彼女に頷かずにはいられなかった。
◇
目まぐるしく時間は過ぎ、いつしか蝶は華の蜜を毎朝吸うようになった。
蝶の顔色は日に日に良くなり、ひと目見ただけで人間までもの心を掴むほどの愛くるしい娘の姿を取り戻していった。
けれど、蝶の森遊びは止まなかった。
彼女はどうしても記憶を取り戻したいらしい。
蝶の愛らしさに現を抜かしつつも、女中頭は度々そのことに対して文句を言った。
「近頃、都では胡蝶の標本が流行っているようです」
彼女も彼女なりに蝶の事を心配しているらしい。
そこは私も同じだった。
「蝶の衣服には我が城の紋章が刻まれている。装飾品だって……」
「身包みを剥がれたら意味がありませんよ。だから執事は、お嬢様に刺青を入れるようにと申したのです」
この頃になると、さすがに執事も女中頭も蝶の事を「お嬢様」と呼ぶようにはなっていた。だが、扱いは相変わらずだ。
彼らは蝶の事を飽く迄も愛玩だと思っている。彼女の柔肌に刺青を入れろと言ったのは、もう随分と前からだった。
「それはそのうち、蝶に決めさせる……」
やはり私は気が進まなかった。
彼女に無理強いは出来ない。
何故なら、刺青を入れるということは、この城に半永久的に縛りつけるという事になるからだ。記憶を取り戻してから、ゆっくりと決めさせたい。
しかし、そんな私の希望を人間である城の者達は理解出来ないらしい。
「何かあってからでは遅いのですよ?」
女中頭の心配の仕方は、迷子になった犬や猫に飼い主がするものに似ている。
声と表情を受け止めながら、私はぼんやりとそう感じた。
「仮に刺青を入れた所で、飢えた森の者達は気にせず蝶を襲うだろう。今までだってそうだったのだろう?」
「ええ、そうです。でも、それは野蛮なケダモノだけですよ。人間達は誰だって貴女のことを恐れております。衣服だけでなく、身体にまで刺青があれば、間違いなく彼らは怯えることでしょうとも」
本当にそうなのだろうか。
私は半信半疑でそれを聞いていた。
だが、もしも蝶がずっとここにいるつもりならば、いつか刺青を入れなくてはならないのも確かだった。
少なくとも、華には入れることになっている。もう少し大人になってからの話ではあるが。
それは、私の死後も彼らがこの城で保護されるために必要なものなのだ。衣服や装飾品は偽れるが、我が城ゆかりの刺青は偽れない。
城の者達に絶対的な約束を残して私は死ねる。
その為になら、彼女のあの柔肌にも刺青を入れることが出来る。
私の記憶には全く残っていない華によく似たあの肖像画の人工花もまた、そうした刺青を入れられていたらしい。彼女の管理も私に引き継がれ、財産として終身この城に住まう予定だったという。
生きていれば、四十歳前後だろうか。
人工花の寿命は短くは無い。事件さえなければ、十分まだ生きていた事だろう。
私が先に死ねば、華もまた私の娘に引き継がれることになる。それは、私があの哀れな人工花にしてやれる最大の守護でもあった。
では、蝶はどうするべきか。
死にたくは無いが、だからと言って何もしておかないのは愚かすぎることだ。
蝶が記憶を取り戻したら、或いは、記憶を諦めてずっとここにいるという決断を下したら、持ちかけるつもりだった。
「ともかく、今はそっとしておいてやってくれ……」
気だるさを抑えて言うと、珍しく女中頭は小言一つ残さずに、溜め息だけ吐いて私の部屋を出て行った。
◇
毎晩、私は寝室の窓辺より森を眺めていた。
行ったことのない森。
毎日、蝶が足を運ぶ生まれ故郷。
そこに何があって、何がいて、何が起こっているかを知れる手掛かりは、人間達の記した本と、毎日散歩している蝶の話以外になかった。
華が来てから、私と蝶はお互いの話を交換するようになっていた。
蝶は森で見た景色や記憶について、私は蝶がいない間の華の様子について。別にそう約束して決めたわけではなかったけれど、なんとなく私達は話を交換するようになった。
蝶の話を聞きながら、私はいつも外を眺めていた。
空を見たり、森を見たり、庭を見たりと様々だった。
夜は静かな世界が広がっているけれども、窓からは様々な音が聞こえてくるし、庭にも度々訪問者があった。
ごく当り前の獣であったり、妖精であったり、野生花であったり。
特に私が最近見かけているのは、野生花だ。それも、同じ個体をよく見かけるような気がする。少年に見えるが、遠目でははっきりと分からない。ただ、短い銀髪は月明かりによく映え、暗闇の中でも目立った。
華に少しだけ雰囲気が似ている。
彼……と断定していいかはともかく、その野生花はいつも華のいる温室を覗いているようだった。
囲われている仲間に興味を抱いているのだろう。
――まあ、よくあることだ。
私は視線を外し、蝶の話を耳に収める。
蝶は隠すことなく私に様々な事を話してくれる。話を聞いているうちに、この胡蝶の娘は、私が思っているよりもちゃっかりとしていて、その反面、向こう見ずであることが伝わってきた。
やはり、執事や女中頭の言うことも尤もなのかもしれない。
そんな事を想いつつも、私はどうしてもこの自由気ままな胡蝶を縛る事が出来ないままでいた。
蝶はしばしば夜泣きをする。
具体的には思い出せない記憶が波となって押し寄せているのだろうか。そんな時の彼女には、話しかけてもはっきりとした反応は得られない。
まるで幼児にでもなったかのように彼女は拙い声で「死にたくない」と呟く。その姿は、昼間の蝶とは全く違うものだった。
私がそっと抱き寄せて撫でてやると、蝶はやがて眠りに戻る。
そんな夜の記憶が普段の蝶にあるかは分からない。
けれど、彼女の身体には見えない所にも深い傷が残ってしまっているようだった。笑いながら、もしくは無表情に、取り戻した記憶や森での記憶を私に話してくれてはいるが、彼女はとても繊細で壊れやすい。
そんな彼女を放ってはおけなかった。
「ねえ、月……」
窓辺にだけ目をやっていると、ふと蝶が後ろから私に抱きついてきた。
突然の事に少し驚いて振り返ると、蝶の潤んだ目とまともにぶつかりあった。
「あたし、ずっと月と一緒にいたい」
その愛くるしい声を耳にした時に感じたのは嬉しさだろうか。
動揺には違いなかった。
けれど、その種類が自分でも分からない。分からないまま、私はそっと蝶の頭に手を置いた。
「ありがとう。私も――」
言いかけて、その目から視線を逸らし、再び窓辺へと目をやった。
この先を言うことはやめておこう。出来ない約束に繋がるかもしれないのだから。私はそっと蝶に言おうとした言葉をしまいこんで、ただ一言、呟くように告げた。
「そろそろ寝なさい」
ふと、窓の外に新たな人影が増えている事に気付いた。
私は視線を奪われた。とても美しい女性の顔をしている事が、月の明かりによってあばかれたからだ。
ぼんやりと眺めていると、蝶が抱きついたまま訊ねてきた。
「月はまだ寝ないの?」
「――いや」
なんとなくその人物が気になった。
人間によく似ているが、魔物でもなければ、妖精とも少し違うように見える。女のようだが、とても背が高く、中性的にも見える。ただ、不思議な雰囲気はこちらにも漂ってきた。私をじっと見ている気がして、なんとなく視線を外せなかった。
驚くほど美しい姿をしている。
あれに言葉を当てはめるなら何だろう。
――魔女。
それがぴったりかもしれない。
何故だろう。その魔女を初めて見た気はしなかった。何処かで会った気がする。何処かで彼女を見た気がする。
でもそれはきっと、恐ろしいほど昔の事だろう。
「月?」
窺うような蝶の視線を感じて、私はハッと我に返った。
「どうしたの?」
同じく窓を覗きこもうとするのを遮り、私は窓辺から離れた。
なんとなく、あれに蝶の姿を見せてはいけないような気がした。或いは、蝶にあれを見せてはいけないような気がした。
「なんでもない」
不安がる蝶を引っ張りよせて、私は窓のカーテンを閉めた。
「私も寝るよ」